恋の実、たべた?

午後野つばな

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 カフェで緒方と別れた後、日下は画廊に戻ると、いつも通り仕事をこなした。何事もなかった顔をして筧と言葉を交わし、日々の雑務を片付ける。時折ふと我に返るように自分が空っぽになった気がしたが、こんなこと何でもない。
 これまでずっと何も見ない振りをしてきた。この先だって同じようにできる。徹への思いに気づかない振りをして、何もなかったようにいままで通り過ごせる。徹にとって本当に大切だと思える相手と出会えるまで、ただの叔父と甥としてやっていけばいい。そうだ、きっとできる。
 夕暮れの中、どこかの家から夕飯を作る匂いが漂ってくる。今夜のメニューはカレーらしい。徹が作るカレーは牛肉がとろけるほどに柔らかくて、この時期は夏野菜がふんだんに入っていておいしい。
 久しぶりに徹の作ったカレーが食べたいと思いながら、明かりの灯る家の鍵を開け、三和土で靴を脱ぐ。
「衛さん、お帰り」
 キッチンでサラダを作っていた徹が廊下に佇む日下に気がつき、振り向いた。知性あふれるその瞳が日下を見て、ふっと微笑んだ。
「今夜は衛さんの好きなカレーだよ。あともう少しでできるから待っていて」
 タイマーが鳴る。徹は圧力鍋の蓋を開けると、中身をかき混ぜた。ふわりとスパイスのいい香りがした。さっき、日下が食べたいと思った徹の作ったカレーの匂いだ。
 ――徹が好きだ。
 ふいに、胸を突かれるような強さで、気持ちがあふれる。これまで見ていた世界が180度変化したみたいに、徹のまわりだけがきらきらして見える。もう自分の気持ちに嘘をつくことはできなかった。徹への思いに気づかない振りをして、これまで通り何もなかった顔をして過ごすことなど不可能だ。
「夏野菜ももう終わりだね。スーパーの野菜売場に、少しずつ秋のものが入ってきたよ」
「徹。お前、この家を出ろ」
 突然の日下の言葉に徹は一瞬だけ動きを止めたが、すぐにいつもの調子を取り戻しさらりと流した。
「はいはい。俺のためにならないって言うんでしょ。前にも言ったように、俺はいまのままで何も問題ないよ。そうだ、衛さんに郵便が届いていた。部屋に置いておいたよ――」
「引っ越し費用が足りないなら、足りない分を僕が出してやる。姉さんには僕から話をする。だから大学の近くでも何でもいい、新しく住む場所を見つけてこの家を出ろ」
「衛さん……? 何かあった?」
 ようやくいつもの口先だけのやり取りではないと気づいた徹が手を止め、日下を振り返った。その目が日下の真意をはかるようにじっと見る。蛇口からぽたんと水音が垂れる音がした。
「何もない。前から言っていることだ。いい加減、この家から出ていってほしい」
 少しでもおかしな態度をとったら、徹はきっと日下の言葉に疑いを抱く。だから日下は心を消したまま、徹から目をそらさなかった。
「嘘だ。衛さんは嘘をついている」
 先ほどまであった距離をつめられて、日下は逃げ場をなくす。徹のまっすぐで冷静な眼差しが痛い。頼むからこれ以上追いつめないでほしい。自分が何かとてつもない間違いをおかす前に。
「何があった? 話をしてくれたら一緒に解決できるかもしれない。いったい何を隠しているの?」
 こんなときまで徹らしい言葉に、日下の口元に徹を馬鹿にしたのではない、皮肉な笑みが浮かんだ。
 どうしたら信じてくれるだろう。お前が思うようなことは何もないのだと、自分の言葉を額面通り受け止めてくれるのだろう。
 日下の表情を誤解したらしい徹がわずかに眉を顰める。それを見て、日下はふいと視線をそらした。
「……何も隠してなんかいない。いいからそこをどけ」
「衛さん?」
 手を伸ばしたら、すぐ触れられる距離に徹がいる。日下が望めば、徹は自分のことを抱きしめてくれるかもしれない。そのことに耐え切れず、日下は自分のつま先を睨むようにじっと見つめる。
「この間のキスが原因? あの夜から衛さん、俺の顔をまともに見ようとしない。何でもないような振りをしているけど、明らかに態度がおかしいよね。衛さんは触れたくなさそうだから黙っていたけど、本当はずっと気にしている。俺に悪いことをしたと思っているの?」
 うまく隠せていると思ったことをずばり言い当てられて、日下の頬にさっと朱が走った。
「……自惚れるなよ」
 徹の首にするりと腕を回し、その唇に舌を入れる。驚いた徹が慌てて日下の身体を離そうとするのも構わず口づけを深めると、やがて抵抗していた徹の身体からふっと力が抜けた。その瞬間、勢いよく徹の身体を突き放す。
「衛さん……?」
「いいか、自惚れるなよ。お前とのキスなんて何でもない。いい加減子どものお守りはうんざりだと言っているんだ。せっかくオブラートに包んでやろうと思ったのに、人の努力を無駄にしやがって」
 お前が好きだ。だから僕のことなんて忘れろ。お前の時間を無駄にするな。
「俺が衛さんを思うのは、衛さんにとっては迷惑だってこと?」
 驚いたように目を瞠る徹に、ずきりと胸が痛んだ。日下は胸の下で血を流し続ける心の傷を隠し、冷たく徹を見つめ返した。
 そうだ、悟られるな。冷たく突き放せ。
「だからそう言っている。お前の気持ちには応えられない。お前は僕に構わず自分の道を見つけろ」
 違う。迷惑なんかじゃない。迷惑であるはずがない。
 言い返すこともなくその場に立ち尽くす徹の姿に胸が痛む。お前は何も悪くないと心は叫ぶ。けれど日下は感情を押し殺して、何も感じていない振りをする。
「それともあのキスだけじゃ足りなかったか? いいぞ、最後にいい思い出をつくってやろうか」
 日下は嫣然と微笑むと、徹の首にするりと腕を回した。その手を徹がとっさに振り払った瞬間、日下の心の一部が死んだ気がした。
「あっ、ごめん、衛さん……っ」
 自分のしたことが信じられないとでもいうように、徹が日下に謝る。
 違う、お前は何も謝らなくていい。
 ショックを受けているらしい徹を見ていられず、日下は視線をそらすと、すべての感情を消し去り、冷たく告げた。
「……住むところが見つかるまでは待ってやる。いいか、すぐにこの家から出ていけ」
 床に落ちていた鞄を拾い、徹に背を向ける。ひどい疲労を感じていた。一気に十も二十も歳を取ったようだ。
 我に返った徹が、慌てて階段を上る日下を追いかける。
「衛さん待って。それが衛さんの本当の望み?」
 僕の望み? そんなものは始めから決まっている。お前が幸せになることだ。
 階段の下から追いかけてくる声に、日下は一度も振り返らなかった。
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