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キッチンで徹が朝食の支度をしている。あれから一週間が過ぎても、徹がこの家から出る気配はない。徹が新居を探しているのか、もしくは単にいい物件が見つからないのかはわからない。あの日から、ほとんど話をしていないからだ。もちろん同じ家で暮らしている以上まったく会話がないのはあり得ない。ただ、一緒にいる時間が極端に減った。リビングでくつろぐこともない。
企画展の準備で、日下の仕事が急に忙しくなったという理由もある。けれどそんなものはただの言い訳にすぎない。そのことをおそらくはふたりとも気がついている。
実際、企画展のことで徹とすれ違いになるのは日下にとっては都合がよかった。いまは冷静になる時間が必要だった。でなければ自分の気持ちに負けてしまう。
徹と一緒にいると、気持ちがぐらついてしまう。あれは本気で言ったんじゃない、好きなだけこの家に居てもいいと前言を撤回したくなる。声を聞くだけで、必死に壁をつくっていた心のガードがほどけてしまう。
徹が自分と話したそうな素振りを見せるたびに、日下は罪悪感がちくりと痛みながら、心を鬼にして徹を避けた。この家を出ていってほしいという自分の気持ちは変わっていないのだと示しながら、冷徹な態度を崩さなかった。
自分がひどいことをしているという自覚はあったが、徹にとってはそのほうがいいと無理矢理自分に言い聞かせた。後になって、きっとこのときの選択が正しかったと思えるはずだ。そのためにはできれば徹がこの家を出るまでは、なるべく彼とふたりきりになりたくない。
企画展の初日は大盛況を迎えた。マスコミにも大きく取り上げられ、日高を始めとする作家たちの作品はもちろん、緒方が作ったプロモーションもなかなかの評判だ。
「衛さん、もういくの?」
靴を履き、家を出ようとしていた日下に気がつき、徹が玄関までやってきた。
「……ああ。開場前にいくつか確認したいことがある」
こっそり抜け出そうとしていたことがバレて若干気まずい思いになりながらも、日下はそのままいくこともできずにその場にとどまる。いくつか確認しなければならないことがあるのは本当だが、黙って家を出ようとしたのはそれが理由ではない。そんな日下の態度に、徹が苦笑した。
「そう。大変だね」
居心地の悪さを感じながら、日下は何も感じていない振りをして磨かれた革靴のつま先をじっと見る。
「それじゃ……」
「あ、衛さん」
視線をそらし、そのまま出ていこうとした日下を徹が呼び止めた。
「すぐに戻るから、ちょっと待ってて」
時間がないからという言い訳を日下がする間もなく、徹はキッチンへと消えると、何かの紙袋を提げ戻ってきた。
「これ、よかったら向こうで食べて。お弁当。簡単に摘めるものにしてあるから」
「な、なんで……」
紙袋に用意された弁当を手渡されて、日下は徹を無視することも忘れてうろたえる。徹が首をかしげるように、日下をじっと見た。胸の奥まで見透かされそうな瞳に、どきりとする。
「衛さん、最近あまり食べられていないでしょう。肩のあたりとか、……ほらこのあたりがゆるくなっている」
時計をした手首に触れられて、息を呑んだ。胸に甘い痺れが走る。それは欲情以外の何物でもなく、その瞬間、日下はどれほど自分が徹を欲しているかを知った。
「離……なせ。僕に触れるな!」
伸ばされた手を、日下は乱暴に振り払う。
「衛さん? 俺はそんな……」
突然態度を変えた日下に、徹が青ざめたような、驚いた表情を浮かべている。いけない、こんな態度を取ったら徹が誤解をする。それなのに、日下はもはや自分を取り繕う余裕さえ持てなかった。
「ご機嫌取りなんかいらない。こんなもの迷惑だ。よけいなことをしてないで、お前は自分がすべきことをしろ。僕に構うな」
日下は紙袋を徹に押しつけると、逃げるようにその場から去った。
企画展の準備で、日下の仕事が急に忙しくなったという理由もある。けれどそんなものはただの言い訳にすぎない。そのことをおそらくはふたりとも気がついている。
実際、企画展のことで徹とすれ違いになるのは日下にとっては都合がよかった。いまは冷静になる時間が必要だった。でなければ自分の気持ちに負けてしまう。
徹と一緒にいると、気持ちがぐらついてしまう。あれは本気で言ったんじゃない、好きなだけこの家に居てもいいと前言を撤回したくなる。声を聞くだけで、必死に壁をつくっていた心のガードがほどけてしまう。
徹が自分と話したそうな素振りを見せるたびに、日下は罪悪感がちくりと痛みながら、心を鬼にして徹を避けた。この家を出ていってほしいという自分の気持ちは変わっていないのだと示しながら、冷徹な態度を崩さなかった。
自分がひどいことをしているという自覚はあったが、徹にとってはそのほうがいいと無理矢理自分に言い聞かせた。後になって、きっとこのときの選択が正しかったと思えるはずだ。そのためにはできれば徹がこの家を出るまでは、なるべく彼とふたりきりになりたくない。
企画展の初日は大盛況を迎えた。マスコミにも大きく取り上げられ、日高を始めとする作家たちの作品はもちろん、緒方が作ったプロモーションもなかなかの評判だ。
「衛さん、もういくの?」
靴を履き、家を出ようとしていた日下に気がつき、徹が玄関までやってきた。
「……ああ。開場前にいくつか確認したいことがある」
こっそり抜け出そうとしていたことがバレて若干気まずい思いになりながらも、日下はそのままいくこともできずにその場にとどまる。いくつか確認しなければならないことがあるのは本当だが、黙って家を出ようとしたのはそれが理由ではない。そんな日下の態度に、徹が苦笑した。
「そう。大変だね」
居心地の悪さを感じながら、日下は何も感じていない振りをして磨かれた革靴のつま先をじっと見る。
「それじゃ……」
「あ、衛さん」
視線をそらし、そのまま出ていこうとした日下を徹が呼び止めた。
「すぐに戻るから、ちょっと待ってて」
時間がないからという言い訳を日下がする間もなく、徹はキッチンへと消えると、何かの紙袋を提げ戻ってきた。
「これ、よかったら向こうで食べて。お弁当。簡単に摘めるものにしてあるから」
「な、なんで……」
紙袋に用意された弁当を手渡されて、日下は徹を無視することも忘れてうろたえる。徹が首をかしげるように、日下をじっと見た。胸の奥まで見透かされそうな瞳に、どきりとする。
「衛さん、最近あまり食べられていないでしょう。肩のあたりとか、……ほらこのあたりがゆるくなっている」
時計をした手首に触れられて、息を呑んだ。胸に甘い痺れが走る。それは欲情以外の何物でもなく、その瞬間、日下はどれほど自分が徹を欲しているかを知った。
「離……なせ。僕に触れるな!」
伸ばされた手を、日下は乱暴に振り払う。
「衛さん? 俺はそんな……」
突然態度を変えた日下に、徹が青ざめたような、驚いた表情を浮かべている。いけない、こんな態度を取ったら徹が誤解をする。それなのに、日下はもはや自分を取り繕う余裕さえ持てなかった。
「ご機嫌取りなんかいらない。こんなもの迷惑だ。よけいなことをしてないで、お前は自分がすべきことをしろ。僕に構うな」
日下は紙袋を徹に押しつけると、逃げるようにその場から去った。
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