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崇嗣さんが起きる前に、一刻も早くこの場から逃げなければとマルが考えたときだった。崇嗣さんの瞼が開き、その目がマルを捉えると、訝しむように細められた。
「……どうして泣いている」
「な、泣いてません」
自分の言葉を崇嗣さんが信じていないことは明らかだった。マルは慌てて瞼を擦ると、にっこりと笑った。
「私は大丈夫です。何も問題はありません」
それで問題は解決したはずだった。普通、人間は機械に感情があるとは考えない。たとえ思ったとしても、人間にとっては大したことじゃないからだ。それなのに崇嗣さんはおかしな顔をした後、ため息を吐いた。その目がマルの嘘を見抜くようにじっと見た。
「はっきり言え。何が問題だ。何が気に入らない」
「わ、私はここにいてはいけないんです!」
声に出した途端、これまで懸命に堪えていたものがあふれ出す。マルは大きな目を瞠ると、震える手で口元を覆った。
気に入らないことなど何もない。崇嗣さんは何も悪くない。悪いのはすべて自分だ。
「元いた場所に戻りたいのか?」
「いいえ……! いいえ……!」
マルは弾かれたように顔を上げると、頭を振った。それから、じっとこちらを見る崇嗣さんの視線の前に、力無くうなだれた。
戻れる場所なんてどこにもなかった。命令に背いた使役ロボットの末路など決まっている。いま自分がこの場所にいるのはいくつかの偶然と幸運が重なったこと、そしてヴィオラの気まぐれが引き起こした結果に過ぎず、いつ終わりがきてもおかしくはなかった。
仮に真実を告げれば、これ以上崇嗣さんに迷惑をかけずにすむ。あなたが助けたのは美しいヴィオラではなく、ただの使役ロボットだと。私はあなたを騙しているのだと。早く真実を告げなければと思うのに、マルはどうしてもその一言が言えなかった。
「よくわからないな」
困惑した声と共に崇嗣さんが上体を起こす気配がして、マルは身体を固くした。
「だったらここにいればいい」
「えっ?」
マルははっと顔を上げた。一瞬何を言われているのか理解できずに、崇嗣さんの顔をじっと見てしまう。
ここにいてもいい? いまそう言った?
「……私はここにいてもいいんですか?」
あなたのそばに。このままいてもいいと?
「だからそう言っただろう」
あまりに見つめていたせいだろうか、崇嗣さんはばつが悪そうな表情を浮かべると、視線をそらし、不機嫌そうに言った。ギシリとベッドの片側に体重がかかる音がした。
「すぐ朝食にする」
崇嗣さんが部屋から出ていってしばらくしても、マルはその場から動けずにいた。ゆっくりと首を動かし、ほっそりとした足を床に下ろす。素足の裏側に、フローリングのざらついた感触を感じた。さきほどまで暗く陰っていた部屋は、朝の光に包まれていた。天窓から差し込む光に、小さな埃が踊っているかのようにきらきらときらめく。フローリングの床に、ぽたりと滴が零れ落ちた。
部屋の片隅に置かれた鏡に、新しい自分の姿が映る。人間と寸分違わぬ肉体を持ち、目にする者すべてを虜にしてしまう美しいアンドロイド。この瞳も、滑らかな肌も、すべてが他人のものだ。自分のものではない。
これまで一度も他人の人生を羨んだことはなかった。別の生き方があることなど考えたこともない。人間の幸せだけを望み、そのことに疑問すら感じたことのなかったマルは、いま初めて自己を持ち、崇嗣さんのそばにいることを選ぶ。この幸せな時間はまやかしで、いつまでも続くものではないとわかっていても。
ごめんなさい……。
マルは心の中で呟くと、瞼を拭い、崇嗣さんのいる部屋へと向かった。
「……どうして泣いている」
「な、泣いてません」
自分の言葉を崇嗣さんが信じていないことは明らかだった。マルは慌てて瞼を擦ると、にっこりと笑った。
「私は大丈夫です。何も問題はありません」
それで問題は解決したはずだった。普通、人間は機械に感情があるとは考えない。たとえ思ったとしても、人間にとっては大したことじゃないからだ。それなのに崇嗣さんはおかしな顔をした後、ため息を吐いた。その目がマルの嘘を見抜くようにじっと見た。
「はっきり言え。何が問題だ。何が気に入らない」
「わ、私はここにいてはいけないんです!」
声に出した途端、これまで懸命に堪えていたものがあふれ出す。マルは大きな目を瞠ると、震える手で口元を覆った。
気に入らないことなど何もない。崇嗣さんは何も悪くない。悪いのはすべて自分だ。
「元いた場所に戻りたいのか?」
「いいえ……! いいえ……!」
マルは弾かれたように顔を上げると、頭を振った。それから、じっとこちらを見る崇嗣さんの視線の前に、力無くうなだれた。
戻れる場所なんてどこにもなかった。命令に背いた使役ロボットの末路など決まっている。いま自分がこの場所にいるのはいくつかの偶然と幸運が重なったこと、そしてヴィオラの気まぐれが引き起こした結果に過ぎず、いつ終わりがきてもおかしくはなかった。
仮に真実を告げれば、これ以上崇嗣さんに迷惑をかけずにすむ。あなたが助けたのは美しいヴィオラではなく、ただの使役ロボットだと。私はあなたを騙しているのだと。早く真実を告げなければと思うのに、マルはどうしてもその一言が言えなかった。
「よくわからないな」
困惑した声と共に崇嗣さんが上体を起こす気配がして、マルは身体を固くした。
「だったらここにいればいい」
「えっ?」
マルははっと顔を上げた。一瞬何を言われているのか理解できずに、崇嗣さんの顔をじっと見てしまう。
ここにいてもいい? いまそう言った?
「……私はここにいてもいいんですか?」
あなたのそばに。このままいてもいいと?
「だからそう言っただろう」
あまりに見つめていたせいだろうか、崇嗣さんはばつが悪そうな表情を浮かべると、視線をそらし、不機嫌そうに言った。ギシリとベッドの片側に体重がかかる音がした。
「すぐ朝食にする」
崇嗣さんが部屋から出ていってしばらくしても、マルはその場から動けずにいた。ゆっくりと首を動かし、ほっそりとした足を床に下ろす。素足の裏側に、フローリングのざらついた感触を感じた。さきほどまで暗く陰っていた部屋は、朝の光に包まれていた。天窓から差し込む光に、小さな埃が踊っているかのようにきらきらときらめく。フローリングの床に、ぽたりと滴が零れ落ちた。
部屋の片隅に置かれた鏡に、新しい自分の姿が映る。人間と寸分違わぬ肉体を持ち、目にする者すべてを虜にしてしまう美しいアンドロイド。この瞳も、滑らかな肌も、すべてが他人のものだ。自分のものではない。
これまで一度も他人の人生を羨んだことはなかった。別の生き方があることなど考えたこともない。人間の幸せだけを望み、そのことに疑問すら感じたことのなかったマルは、いま初めて自己を持ち、崇嗣さんのそばにいることを選ぶ。この幸せな時間はまやかしで、いつまでも続くものではないとわかっていても。
ごめんなさい……。
マルは心の中で呟くと、瞼を拭い、崇嗣さんのいる部屋へと向かった。
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