菫の香りをひた隠し

麻戸槊來

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菫の香りをひた隠し

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雪の名残をのこす町で、最近知り合った顔なじみと待ち合わせしていた。

彼には家のお使いで酒屋に訪れていた時に、たまたま酔っぱらいに絡まれたところを助けてもらい、こうして待ち合わせる仲になった。年頃の娘が婚約者でもない異性と親しくするなんてと、眉を顰める人もいる。
けれど比較的年齢が近かったこともあり、穏やかな彼とは不思議と気が合った。住む世界は違けれど、時間を忘れて話し込むこともしばしばだった。

「そろそろ、スミレが咲くころになりましたね」

「えぇ、スミレを見ると僕なんかは、以前に一度食べさせてもらった『冬水ようかん』を食べたくなります」

確かに、スミレが咲いている時期頃に販売しているものだとはいえ、あまりに食欲に偏る思考に笑みをこぼす。今でこそスミレの香りをまとう流行は落ち着いたけれど、私は母の影響で未だにハンカチーフへスミレの香りをつけている。

こうしていると、ふさぎ込んでいるような時でも、少しだけ気分が浮上するのだから不思議だ。
入れてある容器も素敵で、ハイカラなそれは見ているだけでも気分が上がる。そうだというのに、彼には食欲を刺激される香りでしかないのかと思えば、笑ってしまう。

「あら、貴方だったらポークカツレツの方が、よろしいんじゃありません?」

「違いありませんね」

見た目に似合わずよく食べる彼が、美味しそうにカツレツをほおばる姿が容易に浮かぶ。
くすくす笑いあう私たちに、「そこのお熱いお二人さん!うちのあいすくりんでも食べて、ちょっとはのぼせた頭を冷やしたらどうだい?」なんて、店の売り子が声をかけてきた。そんな風に周りには見えているのかと思えば恥ずかしくはあったけれど、嬉しくないはずがなかった。彼は特段目を引くような色男ではないのだけれど、清潔感のある装いの彼は素敵に映る。笑った時に見えるえくぼがちょっと可愛くて、そんな彼とお似合いだなんて冷やかされて、顔から火が出る思いだった。

「あそこの、純喫茶であいすくりんでも食べませんか?」

「ふふっ、いいですね」

すっと差し出される手を取り、ゆっくりとした動作で私たちは歩き出した。
今日は彼と逢う最後の日なのだからと、とびっきりのおしゃれをしてきた。―――私は今日、彼に別れを告げようとしている。





*  *  *  *  *  *  *  *

 



彼に別れを告げてから、数か月が経過していた。

連絡方法なんてありはしないのに、彼とよく待ち合わせをした橋の近くを通る時は、つい姿を探してあたりをうかがってしまう。紺色に襟章をつけた人を見かければ、もしや彼が私の住所を知って手紙を送ってや来ないかと有り得ない空想に耽ってしまう。住所も教えていないのに、手紙が来るなどありえない。
第一、彼は私のことなど忘れたであろう。そんな切ない春になり始めの、まだ少し冷たい風が吹く夜分。突然虫の知らせのようなものがあり、窓を開く。無防備にもこんな時間に窓を開いているなど、家人に知られたら怒られそうだと考えたところで仰天した。
なんと、何度も思い浮かべたその人が、手を伸ばせば届く距離にいたのだ。

「こんばんは、お嬢さん」

危うく大声で助けを呼ぶところだったと、睨み付ける。こんな夜更けに、彼は何をしているというのか。
そもそも、我が家は一軒家で梯子など当然外にはない。どうやって上ったのかと思えば、不自然に庭先の木がたゆんでいてすべてを察した。どうやら、木から窓枠まで飛び移ったらしい。

「貴方は、私を驚かせてどうしようというのですかっ」

「突然にお部屋に参上したことを、怒ってらっしゃいますか?」

「当たり前でしょう!」と、出かかった言葉を、なんとか口にせず済んだのは、ここ最近重ねている我慢のたまものだと思う。全体的に紺色の装いは闇夜に紛れ、きっと隣の家の玄関先に立っていてさえ気づかなかっただろう。こうして、二階の自室の窓際に現れた侵入者を、危ないからと自ら引き入れたとなっては、外聞も悪い。どうか家族や使用人には見つかってくれるなと怯える私に、彼の問いはあまりに穏やか過ぎて憤慨する。

「いいえ、貴方様に怒りなど感じておりません」

「そうですか。それを聞いて、安心しました」

こちらの気持ちなど知る由もなく、いっそにこやかともいえる表情で笑顔を見せる。それで「町で逢う貴女はいつも洋装だから、このように着物を着ていると新鮮ですね」なんて褒められても、無邪気に喜べるような状態ではない。

緩く振った首に安心して、一歩近づいてきた彼をけん制するかのように足を引く。
彼と約束している時は、決まってめかしこんでいた。大抵そういう時はワンピースを着ているから、自らのはしゃいだ心を指摘されたようで、極まりが悪くて視線をそらしながら牙をむく。

「……ですが、貴方様はとても頭が切れる方だと、忘れていた自分を恥じてはいます」

どうして、町でしか逢ったこともなく、家を教えた覚えもない彼が、こうして非常識な時間に姿を現したのか。疑問に思ったのはわずかな間だけであった。

以前に私は、彼に自分の部屋からは桃の花が良く見えると、聞かせていたのを思い出したのだ。近所まで彼に送ってもらったことがあるし、ここいらには桃の花の植えられた二階建ての建物は珍しい。そういったことから彼が私の家を割り出しても、何ら不思議はないけれど、それは私にとって非常に苦々しいことだった。つい先ほどまで手紙の一つでもあればと考えていたけれど、現実には起こりえないから悠長に考えられていたことだった。実際に目の前に姿を現されたら、とても冷静にはいられない。

「すみません。昔から悪知恵だけは、良く働いていたものですから」

「そのようですわね」

相手はこちらの張りつめたような、イライラした雰囲気と似つかわしくない、柔らかな微笑みを見せる。彼はどうして、犯罪まがいのことをしながら、一見優雅とも思える表情を浮かべているのか。
自分がもう眠りに就こうとしていた時分、彼は突然部屋に現れた。もしも気が変わり、私が叫び声をあげようものなら、家の者に捕えられても文句の言える立場ではない。

なにも、彼を罪びととして捕えたいわけではないのだ。
……それでも、そんなこちらの気づかいは彼を喜ばせ、逆効果になっていたのかもしれない。していることは情熱的なのに、普段の穏やかな様子が崩れることがない。

「私はこの前、貴方様とはもう二度と、逢わないと申したはずですが?」

私は、出来るだけ冷静な声を出すよう、心掛けた。
ギュッと手を握り締めて、何とか正気を保たなければと自らを律する。いっそ彼を怒らせて帰らせてしまえばいい。そうすれば私も諦めがつくし、彼のためにもそうすることが一番だ。
血がにじむような思いで厳しくつれない対応をしているのに、返るのはまたしても彼の微笑みだった。

「それが納得できないから、こんな夜分に婦女子のお部屋に参上しているのですよ」

その穏やかさは、いっそ恐ろしさすら感じてしまう。
もう一歩引いた足は、彼の半歩でたちまちなかったことにされてしまった。

「あんなふうに、一方的にもう逢わないと言われて、納得するとでも思っていたのですか?だとしたら、それは思い違いです。―――俺は貴女を、そんな事では諦めない」

だんだんと目の前の青年が、自分が想っている以上に怒っているのだと感じられてきた。
それは、徐々にピリピリとした視覚ではとらえられないもので攻撃されているようで、彼の目から思わず目をそらす。
こんなに優しい人を怒らせるようなことを、自分はしてしまっているのだと思うと、やりきれない気持ちでいっぱいになる。

―――それでも、こちらにも選択肢などもう。ありは、しないのだ。

「何と言われようと、もう私は貴方様には逢いません」

今度は、しっかり目を見て宣言した。
迷いなどないし、疑問の余地もない。覆ることなどないのだと、はっきり自らも確信したくて瞳に力を込めた。

「どうしても合わないとおっしゃるなら、その理由を聞かせてください」

「理由?理由など聞いてどうするのです。それさえ聞かせれば、納得してここから立ち去ってくれるとでも?」

「納得するかは分かりませんが、多少の満足感は得られるかもしれませんね」

口では軽い物言いをしていても、なかなかその真意は切実だった。
本当のことなど、彼に言えるわけがない。他の赤の他人だったら気にしないかもしれない事でも、彼にだけは絶対に告げたくはなかった。いえない言葉を無理に飲み込んで覚えた違和感も、胸に沈める。

「お願いです。お願いですから、もうこのような危険なことは二度となさらないでください」

「危険なんて、おたくの庭にある大木から、足を滑らしそうになったくらいのものですよ」

笑いまぎれに語られた出来事は、軽く聞き逃すにはあまりに衝撃的過ぎた。
この部屋に現れた瞬間から飄々とした彼のことだ。きっと着物を羽織っていても、軽々木でも伝ってきたのだろうと高をくくっていた。それなのに、予想以上に彼は危険を冒していたようだ。

「お願いです。お願いですから、このような危険なことはもう二度となさらないでください。そうすれば私も、自ら貴方様に逢いに行くようなまねは致しません」

祈るように語る此方へ、彼は困惑の表情を隠さず手を伸ばしてくる。

「何故、何故貴女はそのようなことをおっしゃるのですか?俺の賤しい身分が貴女様の人生の邪魔になると危惧してのことですか?そうだというのなら、ただお傍にいさせていただくだけで良いのです。……どうか、俺のわがままを聞きうけてください」

何を、この人は馬鹿なことを言っているのだろう。
一瞬にして、頭に血が上る感覚がする。それにあらがうことなく、感情のまま浮かんだ言葉を口にする。

「そのようなっ、そのようなことを、もう一度でも言って御覧なさい!私は貴方の事を許しはしませんよっ」

「…………」

「私の想いを寄せた御方は、何時だって自身に誇りを持っておられました。それなのに、どうして生まれなど関係があるでしょうか!私は貴方自身を好きになったのです」

「―――それは、愚かで臆病な僕の本音を聞いても尚、同じだと言って貰えるでしょうかね」

しばらく黙りこんだ彼は、静かにそんな言葉を口にした。
月も雲間に隠れるような夜更けには、二人の呼吸音と降り出した雨の音しか聞こえない。これ以上、彼を引き留めてはいけないと理性は訴えかけるのに、これで顔を見るのが最後になってしまうのかと思えば、開きかけた口は沈黙を守ってしまう。時折隙間から入り込んでくる風が冷たくて、着物越しに感じた冷気に体を震わせる。





自分の軽はずみな言葉が悪戯に彼を傷つけたことが、辛くてしょうがなかった。
本当はあそこで「そうよ、貴方のような市井の方とは付き合えないわ」なんて、悪女めかして言ってしまえばよかったのだろう。だけれども、一生懸命「経営を学んで、家族を楽させたいのだ」と語る彼を、その信念を否定するようなことは、口にしたくなかった。

元はと言えば、自分の思慮が足りなかったせいで招いたことだ。
ただでさえ、彼には一方的な決別を言い渡したのに、さらに追い込むようなことをしてしまった。自身の至らなさに、思わず乾いた唇をかみしめる。

「そのように、唇を噛んでは血が出てしまいますよ」

そっと伸ばされた親指に、唇をなぞられてぞくりとする。
思わず慣れない感覚に退こうとしたけれど、顎をつかまれているからそれもかなわなかった。彼はいつも節度ある紳士的な態度を貫いていたから、こんな風に気安く接触されるなんて初めてで混乱してしまう。



こう考えてみれば、町で逢っている時は相当、気遣われていたのだろう。
市井の者であると言いながら、彼が荒々しく声を上げたところなど見たことがない。だからもちろん、喧嘩沙汰になど巻き込まれたこともないし、世間知らずな私が酔っぱらいなんかに絡まれそうになっても、うまく立ち回って庇ってくれていた。

そういう、偉ぶらない所に惹かれたのが、この気持ちを抱き始めた最初だったと思い出す。

「貴女がそのようにおっしゃって下さるから、僕は困難な状況にも腐らずここまでやってこられたのです」

「いいえ、いいえ私などいなくても、貴方はきっと、」

「どうか、みなまで言わせてください。偽りなどなく本当に、貴女がいたからこそ僕は自らを奮い立たせてやってこられたのです。ですからどうか、貴女も僕の大切な人の体に傷などつけないでください」

ゆるゆると焦らすように撫でられた唇には、血がにじんでいたようで彼の骨ばった親指には血がついているのが見えた。何ともなしにその指を見ていると、ぺろりとその指を舐めるのを見せつけられて、何をしているのかとカッとなり腕をつかんだ。

「貴方様は、何をなさっているのですかっ。人の血を舐めるなど、正気の沙汰ではありませんよ」

「いえ、つい……」

「ついで、そんな事やらないでくださいましっ」

自分でも、何を言っているのか分からないほど、混乱していた。
事は一瞬だったというのに、赤い舌が出て指から血をなめとるまでの刹那の光景が、目に焼き付いたように離れなかった。まるで、とんでもなくいやらしい光景を見てしまった気になって、そんな自分の思考を恥じた。

「嗚呼、またそうやって唇をかみしめる。あまりご自身を傷つけるようなら、今度は直接出血箇所を舐めとりますよ?」

自らの疾しさを言い当てられた気になって、からかわないでと言いかけたところで目を見張る。そこに彼の悪戯な瞳などはなく、本当につらそうに痛々しく顔をゆがめていたのだ。

どんなにつらい目にあっても、弱音一つ吐かない彼のそんな様子は、素直になるには充分な威力があった。

「っごめんなさい」

「いえ、いいのですよ」

「ちがっ、ほん、とに、ごめん……ごめんなさいっ」

「何かあったのですか?」

「だって、貴方はいつだって私に優しく親切にしてくれたのに、私は自分の心を偽っていました。自分が傷つかないようにとそればかり考えて、あんなこと微塵も思ってやしないのに!」

何度御免と謝ってみても、一向に許される気はしなかった。
こうして謝っていることですら、本当は彼に許しの言葉を貰いたいから口にしているように思えて、そんな浅ましさで更に嫌気がさす。彼に真実を告げないのは、相手へおもりを背負わせないためだと自分を納得させていた。……けれど、実際の私は小さく震える子どものようで、彼へ背を向けられることに怯えて逃げ出したのだ。『何も言わない』という、ひどく幼い方法を選んで。

「―――私は、病にかかってしまいました」

はっと、息をのむ音が聞こえた。

拒絶に耐え切れず、思わずその場にしゃがみ込んだ。泣いて泣いて、足から力が抜け落ちた。それこそ癇癪を起こした子どものように、肩を震わせ嗚咽を上げて。何とか彼へ本当のことを伝えようと、最後の誠意を見せようと声を絞り出す。

「はじ、めは症状が軽く、すぐに治ると周囲も考え自由に外出できました。……けれど、考えていた以上に病状は悪化し、両親は慌てて結婚話を取り付けました」

「……跡取りが欲しいのでしたら、僕にだって可能性は、」

「いいえ、駄目なのです」

ぴしゃりと言い切ったところで、彼が辛そうに眉を寄せたのを見て、無言で否定する。
彼が傷つく必要はないのだと、どうしても伝えずにはいられなかった。

「私の両親は、すでに資産家の後妻として、私を嫁がせる手はずを整えてしまいました。だから……」

「だから?」

「っだから、貴方は、どうか私のことなど忘れて幸せになってください。そして丈夫なお子をお持ちになって」

私が嫁ぐ資産家はすでに二人の息子がいるし、子を産めそうにない私でも問題ないという事だった。初めて会った相手は、自分の父親と言ってもおかしくない年齢で、子どもは必要ないと言いつつも、こちらを見つめる瞳がたまらなく気持ち悪かったと記憶している。めかしこんだ私の体を舐めるように眺め、終始視線が重なることはなかった。おもわず、視線から逃れるため体をひねるような動作をしても、ねっとりとした視線は獲物を甚振るように鈍く光った。

こんな事なら、顔も知らない以前の婚約者の方がましではないかと、想ったことすらある。

けれど現実は残酷で、「金があるから選んだのに、最近ヘマをやらかして事業が傾いたんだ。どうしてそんな奴の所に、娘をやらなきゃならんのだ」そう言い切る父親の瞳は冷たくて、間違っても一人娘の将来を案じているようには見えなかった。完全に、あれは仕事をしている時の顔だ。

ぶるりと思わず体が震えたのは、きっと雨のせいだけではなかった。
こちらの震えを見て取ったからか、しゃがみ込む私を柔らかく拘束する感触があった。

「貴方が幸せになれば、私もうれしいです。ねぇ、だからお願い。何も言わずにこのまま、此処から去ってください」

言葉を重ねるたび、徐々に腕の力が強くなっていくのに恐怖し、祈るような気持で想いを伝える。本当は、「他の誰かと幸せになれ」だなんて、言えるとも思わなかった。だけれども、彼のこんな暖かな体温を感じて、こんなに優しい人をいつまでも苦しめているわけにはいかないと必死だった。

「でしたら、尚のこと貴女とは、離れられません」

思わず、己の耳を疑った。

さも忌々しいと口にされた言葉は、自らが望んだものとは全く対をなすものだ。どんな表情でそんな事を言うのかと顔を窺うと、言葉の通りに顔を険しくゆがめている。

「貴方は俺以外の男と過ごすというのですか?俺以外の子どもを産むと?そんな事、考えたくもないっ」

「えっ……」

「その逆に、俺に貴女以外の女と子どもを作れと?馬鹿馬鹿しい話すぎて、笑えもしませんね」

目を見開くこちらの驚きに頓着することもなく、彼は続ける。
普段から温和な青年が、こんなにも感情豊かに話しているのなど初めて見た。荒い言葉遣いなど、初めて聞いた。これまで、彼のどこにそんな感情が隠れていたのだろうと、首をかしげてしまいたくなる程だ。

青年はすっとこちらに手を差し出し、さらに言い募る。

「この先の人生の隣には、貴女がいてほしい。そして貴女の隣にも僕が居たい」

「…………っ」

「僕の手を、取ってください」

それを聞いて、嬉しいと感じた気持ちを裏切り、首を振る。
そんな提案を受けるなんて、みすみす彼に重荷を背負わせるようなものだ。頷くことなんて、どうしてもできはしない。

「私はこの先、長くはありません。それに父は、そんな事を許しはしないでしょう」

「しかし貴女は、このままこの家にいても幸福など望めないでしょう。命だって、好きなことをしていたほうが、より豊かに長くなりましょう」

うっとりと、自らの言葉に酔うように彼は続ける。
彼のこんな顔は、今まで見たことがなかった。

「嗚呼、お父上が反対なさるのなら、僕と一緒にどこか遠い場所で暮らしましょう」

「でも私は、そのうち貴方を抱きしめるどころか、ただそばにいることも出来なくなりますっ。それを、それを貴方は誰で癒やすの?」

「お嬢さん……」

「どんな人と、どんなことをするのっ?私は嫌よ。だったら届かない人で終わらせた方がマシよ」

きっと、優しい彼のことだ。すぐに相手など見つかるであろう。
病でやせ細り、生命力が徐々に失われる私は、ベッドの上で一人さびしく彼が別の誰かと愛を育むのを見ていることしかできない。いや、もしも運よく私が生きているうちにそういう気が起こらなくても、近い将来必ずそういう日はやってくる。

「何を当たり前のことを」と、失笑すら受けそうなことに絶望しているだなんて、こんな心の狭い女だなんて彼には知られたくなかった。きっと私は、自分が居なくなった後に彼をいやす存在にすら嫉妬しているのだ。

こんな事を考える私は彼にはふさわしくないから、早く背を向けて立ち去ってほしかった。
これ以上優しくされたら縋ってしまうし、冷たくされるのも耐えられないという、愚かな感情に支配されていた。

このままではらちが明かないと、すくむ足を抑えて立ち上がる。
未だしゃがみ込んだままの彼と視線を合わせることはせず、深々と頭を下げて謝罪した。

「何度も言っているけれど、改めて黙っていたことを謝罪させて……説明もせずに、ごめんなさい」

そろそろ首がきしむのではないかと思えるほど、首を下げて下げて許しを乞う。

自分がどんな答えを待っているのかもわからず、「頭を上げてくれ」という言葉も無視しつづけた。多分私は、彼がこうして無理やり訪ねてこなければ、真実を伝えようとすら思わなかっただろう。振られる勇気もなければ、振る勇気もない。そんなどっちつかずのまま、彼に罪悪感だけ抱かせるのが申し訳なくてしょうがなかった。

「気にしないでもいいんですよ。お互い様なのですから」

「そんな訳にはっ」

「いいえ、良いのです。僕だって、自らを偽って貴女に近づいた、とんだ大ほら吹きなのですから」

どうすれば、彼に負い目を抱かせずに離れることが出来るだろうと、そればかり考えていた。そのせいで急な言葉にうまく反応できず、間抜けであろう表情をさらすことしかできなかった。

「―――えっ?」

何を、貴方が隠していたというのか。
自分の病気を隠していた以上の隠し事など、ある訳がないと否定しようとした私は耳を疑った。

「僕は、貴女の『元』婚約者だった男です」

人は驚愕すると、本当に絶句するのだと、良く回らない頭で考えていた。





しばらく沈黙のなかで二人、雨音を聞いていた。
彼が現れたときはもっと激しい音だったけれど、次第にその音は柔らかいものへと変わっていた。おおよそ会話を邪魔するものには成り得ない音なのに、それは今の二人には穏やか過ぎていっそ違和感を覚えるものだった。

そんな静けさに耐えられなくて、微かに身を捩った私にふっと彼は微笑んだ。
その口から何が飛び出すのかと警戒するこちらにかまわず、相手は何でもない事のように告げる。

「最初は、事業が傾いた途端に破断を申し込んでくるなんて、なんと情のない人たちだろうと憤りました。今回のことは完全に家の責任ではないし、事業を盛り返す手立てならいくらだったあったのに。それなのに、碌に理由も聞かず破談にするなんて、馬鹿にされてだまっているなんて冗談じゃないと」

「それは……とても、申し訳なく思っております」

「えぇ、貴女から直々にいただいた最後の手紙は、とても綺麗な字と美しい言葉の羅列だったので、どんな気持ちでこんな言葉をかけてくるのかと、無性に興味をそそられました」

もしや私は、知らず知らずのうちにとんでもない人に、騙されていたんだろうか?
胸に浮かんだ暗い感情を打ち消すように、彼は言葉を続ける。

「―――けれど、接していくうちにつかんだ貴女の人柄は、とても素晴らしく。次第に噂に上がる病に伏している令嬢が貴女で、どうしてあんなに一方的に婚約を解消されたのか合点がいきました」

何も言葉を返せない私は、彼の目を見つめることすらできない臆病者だ。
一度は嫌われることまで覚悟で別れを告げたというのに、いざ本人の口から恨み言が聞こえそうになると耳をふさいでしまいたくなる。こんな臆病風を吹かしていては、相手の話が終わった時には自分の心の臓はどうなってしまうのだろうと、憂いてしまう。

「ましてや貴女の口から、病にかかった自分など婚約破棄されてもしょうがないなんて、信じられない言葉がでてきて驚きました。嗚呼、この人は何も知らないのだと逆に安堵すらしました」

彼がずっと気になっていた事に触れてきて、驚きに目を見開く。

確かに私は当初、相手方から婚約を解消したい旨を伝えられたと聞いていた。父にそれを聞かされた時はショックを覚えたとともに、重い重責から逃れられるとほっとしていた。現在のこの体では、赤子を産み育てるなんて大役、到底務まるとは思えなかったのだ。
始めこそ、どうして教えてくれなかったのかと父を恨んだが、最後には納得したのだから私も同罪だ。彼に断罪されても仕方がない。

……それだというのに、彼はどこまで言っても彼だった。

「今となっては、貴女のご両親を納得させるだけの利益を得ています。それに、もしも我々のうちに子どもが出来なくても、弟がいるのでそれの子どもにあとを継がせてもいいでしょう」

「で……でも、貴方は子どもが好きだし、自分の子どもが欲しいでしょう?」

「いざとなれば、嫁いだ妹には息子が二人います。その一人を養子にしても良いし、どうとでもなります」

「そんなっ、私のために何もそこまでしなくても……」

「そこまでしたいほど、貴女と一緒に生きたいんですよ」

嗚呼……私は、きっと彼にこんな事を言ってもらえる資格などない。

それだというのに、どうしようもなく心が震えるのを抑えることが出来なかった。これまで何としても彼を忘れようと頑張り、無理に明るく振舞ったこともある。けれど、結局は忘れられないのだからと、この恋心を抱いたまま三途の川を渡るのだと覚悟していた。



はたして彼が言うような魅力が、私にあるのかは分からない。

―――それでも私は、『彼と共に生きる』という甘い夢のような日々にあこがれ、求めてしまう。

頬を濡らす感触もそのままに一歩足を前へ進めると、そこには満面の笑みを浮かべた彼が待ち構えていた。

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