溺れる私が掴んだ藁は

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本編

〈三〉

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「お疲れさまでした」

 ジョッキを軽く掲げ合う。たいへんな一日だった。テーブルを挟んで向かいに座る篠原さんはいつもどおり山のようにどっしり大きいけれど、いつもよりちょっぴりしおしおで肩が落ちている。
 無理もない。自分の担当でもない案件の尻ぬぐいだもの。そして今朝股間をなでりなでりした痴女(不本意なんだ事故なんだほんとなんだ)と差しで向かい合っているんだもの。落ち着かないよね。ほんとすみません。私もこうしてご一緒していいのかどうか、席に着いちゃってる今も首かしげちゃってるわけで。

 ここは篠原さん宅の最寄りであるK駅前の居酒屋だ。会社を出たのが八時過ぎ、ご飯でも食べて帰りましょうかとなったはいいもののこの時刻に都心で予約なしではなかなかレストランに入れない。結局K駅まできてご飯、というよりお酒をいただくことになった。

「うちの近所で申し訳ない」

 篠原さんは恐縮しているが、そんなことはない。
 課は隣り合っていてヤマさんとランチをいっしょにする機会はしばしばあるものの職務が違う篠原さんとはほとんど接点はない。通勤の路線も違う。でも実はご近所さんだった。となれば私の側の最寄りT駅でご飯にしてもよかったのだが、Tは駅前にほとんど店がない。自然、選択肢の多いK駅前へ移動することになったわけだ。とりあえず、で大手チェーンの居酒屋に入った。ここなら巨漢の篠原さんに鯨飲馬食げいいんばしょくされようとも財布の中身で何とか対応可能だ。たぶん。

「たくさん食べましょう呑みましょう。朝っぱらからすみませんでした、いやその、朝じゃなくてもだめというかなんというかそのあの」
「ほんとうに、今朝の件は気にしないでほしい。事故だから」
「でも小野田さんの案件も……」
「いいんだよ。たまたま手隙てすきだったってだけだから。――何を食べる?」

 唐揚げに枝豆とトマトサラダ、出汁だし巻卵に焼き茄子なす烏賊いか焼きにきのこマリネ、アスパラベーコンにジャーマンポテト。ビール、ビール、ビール! がんがんオーダーした。

「ビールが進むね」

 篠原さんは意外にきれいな箸づかいで次々に、もぐもぐ目の前の料理とビールを平らげていく。私もふだんよりたくさん食べて呑んだ。

 今日は厄日だったに違いない。
 満員電車で篠原さんの篠原さんをなでなでして社会的に死んだ上に「休み直前だから死に体でも楽勝」などと余裕ぶっこいていたらば、よりによってみんな休んでたり出払ってたりのタイミングでうちの課のポカが発覚して、ほんとうなら余裕の定時退社だったはずの篠原さんまで巻き込んでしまった。
 それだけではない。ほぼ二十四時間前に失恋が確定したばかりだ。
 アラサーに片足どころか腰までだっぷり浸かった大人の女だ。わだかまりのひとつやふたつやみっつ、ビールでごっくんし面に出さぬのがお作法。しかしふわふわとした酔いが私の背中を押した。愚痴る方向へ。

「いやー、まさかいきなり失恋するとは思わなくて。辛気くさくてすみません」
「……」

 笑い話にするつもりだったが失敗した。篠原さんはジョッキをテーブルに置き、気遣きづかわしげにこちらを見つめている。

「つきあいはそこそこ長かったんです」

 元恋人とは大学で出会った。何かと集まって遊んでいた仲のよいグループのひとりだったのだ。頻繁に顔を合わせていればグループの中で気の合う者同士がカップルになったりする。ノリがいい者、顔面が整った者から先にくっついていってこりゃあぶれるかな、と故ない焦りに苛まれたころにそんな者同士でつきあいはじめた。当然たいして盛り上がりもしない。それでももともと気は合うし、気心も知れているしでずるずると続いた。

「卒業直前に彼から『どうする?』ってかれたんです」
「どうする、って何を?」
「ほんと、それ。私も同じことをたずね返しました」

 元カレはだいぶ困った顔をして、「オレの地元に来てくれるのかと思ってた」といいだした。
 何をいう。
 同郷ならともかく私の地元は関東の山奥、元カレは中部の出身でだいぶ距離がある。だいたい私は東京で今の会社に勤めることが決まっていた。苦労の末にやっとつかんだ就職口をそう簡単に手放せるものか。

「遠距離恋愛がいやだったんでしょう」
「大学は確か東京だったな。その彼がこっちで就職するという手もあっただろうに」
「ほんとそれ、ですよ」

 喧嘩別れして約一ヶ月後のゴールデンウィーク、元カレはいさかいなどなかったといわんばかりの顔でしれっと会いに来た。その後お互いに行き来して今に至る――はずだった。確かに初めは一ヶ月に一回だったのがだんだんと二ヶ月に一度になり三ヶ月に一度になり、忙しいから、暑いからあるいは寒いからと理由をつけてもとより淡泊なつきあいがますます疎遠になっていった。

「そういえば次はあったかくなってから会おうね、なんていって半年以上経っちゃってたかも」
「だからといって黙ってよそで結婚を決めていい間柄でもないだろう」

 むう、と篠原さんは眉を顰めた。

「あ、あの、ご注文の焼きおにぎりです、――すみません、遅くなってすみません」

 ちょうど席にやってきた店員さんが篠原さんの眉間の皺の深さに怯える。

「ん? ありがとう?」

 礼儀正しく受け取ったんだがどうも店に怒っているわけじゃないということが伝わっていない気がする。
 怖くない。優しい人なのに。
 篠原さんならなあなあのうちに一方的に自然消滅なんてことはしないんだろうな。



 おなかいっぱいでいい気持ちになったところでお開きになった。
 が、ここでちょっともめた。

「食べものも飲み物もあらかたいただいちゃったし、ここは俺が」

 と篠原さんに伝票をぱっと先にとられてしまった。さすが仕事の早い男。

「あのあのあの、今朝のあの、件がその」
「それはもう気にしないでほしいっていっただろう」
「それだけじゃなくそのあの、うちの課がご迷惑をおかけしましたし」
「それはいずれ小野田さんにきっちり詫びを入れてもらう。真籠さんのせいじゃないんだから」

 言い合いながらビルの出口へ向かう。

「……」

 ほんの一瞬だけど目が合った。隣り合って歩いているんだから目が合ってもおかしくはない。でもじっと見つめ合ってしまった。頬が熱くなる。
 学生のころから続いていた(とこちらは思っていた)恋が終わってガードが低くなっているのだという自覚はあった。いいな、なんて思っちゃいけない。この人には今日だけでさんざんに迷惑をかけた。ふわふわ浮ついた気持ちを抱いた私への罰だろうか。
 どっしゃ、ああああああ。
 店を出たとたんに雨が降りはじめた。土砂降りだ。というか、槍でも降ってきたかというくらい大雨、ゲリラ豪雨だ。ここのところ晴れが続いたし今日は雨の予報ではなかったから、傘も持っていない。困った。

「わ、わわー、入ろう、この店、入ろう」

 若者のグループがわらわらと、私たちの出た居酒屋へ吸いこまれていく。「満席でーす」という店員の陽気な断り文句が聞こえてくる。逆戻りして雨宿りというわけにもいかない。
 びちゃちゃちゃちゃちゃ。
 激しい跳ね返りがストッキングに包まれたすねを汚す。あいにくふたりとも傘を持っていない。狭いひさしはろくに雨をよけてくれず、体格が立派な篠原さんはパンツのすそだけでなくすでに半身ずぶ濡れになっている。

「あのあの、ごちそうさまでした、私、帰りま――、あわ、わわっ?」

 帰ります、と言い切る前になぜか私はずべら、と滑った。そして

「だいじょうぶか」

 よろけて庇から出ちゃった私、その私を支えた篠原さんもゲリラ豪雨で全身びっしょりになってしまった。

「……」
「……」

 夏休み直前に失恋発覚。隣の課の強面ガチムチに痴女まがいの事故、バカンス満喫中のアホの尻ぬぐいで残業。助けてくれた篠原さんが案外いい感じだとぽわわんとしたのがそんなにいけなかったのか、駄目押しのゲリラ豪雨。
 どっしゃああああ。びちびちちじょばばばば。

「真籠さん、うちに寄っていって」
「でも」
「近くだから」

 ずぶ濡れの強面がまじめな顔でいざなう。度の過ぎた大雨ってのはあらゆる熱をテンションを、そして常識をも奪ってしまうものだ。

「はい……」

 もうどうにでもなれ。捨て鉢な気分で私はうなずいた。

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