ことばの繋ぎ手

武内れい

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第二章:壊れた日常

消えた一瞬(前半)

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 朝の光は、まだ柔らかく、どこか眠たげな灰色はいいろを帯びていた。ビルの谷間たにまをすり抜けるようにして届いたその光は、駅のホームをあわく照らしている。
 足早に通り過ぎる人々の影をななめに引きながら、今日という一日が、いつものように始まることをげていた。

 中村蒼なかむらあおいは、電車のドアのすぐ横、二人分のスペースに体を寄せて立っていた。小柄な体はランドセルに押されて少し前傾ぜんけいしており、揺れる車内の中でつり革に手を伸ばすにはまだ背が足りない。
 彼はいつもその立ち位置を選ぶ。窓があり、広告があり、スピーカーの音が届きやすく、そして何よりドアの開閉音かいへいおんが耳に心地よかった。

 車内は混雑のピークを迎える一歩手前で、まだ押し合うほどではない。朝のBGMのように、人々の足音、鞄のこすれる音、車内放送、時折ときおり鳴るせきやくしゃみが不規則ふきそくに響く。
 鉄とプラスチックと消毒液しょうどくえきの混じったような匂いが、鼻先に重たくまとわりついていた。

 蒼の目は、天井から吊り下がる広告の間にある路線図に向けられていた。彼は無意識のうちに、その図の中にある太線たいせん細線ほそせんの並び、駅名のフォントの変化、微妙びみょうなレイアウトのゆがみなどを記憶していた。
 昨日との違いがあるか、かすかにでも何かが変わった気配はないか。毎朝の儀式ぎしきのように、目をらす。

 しかし――。

 電車が大きく揺れた、その一瞬。

 蒼の目の前から、世界がすうっと引いていった。

 いや、違う。世界が引いたのではない。周囲の人々が、音もなく、すべて消えたのだった。

 目の前のサラリーマンも、隣の女子高生も、向かいの席に座っていた老婦人も。声も衣擦きぬずれの音も、スマートフォンの電子音も、いっさいが消えていた。
 残されたのは、薄暗うすぐらい車内と、足元に転がる誰かの忘れ物らしいタオルハンカチだけ。

「……え?」

 蒼は声を出したつもりだったが、のどの奥で言葉がくぐもり、音にならなかった。息が白くなったわけでもないのに、どこか空気が冷えていた。
 まるで地下鉄のトンネルの奥、誰も知らない空間に迷い込んだような、底冷そこびえする静けさが車内を満たしていた。

 そして――再び電車がガタンと揺れたその瞬間。

 空っぽだったはずの世界に、また人の声が戻ってきた。先ほどのサラリーマンがスマホを確認し、女子高生がイヤホンを耳に差し直し、老婦人が手にした新聞を折り返す。
 つり革がきしむ音。スピーカーから「次は〇〇駅、〇〇駅……」という電子的な声が流れる。

 すべてがいつもの朝に戻っていた。

 だが、蒼の心だけが、まだそこに取り残されたままだった。

 彼はハッとしてあたりを見渡した。誰も、先ほどの空白の数秒に気づいた様子はない。皆がいつも通りの朝を過ごしている。もしかして、自分が寝ぼけていたのだろうか? 朝が早かったから? いや、でも。

 窓の外に目をやる。電車は高架の上を滑るように進み、隣の住宅地や学校の校庭、開き始めたばかりの商店街を横切っていく。
 光はビルの角を跳ね返り、窓に反射してまた車内を照らす。そこには何も異常などなかった。ただ、蒼の胸の奥には、重たいものがじわりと沈んでいた。

(……あれは、なんだったんだ?)

 彼は内心でつぶやいた。だが、声にはしなかった。誰にも、話す気にはなれなかった。なによりも、あの数秒が言葉にしてしまえば消えてしまうような気がした。

 右手の親指で、鞄の留め具を何度もこする。その小さな音が、自分がまだ現実にいるという証のようで、蒼はようやく少し呼吸を整えた。だが、胸の奥には――得体えたいの知れない違和感が、しんと居座ったままだった。

 彼は気づいてしまったのだ。

 この日常に、ほんのわずかに、ほころびが生まれ始めていることを。
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