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第一章:はじめの一歩
1、静かな朝のはじまり(前半)
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耳に残るのは、電子音と、油がじゅうっと鳴る音。
冷たい床に素足を置いたときの、ほんの少しのひんやりが、目覚めたばかりの私の意識を現実に引き戻す。
まだ空の白みはじめたばかりの時間。時計の針は、五時二分。
スマホのアラームを止めたあと、私は台所へと向かった。
廊下の板が、足の裏にギシリと軋む。音を立てないようにしても、古い家は隠しきれない音を持っている。
朝の台所は、しんと静まり返っていた。
けれど、私が火をつけるよりも前に、鍋の音が小さく耳に届く。
「おはよう、おばあちゃん」
「……もう起きとる。ほんに陽菜はえらいねえ」
卓上のコンロで、祖母が大根の皮を煮ていた。味噌汁じゃない、皮の佃煮だ。昨日の夜に干しておいたものを今朝のうちに甘辛く煮る。
私が朝食を作るついでに、昼のおかずも兼ねておくための作業。祖母は、もう立っていられるほど足が丈夫ではないけれど、座ってできる台所仕事はよくしてくれる。
私はその隣で、卵を割った。弟の弁当に入れる、卵焼き。
彩りを考えて、細かく刻んだピーマンと赤いパプリカを混ぜる。苦手な子も多いけど、うちの弟は野菜をよく食べる方だ。だからちょっと、作るのが楽しい。
油をひいたフライパンに卵液を流すと、じゅっと香ばしい音がして、甘くてしょっぱい香りが鼻に抜ける。
祖母は、静かにうなずいたように鍋をかき混ぜながら、ぽつりと言った。
「今日、天気いいらしいよ。暑なるけんな」
「……じゃあ、畑は無理かもね」
「ま、おばあちゃんは、今日は涼しいとこでキュウリ漬けでもしとくわ」
そう言って、祖母はうっすら笑った。
細い肩。ゆっくりと動く手。
昔はもっとしゃきしゃきしてた気がするけれど、今はこの穏やかな速度が、なんだか好きだ。
それでも祖母の手には、動きに迷いがない。材料と火加減を見ながら、ちゃんとおいしいを目指している。
私はというと、うまく巻けた卵焼きを見て、ちょっとだけ満足する。
小さな達成感。でも、こういうのが、案外大事なんだと思う。
弁当箱に詰め終わる頃、弟が二階からドタバタと降りてきた。
「ねえねー、おなかすいたー!」
「はいはい、ちょっと待って。今お茶碗出すから」
私が茶碗を差し出すと、弟はテーブルにつきながら、祖母の鍋の中をじっと見た。
「それなに? おいしいやつ?」
「昨日の大根の皮。ごはんにかけたらうまいよ」
「うまいのか~……ちょっとこわいけど、たべる」
正直でいいなと思った。
弟はまだ小学三年生。夏になると真っ黒に日焼けして、プール帰りにはTシャツをぺろんとめくって見せてくるような年齢だ。
そのくせ、妙に甘えん坊で、時々は私のことを母親みたいに扱う。
……お母さん。
名前を口に出さなくても、朝になると自然と考えてしまう。
朝が早い仕事で、たぶん今頃はもう出勤している時間。
顔を合わせるのは、週に数回くらい。私の作った弁当を食べているかどうかも知らない。
それでも家族だから、私がやらなきゃいけないことはやる。
弟と祖母の茶碗を並べて、自分の分は後回し。洗い物や片付けが済んだあとに、私はトーストを一枚、ぱくりと口に入れる。
バターの味が口に広がると、ようやく、目が覚めてきた。
そのまま制服に袖を通し、長い黒髪をひとつに結ぶ。畑に行く日は違うけど、今日は学校。授業。人間関係。
気配を感じさせないように、そっと家を出る。
玄関を開けた瞬間、空気が一気に変わった。
朝の風が頬に触れて、田んぼから立ち上る湿った匂いが鼻先に届く。
生温い。けれど、どこか懐かしい匂い。
庭の脇を通り抜けると、朝顔が咲いていた。
少し濃い青。夏の始まりを告げる色。
私は立ち止まって、ほんの数秒、それを見つめていた。
――きれい。
でも、それだけ。
立ち止まったことにさえ、ちょっとした後ろめたさを覚えてしまうのは、私の癖。
今日も、あれこれ考える前に足を動かすことにした。
歩き出してしばらくすると、街の音がじわじわと広がってくる。
小さな町の商店街、朝の掃除をしている店主の挨拶、パン屋から漂う焼きたての匂い。
私はそれらを一つ一つ、素通りしていく。
カフェのガラス窓の向こうでは、制服の女子たちが笑っていた。
ふわふわのパンケーキ、きらきらしたスマホの画面。
その光景は、私にとってはちょっとまぶしすぎて、でも、なんだか切なかった。
私は少しだけうつむいて、歩みを速めた。
駅に向かう前、スーパーの前を通りかかる。特売の張り紙をちらりと確認して、頭の片隅で(今夜は豚こまで野菜炒めかな)と思う。
カフェより、特売。
パンケーキより、弁当。
それが私の日常。きらきらした青春じゃなくても、私はこれで生きている。
冷たい床に素足を置いたときの、ほんの少しのひんやりが、目覚めたばかりの私の意識を現実に引き戻す。
まだ空の白みはじめたばかりの時間。時計の針は、五時二分。
スマホのアラームを止めたあと、私は台所へと向かった。
廊下の板が、足の裏にギシリと軋む。音を立てないようにしても、古い家は隠しきれない音を持っている。
朝の台所は、しんと静まり返っていた。
けれど、私が火をつけるよりも前に、鍋の音が小さく耳に届く。
「おはよう、おばあちゃん」
「……もう起きとる。ほんに陽菜はえらいねえ」
卓上のコンロで、祖母が大根の皮を煮ていた。味噌汁じゃない、皮の佃煮だ。昨日の夜に干しておいたものを今朝のうちに甘辛く煮る。
私が朝食を作るついでに、昼のおかずも兼ねておくための作業。祖母は、もう立っていられるほど足が丈夫ではないけれど、座ってできる台所仕事はよくしてくれる。
私はその隣で、卵を割った。弟の弁当に入れる、卵焼き。
彩りを考えて、細かく刻んだピーマンと赤いパプリカを混ぜる。苦手な子も多いけど、うちの弟は野菜をよく食べる方だ。だからちょっと、作るのが楽しい。
油をひいたフライパンに卵液を流すと、じゅっと香ばしい音がして、甘くてしょっぱい香りが鼻に抜ける。
祖母は、静かにうなずいたように鍋をかき混ぜながら、ぽつりと言った。
「今日、天気いいらしいよ。暑なるけんな」
「……じゃあ、畑は無理かもね」
「ま、おばあちゃんは、今日は涼しいとこでキュウリ漬けでもしとくわ」
そう言って、祖母はうっすら笑った。
細い肩。ゆっくりと動く手。
昔はもっとしゃきしゃきしてた気がするけれど、今はこの穏やかな速度が、なんだか好きだ。
それでも祖母の手には、動きに迷いがない。材料と火加減を見ながら、ちゃんとおいしいを目指している。
私はというと、うまく巻けた卵焼きを見て、ちょっとだけ満足する。
小さな達成感。でも、こういうのが、案外大事なんだと思う。
弁当箱に詰め終わる頃、弟が二階からドタバタと降りてきた。
「ねえねー、おなかすいたー!」
「はいはい、ちょっと待って。今お茶碗出すから」
私が茶碗を差し出すと、弟はテーブルにつきながら、祖母の鍋の中をじっと見た。
「それなに? おいしいやつ?」
「昨日の大根の皮。ごはんにかけたらうまいよ」
「うまいのか~……ちょっとこわいけど、たべる」
正直でいいなと思った。
弟はまだ小学三年生。夏になると真っ黒に日焼けして、プール帰りにはTシャツをぺろんとめくって見せてくるような年齢だ。
そのくせ、妙に甘えん坊で、時々は私のことを母親みたいに扱う。
……お母さん。
名前を口に出さなくても、朝になると自然と考えてしまう。
朝が早い仕事で、たぶん今頃はもう出勤している時間。
顔を合わせるのは、週に数回くらい。私の作った弁当を食べているかどうかも知らない。
それでも家族だから、私がやらなきゃいけないことはやる。
弟と祖母の茶碗を並べて、自分の分は後回し。洗い物や片付けが済んだあとに、私はトーストを一枚、ぱくりと口に入れる。
バターの味が口に広がると、ようやく、目が覚めてきた。
そのまま制服に袖を通し、長い黒髪をひとつに結ぶ。畑に行く日は違うけど、今日は学校。授業。人間関係。
気配を感じさせないように、そっと家を出る。
玄関を開けた瞬間、空気が一気に変わった。
朝の風が頬に触れて、田んぼから立ち上る湿った匂いが鼻先に届く。
生温い。けれど、どこか懐かしい匂い。
庭の脇を通り抜けると、朝顔が咲いていた。
少し濃い青。夏の始まりを告げる色。
私は立ち止まって、ほんの数秒、それを見つめていた。
――きれい。
でも、それだけ。
立ち止まったことにさえ、ちょっとした後ろめたさを覚えてしまうのは、私の癖。
今日も、あれこれ考える前に足を動かすことにした。
歩き出してしばらくすると、街の音がじわじわと広がってくる。
小さな町の商店街、朝の掃除をしている店主の挨拶、パン屋から漂う焼きたての匂い。
私はそれらを一つ一つ、素通りしていく。
カフェのガラス窓の向こうでは、制服の女子たちが笑っていた。
ふわふわのパンケーキ、きらきらしたスマホの画面。
その光景は、私にとってはちょっとまぶしすぎて、でも、なんだか切なかった。
私は少しだけうつむいて、歩みを速めた。
駅に向かう前、スーパーの前を通りかかる。特売の張り紙をちらりと確認して、頭の片隅で(今夜は豚こまで野菜炒めかな)と思う。
カフェより、特売。
パンケーキより、弁当。
それが私の日常。きらきらした青春じゃなくても、私はこれで生きている。
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