土から育てるぼくらの青春

武内れい

文字の大きさ
16 / 40
第一章:はじめの一歩

16、弟の『おいしい』(前半)

しおりを挟む
「これ、また明日も食べていい?」

 晴翔の言葉が耳に残るまま、私はゆっくりと食卓を片づけていた。
 洗い終えた茶碗の湯気が、淡く白く立ちのぼり、台所の窓辺に薄く広がる。
 水道の蛇口をひねると、少しだけ冷たくなった水が指先をくすぐり、今日の疲れを洗い流していく。

 台所の窓の外は、もうすっかり夜になっていた。
 空は群青色に沈み、向かいの屋根の端にぽつんと灯った外灯が、静かに風に揺れている。
 蝉の声はもう聞こえなくなり、代わりにコオロギの音がかすかに響いていた。

 流し台の片隅に置いたボウルには、ほんの数本だけ残った枝豆のさやがころんと横たわっていた。
 淡い緑色の皮が少しだけしわを寄せていて、昼間の畑の光景がぼんやりと脳裏に浮かんでくる。
 土の匂い、陽にあたった葉の手ざわり、そして拓海の「陽菜の豆、甘くていい感じだな」という言葉。

 それは、たしかにちょっとした褒め言葉だったけれど、私にはすごく大きなものだった。
 自分のやったことに誰かが気づいて、反応してくれる。それがどれだけ温かく、励みになるか。
 今日、晴翔がくれた「うまい!」というひと言も、きっと同じなんだと思う。

 ふと、冷蔵庫の横に貼ってあるメモが目に留まった。
 〈次の火曜、枝豆収穫予定〉と、おばあちゃんの字で書いてある。
 まるくて少し歪んだその文字を見ていると、どこかほっとする。
 おばあちゃんが私を信じて、任せてくれている証みたいで。

「ねーねー、明日、おかわりのやつ作る?」

 背後から聞こえた声に、私は思わず振り返った。
 晴翔が、湯上がりのタオルを肩にかけたまま、廊下の奥から顔をのぞかせていた。
 その髪はまだ少し濡れていて、額にくっついた前髪を指で押さえている。

「作るよ、たぶん。枝豆、ちょっとだけ残ってるし」

 そう言うと、晴翔はぱあっと顔を明るくして「やった!」と小さくガッツポーズをした。
 その無邪気な笑顔に、私はまた、何も言えずに笑ってしまった。
 こうして誰かを少しでも喜ばせられるなら、私にもできることがあるのかもしれない。

 冷蔵庫のドアを閉めると、中の蛍光灯がふっと消えた。
 その瞬間、まるで心の中のどこかに、ひとつ小さな明かりが灯ったような気がした。

 私は手を拭いて、居間へ戻る。
 晴翔はもうソファに寝転がっていて、テレビの音が部屋の空気を少しだけにぎやかにしている。
 画面の中では、料理番組の特集が流れていて、有名なレストランのシェフがカメラに向かって包丁を動かしていた。

「ねーねー、あれ作れん?」
「無理だよ。プロじゃないし」

 そう返しながらも、私は少しだけチャンネルに目をとめた。
 さっきまでの自分なら、ただ笑って流したかもしれない。
 でも今は――どこかで「やってみたいな」と思っている自分がいた。

 やがて、テレビの音がフェードアウトして、晴翔は静かに眠ってしまった。
 私はキッチンに戻り、さっきの枝豆の残りを軽く塩茹でしながら、明日の分の卵を割る。
 卵の黄身がボウルの中でぷるんと弾けて、夕食の余韻がもう一度よみがえった。

「今日、おいしかったって言ってくれて、ありがとうね」

 声には出さず、心の中でそっとそう呟いた。

 部屋の隅に置いたスマホが、通知もなく静かに光っている。
 その画面を開くと、昼間撮った畑の写真がずらりと並んでいた。
 ちいさな豆、やわらかい葉、土にのぞく新芽、そして収穫したじゃがいものざらざらした肌。

 どれも昨日までは気にもとめなかった風景。
 でも今は――まるで、日々を支えるかけがえのない何かに思える。

 私はスマホを机の上に戻すと、そっと背伸びをした。
 体の芯に残っていた疲れが、ふうっと抜けていく。

 そして思う。

 いつか私も、誰かに「これ、うま!」って言わせる料理を作れたらいいな。
 そんな未来が、もしかしたら――すぐそこにあるのかもしれない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

パンティージャムジャムおじさん

KOU/Vami
児童書・童話
夜の街に、歌いながら歩く奇妙なおじさんが現れる。 口癖は「パラダイス~☆♪♡」――名乗る名は「パンティージャムジャムおじさん」。 子供たちは笑いながら彼の後についていき、歌を真似し、踊り、列は少しずつ長くなる。 そして翌朝、街は初めて気づく。昨夜の歌が、ただの遊びではなかったことに。

星降る夜に落ちた子

千東風子
児童書・童話
 あたしは、いらなかった?  ねえ、お父さん、お母さん。  ずっと心で泣いている女の子がいました。  名前は世羅。  いつもいつも弟ばかり。  何か買うのも出かけるのも、弟の言うことを聞いて。  ハイキングなんて、来たくなかった!  世羅が怒りながら歩いていると、急に体が浮きました。足を滑らせたのです。その先は、とても急な坂。  世羅は滑るように落ち、気を失いました。  そして、目が覚めたらそこは。  住んでいた所とはまるで違う、見知らぬ世界だったのです。  気が強いけれど寂しがり屋の女の子と、ワケ有りでいつも諦めることに慣れてしまった綺麗な男の子。  二人がお互いの心に寄り添い、成長するお話です。  全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。  苦手な方は回れ右をお願いいたします。  よろしくお願いいたします。  私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。  石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!  こちらは他サイトにも掲載しています。

きたいの悪女は処刑されました

トネリコ
児童書・童話
 悪女は処刑されました。  国は益々栄えました。  おめでとう。おめでとう。  おしまい。

【奨励賞】おとぎの店の白雪姫

ゆちば
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞 奨励賞】 母親を亡くした小学生、白雪ましろは、おとぎ商店街でレストランを経営する叔父、白雪凛悟(りんごおじさん)に引き取られる。 ぎこちない二人の生活が始まるが、ひょんなことからりんごおじさんのお店――ファミリーレストラン《りんごの木》のお手伝いをすることになったましろ。パティシエ高校生、最速のパート主婦、そしてイケメンだけど料理脳のりんごおじさんと共に、一癖も二癖もあるお客さんをおもてなし! そしてめくるめく日常の中で、ましろはりんごおじさんとの『家族』の形を見出していく――。 小さな白雪姫が『家族』のために奔走する、おいしいほっこり物語。はじまりはじまり! 他のサイトにも掲載しています。 表紙イラストは今市阿寒様です。 絵本児童書大賞で奨励賞をいただきました。

童話短編集

木野もくば
児童書・童話
一話完結の物語をまとめています。

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

王女様は美しくわらいました

トネリコ
児童書・童話
   無様であろうと出来る全てはやったと満足を抱き、王女様は美しくわらいました。  それはそれは美しい笑みでした。  「お前程の悪女はおるまいよ」  王子様は最後まで嘲笑う悪女を一刀で断罪しました。  きたいの悪女は処刑されました 解説版

生贄姫の末路 【完結】

松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。 それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。 水の豊かな国には双子のお姫様がいます。 ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。 もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。 王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。

処理中です...