土から育てるぼくらの青春

武内れい

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第一章:はじめの一歩

16、弟の『おいしい』(前半)

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「これ、また明日も食べていい?」

 晴翔の言葉が耳に残るまま、私はゆっくりと食卓を片づけていた。
 洗い終えた茶碗の湯気が、淡く白く立ちのぼり、台所の窓辺に薄く広がる。
 水道の蛇口をひねると、少しだけ冷たくなった水が指先をくすぐり、今日の疲れを洗い流していく。

 台所の窓の外は、もうすっかり夜になっていた。
 空は群青色に沈み、向かいの屋根の端にぽつんと灯った外灯が、静かに風に揺れている。
 蝉の声はもう聞こえなくなり、代わりにコオロギの音がかすかに響いていた。

 流し台の片隅に置いたボウルには、ほんの数本だけ残った枝豆のさやがころんと横たわっていた。
 淡い緑色の皮が少しだけしわを寄せていて、昼間の畑の光景がぼんやりと脳裏に浮かんでくる。
 土の匂い、陽にあたった葉の手ざわり、そして拓海の「陽菜の豆、甘くていい感じだな」という言葉。

 それは、たしかにちょっとした褒め言葉だったけれど、私にはすごく大きなものだった。
 自分のやったことに誰かが気づいて、反応してくれる。それがどれだけ温かく、励みになるか。
 今日、晴翔がくれた「うまい!」というひと言も、きっと同じなんだと思う。

 ふと、冷蔵庫の横に貼ってあるメモが目に留まった。
 〈次の火曜、枝豆収穫予定〉と、おばあちゃんの字で書いてある。
 まるくて少し歪んだその文字を見ていると、どこかほっとする。
 おばあちゃんが私を信じて、任せてくれている証みたいで。

「ねーねー、明日、おかわりのやつ作る?」

 背後から聞こえた声に、私は思わず振り返った。
 晴翔が、湯上がりのタオルを肩にかけたまま、廊下の奥から顔をのぞかせていた。
 その髪はまだ少し濡れていて、額にくっついた前髪を指で押さえている。

「作るよ、たぶん。枝豆、ちょっとだけ残ってるし」

 そう言うと、晴翔はぱあっと顔を明るくして「やった!」と小さくガッツポーズをした。
 その無邪気な笑顔に、私はまた、何も言えずに笑ってしまった。
 こうして誰かを少しでも喜ばせられるなら、私にもできることがあるのかもしれない。

 冷蔵庫のドアを閉めると、中の蛍光灯がふっと消えた。
 その瞬間、まるで心の中のどこかに、ひとつ小さな明かりが灯ったような気がした。

 私は手を拭いて、居間へ戻る。
 晴翔はもうソファに寝転がっていて、テレビの音が部屋の空気を少しだけにぎやかにしている。
 画面の中では、料理番組の特集が流れていて、有名なレストランのシェフがカメラに向かって包丁を動かしていた。

「ねーねー、あれ作れん?」
「無理だよ。プロじゃないし」

 そう返しながらも、私は少しだけチャンネルに目をとめた。
 さっきまでの自分なら、ただ笑って流したかもしれない。
 でも今は――どこかで「やってみたいな」と思っている自分がいた。

 やがて、テレビの音がフェードアウトして、晴翔は静かに眠ってしまった。
 私はキッチンに戻り、さっきの枝豆の残りを軽く塩茹でしながら、明日の分の卵を割る。
 卵の黄身がボウルの中でぷるんと弾けて、夕食の余韻がもう一度よみがえった。

「今日、おいしかったって言ってくれて、ありがとうね」

 声には出さず、心の中でそっとそう呟いた。

 部屋の隅に置いたスマホが、通知もなく静かに光っている。
 その画面を開くと、昼間撮った畑の写真がずらりと並んでいた。
 ちいさな豆、やわらかい葉、土にのぞく新芽、そして収穫したじゃがいものざらざらした肌。

 どれも昨日までは気にもとめなかった風景。
 でも今は――まるで、日々を支えるかけがえのない何かに思える。

 私はスマホを机の上に戻すと、そっと背伸びをした。
 体の芯に残っていた疲れが、ふうっと抜けていく。

 そして思う。

 いつか私も、誰かに「これ、うま!」って言わせる料理を作れたらいいな。
 そんな未来が、もしかしたら――すぐそこにあるのかもしれない。
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