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第一章:はじめの一歩
15、弟の『おいしい』(前半)
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午後の畑は、陽が傾きかけていた。
空の色は、淡い水色のなかにほんのりと黄味が混じり、葉の先や土の凹みに光がやさしく反射している。
風が吹くたび、枝豆の葉がさらさらと擦れ合い、小さな音を立てる。その音は、静かな湖面に波紋が広がるみたいに、私の耳の奥までやさしく沁みこんできた。
水やりを終えたバケツの中には、土が混ざってほんのり茶色くなった水が残っている。汗ばんだ掌で、そのバケツの縁を持ち上げると、鉄の冷たさがじんわりと手のひらに広がった。
額から流れる汗が頬を伝い、シャツの襟元に染みこんでくる。その感触さえも、今日はどこか心地よく感じる。
「おつかれ~! 陽菜、そろそろ帰る?」
美咲がエプロンを脱ぎながら、にっこり笑って声をかけてくれた。
彼女のリメイクエプロンは、やっぱり目立っていた。深い藍色のデニム生地に、胸元だけ淡いラベンダーの布が縫い付けてある。裾は動きやすく斜めにカットされていて、ポケットには小さなミツバチの刺繍がひとつ。
「やっぱり、似合ってるね」
私は、ちょっと照れながらそう言った。美咲は少し得意そうに、「でしょ~!」と笑って見せた。
家までの帰り道、畑からの一本道にはもう影が長く伸びていて、電柱の根元にオレンジ色の陽光が滲んでいた。蝉の声が遠ざかり、代わりに、草の中から聞こえる虫の細い音が静かに響いてくる。
玄関の戸を開けると、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。
「おかえり。手、洗ってね」
台所からおばあちゃんの声。私は「うん」と返事をしながら、カゴを置き、石けんを手に取った。水道の蛇口から流れる冷たい水が、土と汗を洗い流してくれる。指の間を水がすべり抜ける感覚が、今日もちゃんと終わったんだって思わせてくれた。
夕食は、私が少しだけ担当している。といっても、主役を張るような料理じゃない。おばあちゃんの隣で、卵を焼いたり、味噌汁を温めたりするだけ。でも今日は、ちょっと特別な気持ちだった。
「これ、さっき収穫した枝豆、入れてみたの」
私は、卵焼きの中に小さく刻んだ枝豆を混ぜ込んでみた。最初は水分が出てしまってうまく巻けなかったけど、何度かやり直して、ようやく形になった。フライパンの端にできたちょっと焦げた部分も、まあ、ご愛嬌ということで。
食卓に着くと、弟の晴翔まっすぐ卵焼きに箸を伸ばした。
「いただきます!」
元気な声が、湯気の向こうで弾ける。
ひと口。もぐもぐ。
その顔がふっと明るくなった。
「……これ、うま!」
晴翔は箸を止めて、驚いたように私の方を見た。
私は、とっさに何も言えず、ただ笑ってみせた。
言葉にすると、なんだか照れくさい。でも、ちゃんと伝わった気がした。
夕焼けの光が、窓から差し込んでいる。
オレンジ色の光が、食卓の上の湯呑みや味噌汁の椀をやわらかく照らしている。
卓上の醤油さしが、その光を受けてキラキラと光っていた。
どこかで蝉がひと声だけ鳴いたあと、しんとした静けさが戻ってくる。
「お姉、またこれ作って」
晴翔が、口にごはんを詰めたまま言った。
「またって……まだ今日の分、残ってるよ」
「うん。でも明日も食べたい」
私は、笑って頷いた。
枝豆と卵。たったそれだけの料理なのに、こんなふうに誰かに喜んでもらえるなんて、思ってもいなかった。
そのとき、小さな肯定感が胸の奥にふっと灯った。
――こういうの、悪くないかも。
私はまた、フライパンを握りたいと思った。
空の色は、淡い水色のなかにほんのりと黄味が混じり、葉の先や土の凹みに光がやさしく反射している。
風が吹くたび、枝豆の葉がさらさらと擦れ合い、小さな音を立てる。その音は、静かな湖面に波紋が広がるみたいに、私の耳の奥までやさしく沁みこんできた。
水やりを終えたバケツの中には、土が混ざってほんのり茶色くなった水が残っている。汗ばんだ掌で、そのバケツの縁を持ち上げると、鉄の冷たさがじんわりと手のひらに広がった。
額から流れる汗が頬を伝い、シャツの襟元に染みこんでくる。その感触さえも、今日はどこか心地よく感じる。
「おつかれ~! 陽菜、そろそろ帰る?」
美咲がエプロンを脱ぎながら、にっこり笑って声をかけてくれた。
彼女のリメイクエプロンは、やっぱり目立っていた。深い藍色のデニム生地に、胸元だけ淡いラベンダーの布が縫い付けてある。裾は動きやすく斜めにカットされていて、ポケットには小さなミツバチの刺繍がひとつ。
「やっぱり、似合ってるね」
私は、ちょっと照れながらそう言った。美咲は少し得意そうに、「でしょ~!」と笑って見せた。
家までの帰り道、畑からの一本道にはもう影が長く伸びていて、電柱の根元にオレンジ色の陽光が滲んでいた。蝉の声が遠ざかり、代わりに、草の中から聞こえる虫の細い音が静かに響いてくる。
玄関の戸を開けると、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。
「おかえり。手、洗ってね」
台所からおばあちゃんの声。私は「うん」と返事をしながら、カゴを置き、石けんを手に取った。水道の蛇口から流れる冷たい水が、土と汗を洗い流してくれる。指の間を水がすべり抜ける感覚が、今日もちゃんと終わったんだって思わせてくれた。
夕食は、私が少しだけ担当している。といっても、主役を張るような料理じゃない。おばあちゃんの隣で、卵を焼いたり、味噌汁を温めたりするだけ。でも今日は、ちょっと特別な気持ちだった。
「これ、さっき収穫した枝豆、入れてみたの」
私は、卵焼きの中に小さく刻んだ枝豆を混ぜ込んでみた。最初は水分が出てしまってうまく巻けなかったけど、何度かやり直して、ようやく形になった。フライパンの端にできたちょっと焦げた部分も、まあ、ご愛嬌ということで。
食卓に着くと、弟の晴翔まっすぐ卵焼きに箸を伸ばした。
「いただきます!」
元気な声が、湯気の向こうで弾ける。
ひと口。もぐもぐ。
その顔がふっと明るくなった。
「……これ、うま!」
晴翔は箸を止めて、驚いたように私の方を見た。
私は、とっさに何も言えず、ただ笑ってみせた。
言葉にすると、なんだか照れくさい。でも、ちゃんと伝わった気がした。
夕焼けの光が、窓から差し込んでいる。
オレンジ色の光が、食卓の上の湯呑みや味噌汁の椀をやわらかく照らしている。
卓上の醤油さしが、その光を受けてキラキラと光っていた。
どこかで蝉がひと声だけ鳴いたあと、しんとした静けさが戻ってくる。
「お姉、またこれ作って」
晴翔が、口にごはんを詰めたまま言った。
「またって……まだ今日の分、残ってるよ」
「うん。でも明日も食べたい」
私は、笑って頷いた。
枝豆と卵。たったそれだけの料理なのに、こんなふうに誰かに喜んでもらえるなんて、思ってもいなかった。
そのとき、小さな肯定感が胸の奥にふっと灯った。
――こういうの、悪くないかも。
私はまた、フライパンを握りたいと思った。
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