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第三章:チーズの町、ミルクの風
49、夜の厨房で、想いをこめて(前半)
しおりを挟む工房の厨房は、夜になるとまるで別の世界みたいだった。
昼間の喧騒はすっかり消えて、冷蔵庫の低いうなり声と、誰かの足音だけが静かに響いている。
私はタオルで手をぬぐいながら、厨房の隅に腰を下ろした。
外では雨がぽつぽつ降っていて、さっきまでの泥だらけの作業の疲れが、まだ身体の奥に残っていた。
向かい側では、土屋さんが大きなボウルの中でクリームチーズをゆっくりかき混ぜていた。
白いシェフコートの袖を少しめくって、黙々と。
「……まだ作業、あるんですか?」
声をかけると、土屋さんは目を細めて笑った。
「あるさ。今仕込んでおかないと、明日の分が間に合わないからね」
ボウルの中には、滑らかなクリーム色のチーズと卵が混ざっていて、まるで絵の具のように光っていた。
「明日は、焼きチーズタルトを出す予定なんだ。朝のうちに生地を冷やしておきたいし、焼きの加減も試さなきゃ」
「ふうん……お菓子屋さんって、夜もお仕事なんですね」
「そう。材料が命だから、少しの油断で味が変わる。特にチーズは生きものみたいなもので、室温と湿度で機嫌が変わるんだ」
思わず私は笑ってしまった。
「チーズの機嫌、かあ……」
「そう。でもね、面白いんだよ。ちゃんと向き合って、思いをかけてやれば、素直に応えてくれる」
そう言いながら、土屋さんは計量スプーンで砂糖をすくった。
ひとさじずつ、ていねいにボウルに落としていく。カサッ、カサッという音が耳にやさしかった。
私はそっと問いかけた。
「……そんなに頑張って、疲れませんか?」
「そりゃあ疲れるよ。でもね、うちのお菓子を食べておいしいって笑ってくれる人の顔を思い出すと、不思議と力が湧くんだ」
土屋さんはかすかに笑った。
「前に、うちにずっと通ってくれてるおばあちゃんがいてね。『このタルトを食べると、若い頃のことを思い出すのよ』って言ってくれたことがあった。そういう言葉に、救われるんだ」
胸にじんと何かが広がった。
「……誰かの、思い出になるんですね」
「そう。お菓子ってね、味だけじゃなく、時間も包み込んでくれる。作る人の時間、食べる人の時間、昔と今、全部つなげてくれるんだよ」
視線を落としながら、今日自分がしたことを思い出す。
雨に濡れて泥まみれになって、それでも干し草を運んだこと。転びそうになって、奏汰に助けられたこと。
あの瞬間、自分の頑張りが誰かの役に立てたことが、ちょっとだけうれしかった。
「……私、今まで自分が頑張るって、自分のためだと思ってました。でも今日、ちょっとだけ、人のために頑張るってこと、わかった気がします」
土屋さんは、ふふっと笑ってヘラを置いた。
「それが、すべてのはじまりかもしれないね。ことりちゃん、料理もお菓子も、気持ちで変わるんだよ」
「気持ち、ですか?」
「うん。この子が好きそうな味にしようとか、お母さんに喜んでほしいなとか。そうやって手を動かすと、不思議と味も変わる」
私はそっと、自分のノートのことを思い出した。
あのページたちに書きためた、見たこと、感じたこと、食べたお菓子の記録。レシピはまだまだ未熟だけど、書いているとなんだか嬉しくなる。
「じゃあ、私も……次は、誰かを思いながらお菓子を作ってみたいです」
「いいね。まずは目の前の人からで、いいんだよ」
土屋さんが再び作業に戻ると、厨房の中に、チーズとバニラが溶け合うようなやさしい香りがふわっと広がった。
その匂いを胸いっぱい吸い込んで、そっと心の中でつぶやいた。
〈こんな夜、ずっと忘れないと思う。〉
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