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第三章:チーズの町、ミルクの風
50、夜の厨房で、想いをこめて(後半)
しおりを挟む冷蔵室のドアが開いたとたん、ひんやりとした空気がふわっと頬をなでた。
私は思わず肩をすくめて、「うわ、さむっ」と声をもらした。
「この部屋、牛乳やチーズの保管温度を保ってるからね」
土屋さんは白いエプロンのまま、冷蔵棚の前でにこやかに手を広げていた。
「ここは工房の心臓みたいなところさ。素材の良し悪しが、お菓子の味を決めるんだよ」
隣で奏汰が真剣な目つきになっていた。
彼はいつも、こういう場所に来るとスイッチが入る。私はそれを見るのが好きだった。
棚の中には、色の違うチーズがいくつも並んでいた。
真っ白で柔らかそうなフロマージュ・ブラン、ほんのり黄色みがかったクリームチーズ、表面に白いカビのようなものがついたカマンベールもある。
「このチーズ、同じ日に仕入れたんですか?」と奏汰が聞いた。
「いや、全部少しずつ違うよ。まず、元になるミルクの種類が違う。あとね、季節によっても変わる」
土屋さんが一本の瓶を手に取った。ラベルには〈6月・放牧牛乳〉とある。
「この牛乳はね、6月に放牧で育った牛から絞ったもの。青草をたくさん食べてるから、少し青っぽい香りがある。春先より脂肪分は高め」
「じゃあ、チーズにするとコクが強くなるんですか?」と奏汰がたずねる。
「その通り。逆に冬場は干し草中心になるから、少し香りは穏やかで、まろやかになる」
私は棚の奥にあった小さな丸いチーズを手にとった。
「この子は?」と聞くと、土屋さんが笑った。
「リコッタだね。ホエーから作るから、ちょっと水っぽいけど優しい甘さがあるよ。チーズケーキに使うと、ふんわり仕上がる」
「ふんわり……」私は前にチーズケーキを失敗したときのことを思い出した。
「そっか、チーズにも得意な使い方があるんだ」
「うん。それを見極めるのが職人の仕事だよ。でもね、正解はひとつじゃない。たとえば、同じチーズでもどんな焼き方にするか、混ぜ方で変わる。クリームチーズとヨーグルトを合わせて軽さを出す人もいれば、あえて熟成感を活かして濃厚にする人もいる」
奏汰が小さな手帳を開き、鉛筆で何かを書き込んでいる。
「ことり、どれ使いたい?」と目線を向けてきた。
「え、えっと……」私は迷った。
「リコッタはふわっとしてそうでいいけど、ちょっと味が薄いのかな。クリームチーズはコクがあるけど重くなりそう……」
「たとえば、リコッタ7:クリームチーズ3とかにしてみる?」
「え、そんな比率で混ぜてもいいの?」
「うん、家庭でもできるし、味を見ながら調整すれば大丈夫」
思わず私は「わあ、理科の実験みたい」とつぶやいた。
「それがまた楽しいんだよ」と奏汰が笑った。
棚の上に置いてあった瓶のひとつを手に取った。
「これは……牛乳の瓶?」
「うん。低温殺菌のノンホモ牛乳。脂肪が均一になってないから、上にクリームが浮いてるんだ」
「ノンホモ……って?」と私は聞いた。
「ホモジナイズしてないってこと。つまり、乳脂肪の粒が大きいまま。だから、味が自然に分かれてて、泡立ちも違う」
「泡立ちも……あっ! メレンゲとかに使うと?」
「うん、安定しにくいけど、ふわっと立てばすごく軽やか。チーズケーキに合うよ」
私は「この牛乳と、リコッタと……」とぶつぶつつぶやきながら、手帳を開いた。
「じゃあ、ベースはリコッタ。コクづけにクリームチーズを少し。ミルクはノンホモの低温殺菌。甘さはきび糖か白あんでやさしくして……」
「焼き方は?」と奏汰。
「スフレに近いけど、焦げすぎないように……低温でじっくり?」
「150度で45分、湯煎焼き?」
「やってみよう!」
ふたりの声が重なった。
冷蔵室の中、私たちの〈これから〉が、少しずつ形になっていくような気がした。
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