レシピの見つけ方 〜旅するお菓子ノート〜

武内れい

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第一章:画面を抜けて

2、画面の中のおかし屋さん(後半)

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 私は、画面の前で、しばらく動けなかった。
 その店のまわりを、何度もクリックして、違う角度から見た。何度見ても、そのお店は、まるで絵本の中から出てきたみたいだった。

(どうして、こんなに気になるんだろう……)

 焼き菓子のにおいなんて、画面からはもちろん伝わってこない。けれど、私の鼻の奥には、ふわっと甘い香りがよみがえっていた。
 あれは、いつか買ってもらったフィナンシェの味。ひとくち食べたとき、じんわり広がったバターの香ばしさと、口の中にふんわり残ったやさしい甘さ。
 あの味と、このお店が、なぜかつながって見えたのだ。

 私は、そっと手をのばして、ノートを引き寄せた。
 その表紙には、ことり旅ノートと、ボールペンで小さく書いてある。世界のどこかに行くかわりに、毎朝の地図旅で見つけたものを書きためている、大事なノートだ。

 ページを開くと、空いたスペースに、ゆっくりと鉛筆をすべらせた。

 〈Pâtisserie Tsuchiya〉
 〈クリーム色の外壁とピンクの屋根。ショーケースの中に焼き菓子。くまのぬいぐるみ。花壇。〉

 そして、その右下のすみっこに、少し迷ってから、こう書いた。

 〈行ってみたい〉

 ほんの小さな字。でも、それは私にとって、とても大きな一歩だった。
 だって、行きたいって気持ちは、誰にも言えない秘密みたいに、大切だったから。
 書いたあと、ページを手でおおって、誰かに見られたわけでもないのに、顔がほんのり赤くなった。

 そのとき——

「ことりー、時間だよー!」

 母の声が、階段の下から聞こえてきた。
 時計を見ると、もう登校する時間だった。急いでランドセルを背負って、髪を手ぐしで整え、でもどこかぼんやりとしたまま、ことりは家を出た。


 学校の授業中も、あの地図の風景が、ふと頭に浮かんできた。
 社会の時間に地図記号を習っていたときなんか、手元の教科書の日本地図が、画面のストリートビューのように立体に見えた気がして、思わずにやけてしまった。

(……地図の中って、生きてるみたい)

 それは、学ぶというより、感じることに近かった。
 まだ行ったことのない町の名前。聞いたこともない駅。地図にある無数の線の、その先には、どんな人たちが暮らしているのだろう。

 放課後。下校のとき、校門の前で立ち止まった。

(このまま、あのお店のほうに歩いてみたら……)

 そんなことを思ってしまう。
 けれど、すぐに頭の中のちゃんとしなきゃがストップをかける。

(ひとりで行くなんて、変だよ。ちゃんと約束してないし。何かあったら……)

 私は、ぎゅっとランドセルのひもを握った。


 家に帰ると、兄の大輝が、ソファでゲームをしていた。
 私が「ただいま」と言っても、返事はなし。
 母は、仕事の帰りが遅くなると、メッセージだけが画面に残されていた。
 父は、相変わらず出張中。いつも通りの、静かな夕方。

 夕食までの時間、パソコンの前に戻った。
 あのパティスリーツチヤのページを、もう一度ひらいてみる。
 何も変わっていない、同じ風景のはずなのに、朝よりも、なぜか近く感じた。
 まるで、おいでと言われているような、そんな気がした。

 ——きっと、行ける。
 ——一人でも、大丈夫。

 でも、ほんのちょっぴり勇気が足りない。そんな気がして、そっと、ことり旅ノートを開いた。

 今日のページに、新しく、こう書き足した。

 〈ひとりで、行けるかな〉
 〈まずは見にいくだけでも、いいよね〉

 その横に、小さく笑っているクマの絵を描いた。パティシエの帽子をかぶった、店先のあのくま。私のなかで、あのくまが小さくうなずいたように思えた。

 その夜。眠る前、ひとり、リュックの中身を確認した。
 ノート、えんぴつ、簡単な地図。少しのおこづかいも。

(行くって、まだ決めたわけじゃないけど……)

 でもきっと、あの画面の中の世界は、まだ知らないけど、これから知る場所のように感じた。

 私は、ゆっくりとまぶたを閉じた。

 画面の中で見た、お菓子屋さんの光景が、夢の中で優しくにじんでいった。
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