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第一章:画面を抜けて
5、焼き菓子とわたしのノート(前半)
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午後の学校が終わって、いつもの帰り道。
私はカバンからノートを取り出してパラパラとめくりながら歩いていた。
(今日は、別のお菓子を買ってみよう)
そんな気持ちが、胸の奥でぽっと灯っていた。
向かったのは、あのパティスリーツチヤ。
商店街のはずれ、小さな公園の角を曲がったところにある。
大きなガラスのウィンドウ越しに見えるのは、ずらりと並んだケーキや焼き菓子たち。季節ごとの飾り付けも可愛らしく、通りがかるたびに、私はつい足を止めてしまう。
(前に来たときは、男性の店員さんだったな)
あのときは、緊張しすぎてほとんど目も合わせられなかった。
でも帰ってから食べたあのマドレーヌのやさしい味と、丁寧に包んでくれたあの所作が、ずっと記憶に残っている。
「今日こそ、ちゃんと話してみたいな」
小さく口に出すと、ほんの少し勇気が出た。
夕方前の店内には、やわらかな光が灯っていた。
木の床、温かみのあるショーケース、甘くて香ばしい香り――この空間に入るだけで、どこか背筋が伸びる。
今日は、カウンターの奥に若い女性の店員さんが立っていた。
(この人は……初めて見る)
優しげな雰囲気の人で、落ち着いた声でお客さんに応対していた。
(大丈夫、ちゃんと注文できる)
私はノートをぎゅっと抱え直して、カウンターに一歩踏み出した。
「す、すみません。えっと……フィナンシェをください」
声は小さかったけれど、ちゃんと届いた。
女性店員さん――胸元の名札には〈高橋美咲〉と書かれていた――は、穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「はい、フィナンシェですね。ありがとうございます」
そしてそっと付け加えた。
「それ、当店の人気なんですよ。お選びいただいて嬉しいです」
(今の……なんだか、うれしい)
丁寧に袋詰めをしてくれるその手元を、私はじっと見つめた。
手袋をすっとはめる動作、焼き菓子を包む紙の折り目――
どの動きも、静かで、でも確かなリズムがあった。
「おひとつでよろしかったですか?」
「はい、お願いします。あの……こないだ来たときは、男の人がいました」
「たぶん店主ですね。平日は奥で仕込みしていることが多くて」
「そうなんですね……前はクッキーを買って、すごくおいしかったです」
私は、自然とそんな言葉をこぼしていた。
美咲さんは一瞬だけ目を細め、優しく笑ってくれた。
「それはうれしいです。またお越しくださいね」
「ありがとうございます」
私は少しだけ頭を下げて、袋を手にした。
(あの人とも話せた。前よりも、ちゃんと)
帰り道、袋の中から漂ってくるバターの香りを感じながら、私は胸の中がふわっと温かくなるのを感じていた。
家に着くと、机の上にノートを広げて、買ってきたフィナンシェをそっと取り出す。
きつね色の焼き色、丸みのある楕円形。
バターの香ばしさが、ふんわりと鼻先に届いた。
(なんでこの形なんだろう)
(この香りは、どうやって生まれるんだろう)
私はページをめくり、新しいタイトルを書いた。
〈フィナンシェの秘密〉
思い出せる限りの材料を書き写しながら、調べた内容も加えていく。
【材料】
・薄力粉 60g
・アーモンドプードル 40g
・バター(無塩) 100g
・卵白 3個分
・グラニュー糖 100g
・はちみつ 大さじ1
〈お店の美咲さんが言ってた人気って、香りのせいかな?〉
そんなメモを端に添えておく。
【作り方】
1. バターを鍋でゆっくり加熱し、焦がしバターにする。香りが立ったら火を止めて冷ます。
2. 卵白をボウルに入れて軽く泡立て、砂糖を加えてよく混ぜる。
3. 薄力粉とアーモンドプードルをふるって加え、さっくりと混ぜる。
4. 冷ました焦がしバターを加え、なめらかになるまで混ぜる。
5. 型に流して、180℃のオーブンで12~15分焼く。
(焦がしバター……やっぱり、ここがポイントなんだ)
焦がしバターは、バターの中の水分が蒸発し、たんぱく質がキャラメル色に変わって生まれる“ナッツのような香り”を生む。
私はそれを、授業で聞いた内容を思い出しながらノートに加えていった。
〈バターの香りは、バターの中のたんぱく質が熱で分解されてできる〉
〈お菓子の香りも、化学の力なんだ〉
その瞬間、スマホが震えた。
画面には〈さくら〉からの通知。
『今日もツチヤ行ったの?』
「うん、フィナンシェ買ったよ。めちゃくちゃいい香りだった!」
『ずるい~! 今度、絶対連れてってよ!』
「もちろん!」
私は笑いながら返信した。
ふと、ノートの片隅に、こんな言葉を添えた。
〈美咲さんみたいに、お菓子といっしょに笑顔を届けられる人になりたい〉
ページに書いたその一文が、自分でも意外なくらいしっくりきて、私はもう一度小さく読み返した。
焼き菓子のように、じんわり温かい夢が、自分の中でふくらんでいくのを感じながら。
窓の外には、夕暮れの空。
夜のしじまが、そっと広がろうとしていた。
私はカバンからノートを取り出してパラパラとめくりながら歩いていた。
(今日は、別のお菓子を買ってみよう)
そんな気持ちが、胸の奥でぽっと灯っていた。
向かったのは、あのパティスリーツチヤ。
商店街のはずれ、小さな公園の角を曲がったところにある。
大きなガラスのウィンドウ越しに見えるのは、ずらりと並んだケーキや焼き菓子たち。季節ごとの飾り付けも可愛らしく、通りがかるたびに、私はつい足を止めてしまう。
(前に来たときは、男性の店員さんだったな)
あのときは、緊張しすぎてほとんど目も合わせられなかった。
でも帰ってから食べたあのマドレーヌのやさしい味と、丁寧に包んでくれたあの所作が、ずっと記憶に残っている。
「今日こそ、ちゃんと話してみたいな」
小さく口に出すと、ほんの少し勇気が出た。
夕方前の店内には、やわらかな光が灯っていた。
木の床、温かみのあるショーケース、甘くて香ばしい香り――この空間に入るだけで、どこか背筋が伸びる。
今日は、カウンターの奥に若い女性の店員さんが立っていた。
(この人は……初めて見る)
優しげな雰囲気の人で、落ち着いた声でお客さんに応対していた。
(大丈夫、ちゃんと注文できる)
私はノートをぎゅっと抱え直して、カウンターに一歩踏み出した。
「す、すみません。えっと……フィナンシェをください」
声は小さかったけれど、ちゃんと届いた。
女性店員さん――胸元の名札には〈高橋美咲〉と書かれていた――は、穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
「はい、フィナンシェですね。ありがとうございます」
そしてそっと付け加えた。
「それ、当店の人気なんですよ。お選びいただいて嬉しいです」
(今の……なんだか、うれしい)
丁寧に袋詰めをしてくれるその手元を、私はじっと見つめた。
手袋をすっとはめる動作、焼き菓子を包む紙の折り目――
どの動きも、静かで、でも確かなリズムがあった。
「おひとつでよろしかったですか?」
「はい、お願いします。あの……こないだ来たときは、男の人がいました」
「たぶん店主ですね。平日は奥で仕込みしていることが多くて」
「そうなんですね……前はクッキーを買って、すごくおいしかったです」
私は、自然とそんな言葉をこぼしていた。
美咲さんは一瞬だけ目を細め、優しく笑ってくれた。
「それはうれしいです。またお越しくださいね」
「ありがとうございます」
私は少しだけ頭を下げて、袋を手にした。
(あの人とも話せた。前よりも、ちゃんと)
帰り道、袋の中から漂ってくるバターの香りを感じながら、私は胸の中がふわっと温かくなるのを感じていた。
家に着くと、机の上にノートを広げて、買ってきたフィナンシェをそっと取り出す。
きつね色の焼き色、丸みのある楕円形。
バターの香ばしさが、ふんわりと鼻先に届いた。
(なんでこの形なんだろう)
(この香りは、どうやって生まれるんだろう)
私はページをめくり、新しいタイトルを書いた。
〈フィナンシェの秘密〉
思い出せる限りの材料を書き写しながら、調べた内容も加えていく。
【材料】
・薄力粉 60g
・アーモンドプードル 40g
・バター(無塩) 100g
・卵白 3個分
・グラニュー糖 100g
・はちみつ 大さじ1
〈お店の美咲さんが言ってた人気って、香りのせいかな?〉
そんなメモを端に添えておく。
【作り方】
1. バターを鍋でゆっくり加熱し、焦がしバターにする。香りが立ったら火を止めて冷ます。
2. 卵白をボウルに入れて軽く泡立て、砂糖を加えてよく混ぜる。
3. 薄力粉とアーモンドプードルをふるって加え、さっくりと混ぜる。
4. 冷ました焦がしバターを加え、なめらかになるまで混ぜる。
5. 型に流して、180℃のオーブンで12~15分焼く。
(焦がしバター……やっぱり、ここがポイントなんだ)
焦がしバターは、バターの中の水分が蒸発し、たんぱく質がキャラメル色に変わって生まれる“ナッツのような香り”を生む。
私はそれを、授業で聞いた内容を思い出しながらノートに加えていった。
〈バターの香りは、バターの中のたんぱく質が熱で分解されてできる〉
〈お菓子の香りも、化学の力なんだ〉
その瞬間、スマホが震えた。
画面には〈さくら〉からの通知。
『今日もツチヤ行ったの?』
「うん、フィナンシェ買ったよ。めちゃくちゃいい香りだった!」
『ずるい~! 今度、絶対連れてってよ!』
「もちろん!」
私は笑いながら返信した。
ふと、ノートの片隅に、こんな言葉を添えた。
〈美咲さんみたいに、お菓子といっしょに笑顔を届けられる人になりたい〉
ページに書いたその一文が、自分でも意外なくらいしっくりきて、私はもう一度小さく読み返した。
焼き菓子のように、じんわり温かい夢が、自分の中でふくらんでいくのを感じながら。
窓の外には、夕暮れの空。
夜のしじまが、そっと広がろうとしていた。
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