恋や友情が、なくても

武内れい

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第一章:日常のさざ波

15、ちょっとした親切(前半)

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 次の日の朝は、まるで空まで機嫌がいいみたいだった。雲ひとつない青空が広がって、朝の光が校舎のガラス窓を通して、静かな廊下にすっと差しこんでいた。

 朝見ほのかは、両手に教科書と筆箱を持ちながら、ランドセルを背負って教室に向かっていた。時計は8時20分を少し過ぎたころ。
 教室の前にはまだ人も少なくて、廊下にはかすかに机のひきずる音や、誰かが笑う小さな声が聞こえるだけだった。

 カツ、カツ、と上履きの音を立てながら歩いていると、ふいにカタン、と音がした。
 ほのかの手から、小さなピンク色の消しゴムが、つるりと滑り落ちて床を転がっていった。

 でも、ほのかはそのことに気づかず、そのまま数歩、前に進んでしまった。

 廊下の静けさの中で、やわらかい足音が一つ、近づいてきた。

「……これ、落ちてたよ」

 不意に聞こえた声に、ほのかはふり向いた。
 そこには、ひとりの男の子が立っていた、雨宮湊。少し長めの前髪が、朝の光にかすかに透けて見える。手には、さっき落ちたピンクの消しゴムを持っていた。

「……あ、ありがとう」

 ほのかは、少しだけ驚いたように言った。それから、はにかんだように笑って、その手から消しゴムを受け取った。
 それは、クマの小さなイラストが入った、ほんのり甘い香りのする消しゴムだった。ふだんは筆箱のすみにしまってあるけど、今日は急いでいたせいで手にもっていたのだ。

 男の子――湊は、ほのかが名前を呼ぶ前に、すっと視線をそらしてしまった。
「……うん」とだけ、小さくつぶやいたその声は、風にゆれる葉っぱのようにやさしくて、どこか遠くの音のようにも感じられた。

 朝の光の中で、その一瞬だけ時間が止まったようだった。
 周囲の音が遠のいて、まるで廊下の世界に自分たちしかいないような、不思議な静けさに包まれていた。

 ほのかは、手のひらの中の消しゴムをぎゅっと握りしめた。
 ただの落し物を拾ってもらっただけなのに、胸の奥がほんのりあたたかくなっていた。

 彼とは、あまり話したことがない。教室ではいつも静かで、ひとりでいることが多い雨宮くん。目が合っても、すぐにそらされることが多かったし、休み時間に話しているところもあまり見かけない。

 だけど、今のその仕草――しゃがんで、消しゴムを拾って、そっと差し出してくれた動作には、たしかなやさしさがあった。

「ありがとうね」

 もう一度、そう言ってから、ほのかは自然と笑っていた。
 それは昨日、パン屋のおばさんが「遊びたい気持ちも大事にしていいんだよ」と言ってくれたときと、ちょっと似ているあたたかさだった。

 湊は何も言わなかったけど、ほのかの笑顔にほんの少しだけ、目元がゆるんだように見えた。まるで、日なたで猫が目を細めるときのように。

 その一瞬のやりとりが、ほのかの中でふわっと広がっていった。
 誰かに何かをしてもらうって、こんなにもやさしいことなんだ。
 言葉は少なかったけど、ちゃんと心が動いたのがわかった。

 いつもと変わらない朝、いつもと変わらない廊下。
 でも、その中で起きたほんの小さなできごとが、ほのかの世界をすこしだけやわらかくしてくれた。

 窓の外には、まぶしいくらいに青く澄んだ空が広がっている。
 葉っぱのすきまから差しこむ光が、床の上にきらきらと模様をつくっていた。

(なんだろう……今日って、ちょっといい日かもしれない)

 ほのかはそんなことを思いながら、そっと消しゴムを筆箱に戻した。
 そして、まだほんの少し照れている港に、小さく会釈をしてから、教室の扉をそっと開けた。
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