8 / 8
終章
しおりを挟む
会員制クラブ”シルバー・ウルフ”。王都の一等地に構えるその館は、上流階級の紳士のみが立ち入ることを許された、まさに社交と静寂の聖域であった。深紅の絨毯が床を覆い、壁にはクラブの象徴である銀毛の狼の剥製が誇らしげに飾られている。十数人の紳士たちがカードゲームや酒を楽しむなか、レジナルドは部屋の隅でひとりソファに身を沈め、煙草を燻らせていた。
「よお、久しぶりだな」
親しげな声が背後からかけられる。現れたのはトマス・ルーサム子爵令息だった。同じ子爵家と言っても、五十年遡れば平民のフォスター家とは違い、彼の家は百年以上続く由緒正しい家系である。しかし彼はそんな家柄の差など気にも留めず、寄宿学校で同部屋になって以来、レジナルドと十年来の友情を築いていた。
「奥方とはその後どうだ?」
彼はレジナルドの向かいのソファに腰を下ろすと、煙草に火をつけながらそう尋ねた。マリアンヌの事件の後、社交界にフォスター子爵夫妻の不仲の噂が流れた際に、レジナルドを案じていち早く連絡してきたのが彼だった。レジナルドが真相を説明すると彼は腹を抱えて笑っていたが、根は思いやり深い紳士である。
「問題ない。近々、観劇に誘うつもりだ」
「誘うつもり? まだ誘ってないのか?」
レジナルドの含みのある言い回しに、トマスは怪訝な顔をした。するとレジナルドは懐から黒革の手帳を取り出し、細かな字で埋め尽くされたページを指先で捲りながら、淡々と答える。
「それはまだ先だ。まず彼女の好みを調査し、該当する演目を三つまで絞り込んだ。次に彼女の予定と公演スケジュールを照らし合わせて……」
「……奥方とのデートにしては少し回りくどすぎやしないか?」
呆れたように言うトマスに、レジナルドは不満げに眉をひそめた。
「悪いか? 物事には順序というものがあるだろう」
「悪いね。まるで婚約者を初めてのデートに誘う若造のようだ。二十八の既婚者がやることじゃない」
きっぱりと言い切るトマスに対し、レジナルドは納得いかぬ様子で、ぶつぶつと言い訳を続けた。
※
それから一週間後の朝、いつものように出勤前にエントランスホールまで見送りにきたソフィアに、レジナルドは思い出したように声をかけた。
「明日の晩、観劇に行きませんか。偶々知人にセント・オルバンズ劇場の桟敷席を譲ってもらったのです。もしご予定がなければ、ぜひご一緒に」
「まぁ素敵! 楽しみにしていますわ」
突然の誘いに、ソフィアは声を弾ませ、満面の笑みで応じた。
「あぁ、良かった。それでは、行ってきます」
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
笑顔で夫を見送ったその直後、ソフィアは血相を変えてクローゼットへ駆け込んだ。
「明日……明日ですって!?」
結婚後にソフィアが仕立てた外出用ドレスは、深緑、濃紺、黒と、良く言えば落ち着きある、悪く言えば地味なものばかりである。初めての“デート”に着ていくには、もう少し華やかさが欲しかった。いっそのこと久しぶりに新調したい気分だったが、今からでは到底間に合わない。実家から持参した数少ない独身時代のドレスを広げて、ソフィアはああでもない、こうでもないと頭を悩ませた。
明るい色は、既婚者にはふさわしくないかもしれない。でも暗すぎれば地味すぎてしまう。そもそもレジナルドの好みは?アクセサリーのことも考えなくては……。
フォスター邸の広いクローゼットでソフィアは一人頭を抱えた。
※
翌日の晩、仕事終わりのレジナルドが馬車の中で待っていると、薄桃色のドレスに真珠のブローチをつけたソフィアが姿を表した。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい。支度に少し手間取ってしまって……」
「まだ開演までには余裕がありますので、気になさらないでください」
レジナルドは優しくソフィアを見つめて首を横に振り、そんなことよりも、と穏やかな口調で続けた。
「そのドレス、よくお似合いです。初めてお会いした日のことを思い出しました」
その一言に、ソフィアは恥ずかしそうに俯き、小さな声で礼を言った。
このドレスは初めての顔合わせの日にソフィアが纏っていたものだった。一時間以上一人で悩み続けた挙句、見かねた侍女に背中を押され、クローゼットの奥から引っ張り出してきたのである。
「それからそのブローチは……」
「ええ、結婚の記念にいただいたものですわ」
「それは、恥ずかしい話ですが、両親が勝手の選んだものですので、できれば今度改めて私から新しいものを贈らせてください」
「そんな、悪いですわ」
「いいえ、そうしなければ私の気が済まないのです」
ちょうどそのとき、馬車が劇場の前で静かに止まった。レジナルドが先に降り、振り返ってソフィアに手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう――愛しい人」
その白い頬をドレスと同じ薄桃色に染めながら、ソフィアはそっと、手を重ねた。
その晩、王都屈指の名門劇場に集った観客達は、特等席に並んで観劇するフォスター子爵夫妻の、仲睦まじい姿を目の当たりにした。
「よお、久しぶりだな」
親しげな声が背後からかけられる。現れたのはトマス・ルーサム子爵令息だった。同じ子爵家と言っても、五十年遡れば平民のフォスター家とは違い、彼の家は百年以上続く由緒正しい家系である。しかし彼はそんな家柄の差など気にも留めず、寄宿学校で同部屋になって以来、レジナルドと十年来の友情を築いていた。
「奥方とはその後どうだ?」
彼はレジナルドの向かいのソファに腰を下ろすと、煙草に火をつけながらそう尋ねた。マリアンヌの事件の後、社交界にフォスター子爵夫妻の不仲の噂が流れた際に、レジナルドを案じていち早く連絡してきたのが彼だった。レジナルドが真相を説明すると彼は腹を抱えて笑っていたが、根は思いやり深い紳士である。
「問題ない。近々、観劇に誘うつもりだ」
「誘うつもり? まだ誘ってないのか?」
レジナルドの含みのある言い回しに、トマスは怪訝な顔をした。するとレジナルドは懐から黒革の手帳を取り出し、細かな字で埋め尽くされたページを指先で捲りながら、淡々と答える。
「それはまだ先だ。まず彼女の好みを調査し、該当する演目を三つまで絞り込んだ。次に彼女の予定と公演スケジュールを照らし合わせて……」
「……奥方とのデートにしては少し回りくどすぎやしないか?」
呆れたように言うトマスに、レジナルドは不満げに眉をひそめた。
「悪いか? 物事には順序というものがあるだろう」
「悪いね。まるで婚約者を初めてのデートに誘う若造のようだ。二十八の既婚者がやることじゃない」
きっぱりと言い切るトマスに対し、レジナルドは納得いかぬ様子で、ぶつぶつと言い訳を続けた。
※
それから一週間後の朝、いつものように出勤前にエントランスホールまで見送りにきたソフィアに、レジナルドは思い出したように声をかけた。
「明日の晩、観劇に行きませんか。偶々知人にセント・オルバンズ劇場の桟敷席を譲ってもらったのです。もしご予定がなければ、ぜひご一緒に」
「まぁ素敵! 楽しみにしていますわ」
突然の誘いに、ソフィアは声を弾ませ、満面の笑みで応じた。
「あぁ、良かった。それでは、行ってきます」
「お気をつけて、いってらっしゃいませ」
笑顔で夫を見送ったその直後、ソフィアは血相を変えてクローゼットへ駆け込んだ。
「明日……明日ですって!?」
結婚後にソフィアが仕立てた外出用ドレスは、深緑、濃紺、黒と、良く言えば落ち着きある、悪く言えば地味なものばかりである。初めての“デート”に着ていくには、もう少し華やかさが欲しかった。いっそのこと久しぶりに新調したい気分だったが、今からでは到底間に合わない。実家から持参した数少ない独身時代のドレスを広げて、ソフィアはああでもない、こうでもないと頭を悩ませた。
明るい色は、既婚者にはふさわしくないかもしれない。でも暗すぎれば地味すぎてしまう。そもそもレジナルドの好みは?アクセサリーのことも考えなくては……。
フォスター邸の広いクローゼットでソフィアは一人頭を抱えた。
※
翌日の晩、仕事終わりのレジナルドが馬車の中で待っていると、薄桃色のドレスに真珠のブローチをつけたソフィアが姿を表した。
「お待たせしてしまって、ごめんなさい。支度に少し手間取ってしまって……」
「まだ開演までには余裕がありますので、気になさらないでください」
レジナルドは優しくソフィアを見つめて首を横に振り、そんなことよりも、と穏やかな口調で続けた。
「そのドレス、よくお似合いです。初めてお会いした日のことを思い出しました」
その一言に、ソフィアは恥ずかしそうに俯き、小さな声で礼を言った。
このドレスは初めての顔合わせの日にソフィアが纏っていたものだった。一時間以上一人で悩み続けた挙句、見かねた侍女に背中を押され、クローゼットの奥から引っ張り出してきたのである。
「それからそのブローチは……」
「ええ、結婚の記念にいただいたものですわ」
「それは、恥ずかしい話ですが、両親が勝手の選んだものですので、できれば今度改めて私から新しいものを贈らせてください」
「そんな、悪いですわ」
「いいえ、そうしなければ私の気が済まないのです」
ちょうどそのとき、馬車が劇場の前で静かに止まった。レジナルドが先に降り、振り返ってソフィアに手を差し伸べる。
「さあ、行きましょう――愛しい人」
その白い頬をドレスと同じ薄桃色に染めながら、ソフィアはそっと、手を重ねた。
その晩、王都屈指の名門劇場に集った観客達は、特等席に並んで観劇するフォスター子爵夫妻の、仲睦まじい姿を目の当たりにした。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
さようなら、お別れしましょう
椿蛍
恋愛
「紹介しよう。新しい妻だ」――夫が『新しい妻』を連れてきた。
妻に新しいも古いもありますか?
愛人を通り越して、突然、夫が連れてきたのは『妻』!?
私に興味のない夫は、邪魔な私を遠ざけた。
――つまり、別居。
夫と父に命を握られた【契約】で縛られた政略結婚。
――あなたにお礼を言いますわ。
【契約】を無効にする方法を探し出し、夫と父から自由になってみせる!
※他サイトにも掲載しております。
※表紙はお借りしたものです。
短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜
美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?
夫から『お前を愛することはない』と言われたので、お返しついでに彼のお友達をお招きした結果。
古森真朝
ファンタジー
「クラリッサ・ベル・グレイヴィア伯爵令嬢、あらかじめ言っておく。
俺がお前を愛することは、この先決してない。期待など一切するな!」
新婚初日、花嫁に真っ向から言い放った新郎アドルフ。それに対して、クラリッサが返したのは――
※ぬるいですがホラー要素があります。苦手な方はご注意ください。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる