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第三の事件(後編)
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久しぶりに吸う外の空気は、雨上がりということもあってか、ひときわ澄んで感じられた。留置所を出ると、迎えの馬車のそばでレジナルドが静かに待っていた。
いつものように自然に手を差し出してエスコートする彼に対し、ソフィアはどのような顔をすればよいのかわからなかった。何しろ、結婚して以来、彼にあのように手を握られたことすら一度もなかったのだ。
「その……助けてくださりありがとうございます」
意を決して告げた感謝の言葉に、彼は静かに首を振った。
「いいえ。もとはといえば、私の個人的な過去が招いた事態ですから」
さらりと返されたその言葉に、ソフィアは少し拍子抜けしたような気持ちになった。どうやら胸を熱くしていたのは、自分だけだったらしい。ソフィアは気恥ずかしい思いを隠し、何事もなかったかのように馬車に乗り込んだ。
※
「妙ですわね?」
馬車の中でレジナルドから事件の顛末を聞いたソフィアは首を傾げた。
「伯爵夫人は招待状の隅に走り書きで助けを求めるほど、侍女と伯爵の監視が強かったはず。なぜ自分の死後に手紙が届くよう手配するなんて回りくどい手を使ったのでしょうか。生前に届いていれば助けられたかもしれないのに……」
その問いに、レジナルドは感心したように小さくため息をついた。
「実は、これは私がマリアンヌの筆跡を真似て書いたものです」
不意の告白にソフィアは思わず言葉を失った。
「許せなかったんですよ。マリアンヌを手にかけた挙句、無関係な貴女を巻き込んだ伯爵が」
低い声でそう言う彼の瞳の奥には確かな怒りが宿っていた。結婚して三年以上経つが、彼のそのような感情に触れるのは初めてだった。
「まあ結果的に本人が全て認めたので問題ないでしょう」
レジナルドは悪びれもせずそう言って偽の手紙を懐にしまった。
「それより、公衆の面前で夫婦の私事を口にしてしまい、申し訳ない。せっかく貴女の献身で当家の評判も上がってきたというのに、きっと心ない噂に晒されてしまう」
「そのことですが、一つ訂正させてください」
ソフィアはそっと視線を上げた。
「私、結婚が嫌で泣いたことなんてありませんわ」
それを聞いたレジナルドは、きっぱりと首を振った。
「いや貴女は確かに結婚式の時に涙を流していた」
「それは……結婚前に貴方が私のことを”趣味じゃない”と仰っているのを耳にしてしまって、悔しくて泣いたのです」
「そのようなことを言った覚えは……」
「いいえ、確かにこの耳で聞きましたわ。初めてお会いした日、お義父様と口論していたじゃありませんの」
「初めて会った日……」
レジナルドはその言葉を繰り返すと、しばらく沈黙し、やがて額に手を当てて頭を抱えた。
「……落ち着いて、一から説明させてください」
レジナルドの書斎は、屋敷の一番奥にあった。重厚な扉をくぐると、まず目に入ったのは壁をびっしりと覆う革表紙の蔵書だった。窓際には大きな木目調の机が置かれ、その上には水鳥の羽根ペンが横たわっている。
この静かな空間に立ち入ることを許されているのは、数人の信頼された使用人だけであり、ソフィアが足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
彼の趣味が滲む、飾り気のない革張りのソファに腰を下ろし、レジナルドは静かに口を開いた。
「ご存知のとおり、フォスター家が貴族としての地位を得たのは、私の祖父が不動産業で築いた財をもとに国王へ多額の寄付を行い、男爵位を授けられたことが始まりです――」
しかし、爵位を得たからといって、貴族社会がすぐに受け入れてくれるわけではない。いくら莫大な資産を有していても、新参者は軽んじられるのが常だった。
十代後半に、平民から突如”貴族の嫡男”となったレジナルドの父は、その冷遇の中で深い劣等感を抱くようになった。彼は家業である不動産業を”平民の職”と蔑み、軍人として国家に仕える道を選んだ。自ら志願して東方の戦線に赴き、前線で指揮を執った結果、その功績が認められ子爵位を授けられたのである。
そして、自らの息子レジナルドには、家系初の”生まれながらの貴族”として多大なる期待を寄せていた。家名を高めるために、上流階級専用の教育機関で学ばせ、自身と同じ軍人の道に進ませた。
また、歴史ある上級貴族と縁戚関係を築くことにも執着していた。レジナルドとマリアンヌの縁談もその一環だったが、彼女の実家の強い反対により破談に終わった。
「そこで家柄は古いけれど経済的に困窮していた我がレイヴンヒル家に白羽の矢が立ったのですね」
ソフィアの率直な言葉に、レジナルドは気まずそうに視線を逸らした。
「……まあ、そういうことになりますが……」
彼の父は、ソフィアの実家に多額の資金援助をすることで、この縁談を成立させた。
「実は、そのことは貴女に会う直前まで、私には知らされていなかったのです。そして初顔合わせの後、父と口論になりまして」
――ソフィア嬢は持参金には期待できないが、実家は数百年の歴史を持つ伯爵家だぞ!何が不満なんだ!
――女性を金で買うような趣味はない!
まさか聞かれていたとは……と、レジナルドは頭を抱えた。
「そうでしたの……私ったら勘違いで何度も失礼な態度を……」
真相を知ったソフィアは赤面し、顔を伏せた。
「いいえ、それは私も同じです。金にものを言わせて強引に結婚を迫った男として、嫌われているのだとばかり思っていました」
「そんなふうに思ったこと、一度もありませんわ……」
ソフィアは消え入りそうな声でそう呟いた。
その言葉に、レジナルドは彼女の前に膝をついて、そっと手をとった。
「もし、貴女さえよければ、これから夫婦として、一からやり直していただけませんか」
まるでプロポーズのようなその所作に、ソフィアはまともに彼の顔を見ることができなかった。それでもレジナルドは一途に彼女を見つめ、静かに返事を待っている。その眼差しに宿る真摯な光に、ずっと心の奥に抱えていた虚しさが、静かに満たされていくのを感じた。
「よろしくお願いします……」
ソフィアが精一杯声を絞り出すと、レジナルドはほっとしたように微笑んだ。
いつものように自然に手を差し出してエスコートする彼に対し、ソフィアはどのような顔をすればよいのかわからなかった。何しろ、結婚して以来、彼にあのように手を握られたことすら一度もなかったのだ。
「その……助けてくださりありがとうございます」
意を決して告げた感謝の言葉に、彼は静かに首を振った。
「いいえ。もとはといえば、私の個人的な過去が招いた事態ですから」
さらりと返されたその言葉に、ソフィアは少し拍子抜けしたような気持ちになった。どうやら胸を熱くしていたのは、自分だけだったらしい。ソフィアは気恥ずかしい思いを隠し、何事もなかったかのように馬車に乗り込んだ。
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「妙ですわね?」
馬車の中でレジナルドから事件の顛末を聞いたソフィアは首を傾げた。
「伯爵夫人は招待状の隅に走り書きで助けを求めるほど、侍女と伯爵の監視が強かったはず。なぜ自分の死後に手紙が届くよう手配するなんて回りくどい手を使ったのでしょうか。生前に届いていれば助けられたかもしれないのに……」
その問いに、レジナルドは感心したように小さくため息をついた。
「実は、これは私がマリアンヌの筆跡を真似て書いたものです」
不意の告白にソフィアは思わず言葉を失った。
「許せなかったんですよ。マリアンヌを手にかけた挙句、無関係な貴女を巻き込んだ伯爵が」
低い声でそう言う彼の瞳の奥には確かな怒りが宿っていた。結婚して三年以上経つが、彼のそのような感情に触れるのは初めてだった。
「まあ結果的に本人が全て認めたので問題ないでしょう」
レジナルドは悪びれもせずそう言って偽の手紙を懐にしまった。
「それより、公衆の面前で夫婦の私事を口にしてしまい、申し訳ない。せっかく貴女の献身で当家の評判も上がってきたというのに、きっと心ない噂に晒されてしまう」
「そのことですが、一つ訂正させてください」
ソフィアはそっと視線を上げた。
「私、結婚が嫌で泣いたことなんてありませんわ」
それを聞いたレジナルドは、きっぱりと首を振った。
「いや貴女は確かに結婚式の時に涙を流していた」
「それは……結婚前に貴方が私のことを”趣味じゃない”と仰っているのを耳にしてしまって、悔しくて泣いたのです」
「そのようなことを言った覚えは……」
「いいえ、確かにこの耳で聞きましたわ。初めてお会いした日、お義父様と口論していたじゃありませんの」
「初めて会った日……」
レジナルドはその言葉を繰り返すと、しばらく沈黙し、やがて額に手を当てて頭を抱えた。
「……落ち着いて、一から説明させてください」
レジナルドの書斎は、屋敷の一番奥にあった。重厚な扉をくぐると、まず目に入ったのは壁をびっしりと覆う革表紙の蔵書だった。窓際には大きな木目調の机が置かれ、その上には水鳥の羽根ペンが横たわっている。
この静かな空間に立ち入ることを許されているのは、数人の信頼された使用人だけであり、ソフィアが足を踏み入れるのはこれが初めてだった。
彼の趣味が滲む、飾り気のない革張りのソファに腰を下ろし、レジナルドは静かに口を開いた。
「ご存知のとおり、フォスター家が貴族としての地位を得たのは、私の祖父が不動産業で築いた財をもとに国王へ多額の寄付を行い、男爵位を授けられたことが始まりです――」
しかし、爵位を得たからといって、貴族社会がすぐに受け入れてくれるわけではない。いくら莫大な資産を有していても、新参者は軽んじられるのが常だった。
十代後半に、平民から突如”貴族の嫡男”となったレジナルドの父は、その冷遇の中で深い劣等感を抱くようになった。彼は家業である不動産業を”平民の職”と蔑み、軍人として国家に仕える道を選んだ。自ら志願して東方の戦線に赴き、前線で指揮を執った結果、その功績が認められ子爵位を授けられたのである。
そして、自らの息子レジナルドには、家系初の”生まれながらの貴族”として多大なる期待を寄せていた。家名を高めるために、上流階級専用の教育機関で学ばせ、自身と同じ軍人の道に進ませた。
また、歴史ある上級貴族と縁戚関係を築くことにも執着していた。レジナルドとマリアンヌの縁談もその一環だったが、彼女の実家の強い反対により破談に終わった。
「そこで家柄は古いけれど経済的に困窮していた我がレイヴンヒル家に白羽の矢が立ったのですね」
ソフィアの率直な言葉に、レジナルドは気まずそうに視線を逸らした。
「……まあ、そういうことになりますが……」
彼の父は、ソフィアの実家に多額の資金援助をすることで、この縁談を成立させた。
「実は、そのことは貴女に会う直前まで、私には知らされていなかったのです。そして初顔合わせの後、父と口論になりまして」
――ソフィア嬢は持参金には期待できないが、実家は数百年の歴史を持つ伯爵家だぞ!何が不満なんだ!
――女性を金で買うような趣味はない!
まさか聞かれていたとは……と、レジナルドは頭を抱えた。
「そうでしたの……私ったら勘違いで何度も失礼な態度を……」
真相を知ったソフィアは赤面し、顔を伏せた。
「いいえ、それは私も同じです。金にものを言わせて強引に結婚を迫った男として、嫌われているのだとばかり思っていました」
「そんなふうに思ったこと、一度もありませんわ……」
ソフィアは消え入りそうな声でそう呟いた。
その言葉に、レジナルドは彼女の前に膝をついて、そっと手をとった。
「もし、貴女さえよければ、これから夫婦として、一からやり直していただけませんか」
まるでプロポーズのようなその所作に、ソフィアはまともに彼の顔を見ることができなかった。それでもレジナルドは一途に彼女を見つめ、静かに返事を待っている。その眼差しに宿る真摯な光に、ずっと心の奥に抱えていた虚しさが、静かに満たされていくのを感じた。
「よろしくお願いします……」
ソフィアが精一杯声を絞り出すと、レジナルドはほっとしたように微笑んだ。
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