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八章 十七歳で一歩前進

(44)もっと食わなくていいのか?

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 腕組みして椅子に腰掛けた私は、テーブルの上に置いた木製の器を見つめていた。
 いや、にらみつけていた。
 場末の酒場でこの姿、理想的な若い娘がすべきことではない。
 でも私は、男のように腕組みを続けて空の木皿をにらんでいた。

「お嬢ちゃん、もっと食わなくていいのか?」

 横を通りかかった酒場の主人が声をかけてきたけれど、私は黙って首を振る。
 だって、仕方がないのだ。
 口を開けば、胃袋が欲するままに「おかわり!」と叫んでしまいそうだから。
 十七歳の若い胃袋は、あと五皿分の料理を欲していた。でも年頃の娘としての理性はそれを止めている。何より……腹巻きにしまいこんだ財布は、青ざめるほどに軽い。

 最近、私の財布はいつも軽かった。
 都に潜り込んでいた頃は笑ってしまうほど稼いでいたのに、今は実にささやかな暮らしだ。
 理由は簡単。
 この辺りでは魔獣の飼育をしていないからだ。
 危険手当がつく特殊な仕事だから、魔獣関係の仕事は稼ぎがいい。逆に言えば、魔獣に慣れていて魔力が強いだけの私は、普通の稼ぎ口しかない場所ではパッとしない。
 威圧するような容姿ではないせいで、用心棒とか護衛とかの仕事は回ってこないし、私の技量では女性の花形職業であるお針子などには絶対になれない。

 ならば都の近くで働けばいいのだろうけれど、最近は都の近辺は治安がよすぎるのだ。
 あの恐ろしいグライトン騎士団がこまめに巡回していて、私のような魔王を目指す野心的な人間には居心地が悪い。国内外に大きな紛争がないから、治安維持に動いているらしい。
 昨日も、東の盗賊団が討伐されたという話が入ってきて、酒場は大盛り上がりだった。
 先月なんて、密かに売り込みに行こうと考えていた魔王級の悪人集団が討伐されてしまった。南方戦争で功を上げた黒将軍様がここでも活躍したそうだ。周辺住民は喜んだだろうけれど、私にとっては迷惑極まりない。
 また、魔王への道が遠ざかってしまった。
 そんな状況だから、いかに稼ぎがいいと言っても都に行くことはできず、魔王のところで雇ってもらうための就職活動を考えると、拘束期間が長い魔獣商人と契約するわけにもいかず。
 気がつくと、わびしい食生活となっていた。

 ……いやたぶん、先週一目惚れして買ってしまった魔玉が高かったことが影響していると思う。
 でも、あの魔玉は仕方がないのだ。
 パッと見ただけで私の目は釘付けになってしまった。そのくらいとんでもない魔力貯蓄容量を持った魔玉で、しかもうっとりするほど美しい紫色だったのだ。素晴らしく希少な魔玉だから、つい足を止めてしまった。手にとってしまったのは、紫色の輝き具合がナイローグの目の色とそっくりだったからで、ハッと我に返った時には買っていた。
 価値を考えれば格安だった。それは断言できる。でも……今の収入を思い出すべきだった。
 後悔はしていない。でも、衝動買いだったとは思う。
 その美しい紫色の魔玉は、銀の枠をつけて腕にはめている。袖で隠れていても、その重みとジワリと感じる魔力は心地良い。
 いい買い物だったと満足ではあるけれど、おかげで今日も食事量が半分以下だ。
 もうため息しかでない。

「……足りない……」

 ため息を着いたら、本能の訴えまで言葉になってこぼれ出てしまった。
 まだ近くにいた酒場の主人にも聞こえたようだ。笑いながら新しい皿を持ってきてテーブルに置いた。

「ほら、やっぱり足りなかったんじゃねぇか。もっと食えよ」
「……でも、お金が……」
「ツケにしておいてやる。お嬢ちゃん、今日はこれから飼育場清掃の仕事があるんだろう? しっかり食って行かないと、牛どもに吹っ飛ばされちまうぞ」

 強面の主人は私の頭に手をポンとおいて、向こうに行ってしまった。
 いつもだったら半分結い上げた髪型の乱れを気にするところだ。でも今日の私は飼育小屋清掃用の格好だ。髪は一つに編んで服の内側に入れてしまっているだけだし、服装も着慣れたヘイン兄さんのお古だ。
 どこから見ても女顔の少年だろう。それでも酒場の主人がお嬢ちゃんと呼んでくれるのは、きちんとスカートをはいている普段の姿を知っているからだ。
 十七歳という年齢だから、私も大人の女性らしく振る舞うようにしていた。すごい進歩だと思う。昔のままなのは、身長と言葉遣いだけだ。

 私はそっとテーブルに目を戻す。
 鶏肉の煮込みが入った皿は、私の視線を引き付け、鼻腔を刺激する。
 なんといい匂いだろう。
 母さんが作る煮込み料理は、匂いだけのがっかり料理だった。
 でもここの煮込みは、本当に美味しい。この土地でよく食べる肉厚の葉物野菜はいい歯ごたえだし、しっかり煮込まれて柔らかくなった古鷄は味わい深い。何より、このスープにいい出汁が出ていて、最後の一滴まで飲み尽くさなければバチが当たる。
 うっとりと匂いを堪能していると、お腹が派手に鳴った。
 隣のテーブルの男が笑っているから、余裕で響き渡ったようだ。
 年頃の若い娘のはずなのに。
 でも私は……若いからこそ、恥じ入る前に食欲に負けた。
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