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九章 十八歳の激動

(50)なぜなのか

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 ナイローグとの最悪の再会の少し前。
 私は……上司である魔王の膝に座っていた。
 なぜなのか。
 ……そんなこと、私が聞きたい。

 魔王ドルゴス様の側近になることに成功した私は、二つ名を持つに至った。それは「魔王の侍女」。
 私が男なら「魔王の執事」とか名乗れるのだろう。でも悲しいことに私は女で、背も十分に伸びなかった。顔立ちも子供じみていて「魔王の女執事」というには少々迫力に欠けている。
 ちびっこ女執事もありじゃないか、と上司は言ってくれたけれど、私の美意識が許さない。執事というものは背が高くて痩身で、冷ややかな顔立ちと表情でなければならない。
 小柄で目が大きい童顔な私では無理なのだ。
 それで、黒いドレス姿の「魔王の侍女」となったのだけれど……やはりこのドレス姿はよくなかったのかもしれない。



「かわいい我が侍女よ。こちらへおいで」

 至急話し合いたいことがあると上司に呼ばれたから、大広間にある魔王様の玉座のそばまで行った。極秘だからもっと近くへ、と言われたから、人払いをして玉座の横に立った。
 そこまでは私の意思であり、私の美意識の範疇だ。
 でも上司殿は、私の腰に腕を回して引き寄せた。はっきり言ってこんな状況は考えたこともはない。だから完全に不意をつかれた。抵抗らしい抵抗はできず、まして大柄な男の力には勝てず、私は魔王様の膝に座る格好になってしまった。

 そう、膝である。
 異性の膝というものは椅子ではない。
 上司と部下の密談の場でもない。
 私の十八年分の常識ではそうなのだけれど、もしかして魔王業界には違う意味があるのだろうか。
 そんなことを真剣に悩むくらいには動揺した。
 お尻に上司の体温をしっかり感じてしまうし、横座り状態だから魔王様の恰幅のいい腹が密着してくるし、それに上司の顔が超近い。上司と部下の距離にしては近すぎる!

 それにそれに……自慢ではないけれど、私は異性とここまで近づいたことはない。
 ここまで近づいたのは、最近ではヘイン兄さんくらいだ。
 次点でナイローグだろうか。
 そのくらい、人との接触そのものに慣れていない。父さんの暑苦しい抱擁は十歳で卒業してしまった。
 あまりに稀なことだから、人の体温ってこんな風に感じるんだ……などと一瞬だけ逃避で感心してしまった。

「……あ、あの、そんなに重要な極秘事項の会議なのでしょうか」

 ありえないと思いつつ、私はできるだけ冷静に上司に聞いてみた。多少頬が強張っていても、大勢に影響はないだろう。
 でも上司様は、私の努力を丸無視するように、私の背中とか腰とかを撫で回してきた。

「もうちょっと肉付きがいい方が好みだが、うん、若いというのはたまらねぇよな」

 な、何がたまらないんですか!
 私は叫びそうになっている。でもやや脂ぎった顔が頬に近づいてきたので、それを押しやるのでいっぱいいっぱいだ。
 間近から見上げると、つるつるに剃り上げた頭がまぶしい。
 鼻息も荒い。
 と言うか、あんまり近づいたら大きく開いたドレスの胸元が丸見えになりそうだ。細かなレース編みで喉近くまで覆ってはいるけれど、深く切れ込む胸元に対して、私のささやかな胸は盛り上がりが乏しい。つまり全部見えてしまう危険があるから、覗き込みは絶対禁止なのだ!

 今度こそ顔を引きつらせ、全身に鳥肌を立てながら魔王のハゲ頭を押しのけようとしたとき、突然轟音が鳴り響いた。

 いや正確に言えば、その轟音の直前に私は異常に気付いた。
 侵入者だ。
 魔王の側近として、私が念入りに組み上げた魔法の結界が破られたのを感じた。そして「何か」が転移してくると悟り、私は上司のセクハラを一瞬棚上げして「何か」が現れるであろう方向に目を向けた。
 同時に警戒用の魔法も発動させた。
 番犬として飼育している魔獣も、すぐに大広間に転移させた。私の結界を破る相手にどこまで通用するかわからないけれど、仕掛けは多ければ多いほど機先を制することになる。

 結界が破られたと気付いた瞬間にすべての対処を終えた私は、結構すごいと思う。
 ……魔王様の膝に座ったままだったこと以外は。
 そのことを、あとあとまで何度も後悔した。
 私がまずすべきだったのは、上司のセクハラパワハラ行為を忘れて警戒することではなかった。
 いや、忠実なる魔王の侍女としては正しい選択だったとは思うけれど、侵入者で気をそらした上司を魔法で吹き飛ばしたり、魔獣飼育で鍛えた筋力に魔法を載せて引っ叩いたり、とりあえず鉄槌を下しておくべきだった。
 そうしていれば、彼に見られることはなかったのだ。
 この恥ずべき姿は、決して彼に見られてはいけないものだった。




 鼓膜に訴える激しい音と魔力が破られる幻の音が鳴り響き、大広間はまばゆい光に満たされた。
 私の魔獣が恐ろしい声で唸る。
 光が消えると、そこには抜き身の剣を手にした集団が生じていた。人数は予想していたより多い。二十人ほどだろうか。
 私の結界を破るだけでなく、この人数を転移させるとは。
 敵ながら見事な魔力だ。制御も効いていて、周囲を破壊するような無駄もない。術者の才能と努力はどれほどのものだったかと感心する。
 同時に、血が沸き立つような感覚にとらわれた。
 生まれて初めての、本気の腕試しだ。私の魔力がどこまで通じるのかがわかるかもしれないと思うと、えも言われぬ高揚感がある。
 いつの間にか、私は練習で会得した悪女の顔で微笑んでいた。……しかし。

「……シヴィル……?」

 転移術で現れた武装集団の先頭にいた男がつぶやいた。
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