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第二話
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六月の雨はしつこいほどに空から降り注ぐ。晴は正面に見える大きな窓越しに外を眺めた。人生経験上からは梅雨なのだろうと推測できるけれど、ニュースも観ない上に新聞も読まないために本当のところはよくわからない。でもきっと、葉なら知っているのだろう。今が梅雨なのか、梅雨ではないのか。なんて名前の草花が生き生きと茂って、どのような種類の生き物が栄えるのか。葉の口からなら聞いてみたい気がする。でもあれほど自然が好きな男も、ここ最近は雨のせいか大学の中庭に姿を見せないのだ。講義では見かけても、たくさんの友人に囲まれている葉に話しかけるのはかなり戸惑われた。最後に会って話をしたのはちょうど先週の雨上がりの中庭でのことだ。顔まで泥で汚して、一生懸命に生き物を捕まえていた姿。そんな葉を正面から見下ろして、真っ直ぐに向けられた丸い目がなんとも。
「晴、何か良いことでも考えてる?」
ふと隣からかかった声に慌てて顔を向ける。晴の顔を覗き込むように見ているのは親友の真だった。ううん、と首を軽く横に振ると、真は「へえ」と意味有り気な視線だけよこして、晴の肩をポンと軽く叩いた。
「仕事中ですからね」
「うん」
適当に頷いたけれど少々きまりが悪い。アルバイト中であることを忘れていたのは事実だ。
駅から少し離れた場所にあるこのアルバイト先は、煉瓦造りの凝った内装と洒落たメニューが有名なカフェである。十九時以降になれば酒類の提供もしていることから、正確にはカフェバーと言うのかもしれない。真と共にアルバイトを始めたのが昨年の六月ごろだったから、丸一年は働いていることになるだろう。複雑なカフェメニューや数多の酒類を覚えることには苦労したのの、真と一緒にシフトに入ることも多く、案外楽しく仕事ができている。
今日のような日は雨だからこその憂鬱さはあれど、気分は少し楽だった。カウンター内で作業をしていても、フロアに出て接客をしていても、いつものように不躾な視線を感じない。店内の客はほとんどが雨宿り目的らしく、静かに過ごしてくれているのだ。普段は晴や真目当ての女性客が訪れることが多いため、接客に忙しいのが常だった。考え事ができるほどに静かなシフトというのは珍しい。
でもこれ以上ぼんやりしている訳にはいかないだろう。今日はもう一つの仕事の打ち合わせもあるのだ。その仕事とは、幼い頃から続けているモデル業である。オーナーの厚意もあって、シフト終わりに店の一番隅の席を借りて打ち合わせをする予定なのだ。だからこそ、店の仕事も手を抜くわけにはいかない。
表の仕事は落ち着いている今、普段手をつけられないバックヤードの掃除でもしようか。面倒だなと思いつつもそう決めて、真に伝えようとしたその時だった。カランカランと鳴ったドアベルと激しい雨音。きっとまた雨宿りだろうと思いながら入り口を見遣ると、ずぶ濡れの男が勢いよく駆け込んできたところだった。水分で髪が重くなって目元が伺えないけれど、多分同世代くらいだろう。
「葉?」
「え、葉くん?」
真に一瞬遅れて、男が葉であると気がついた。薄暗い照明の店内ではわかりづらいものの、立ち姿は確かに葉だ。慌ててカウンターを抜け出して葉の元へ急ぐ。ずぶ濡れの彼は小刻みに震えているようだった。
「葉くん、大丈夫?」
晴が声をかけると、葉は前髪を掻き上げてパチパチと大きな目を瞬かせた。
「寒すぎるね。晴、こんにちは」
そんな挨拶に適当に頷きながら雨に濡れた肩に触れると、体は氷のように冷え切っている。
「葉、どうしたの」
その声と共に近寄ってきた真は、おそらくバックヤードから持ち出してきた大きな白いタオルで葉の頭を包んだ。わしゃわしゃとされるがままに拭われている様子はまるで犬みたいだ。なんだかムズムズソワソワするのは、晴も犬みたいな彼の頭を拭いてやりたいからかもしれない。
「真、ちょっと痛い」
「わがままだな。我慢しなよ」
二人の関係性はいつもこうだ。面倒を見るのが当然な男と、面倒を見られるのが当然な男。その点、晴ときたらまだ葉の面倒を見るまでに認められていない気がする。
「中においで。ヒーターあるから」
真が店内に促すと、葉は慌てたように首を横に振った。
「大丈夫。床濡れちゃうから」
「いいって。どうせ暇だし、掃除するから」
「いや、本当に。二人が働いてる店をちょっと見てみたいなって思っただけなんだ」
二人が、ということは、真だけでなく晴のことも頭数に入っているらしい。なんだか途端に良い気分で「そうなの?」と尋ねてみると、葉は素直にこくりと頷いた。
「本屋を出た時は小降りだったんだけど、急に雨粒が大きくなってさ。明日は水たまりがたくさんできるだろうから、アメンボが喜ぶね」
「ふふ。うん、喜ぶね」
アメンボが喜ぶと、葉も喜ぶ。それが晴としても嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。でも、真の細められた目と不意に視線がぶつかって、それとなく表情を取り繕った。
「本屋って、バイト?」
真が晴から葉へと視線を移しながらそう尋ねた。
「そう」
「大変だった?」
「床が濡れるから、掃除がね」
「お腹は空いてない?」
「空いてる」
「今なら紅茶淹れてあげるけど。よければカレーも食べて行く?」
「……カレー」
「しかも、晴の奢り」
突然出てきた自分の名前に「え?」と声が漏れたけれど、澄んだ大きな目を輝かせた葉を目の前にしたらなんでも良いかと思った。
誰もいないカウンター席に葉を案内すると、当然のように真が紅茶を淹れ始めた。つまり、カレーを奢るのも用意するのも、この晴の仕事ということだ。黙ってバックヤードへと下がって、オーナーが朝のうちに仕込んでおいてくれたカレーをかき混ぜながら温める。葉はカレーが好きなのだろうか。もし好きなのだとしたら、この前女の子たちから教わったカレーの美味しい店に行こうと誘ってみようか。その様子をちょっと想像してみて、「うーん」と唸った。友人から遊びに誘われることはあっても誘うことは少ないからなのか、晴が葉を誘うところを想像してみると格好悪くて不自然な気がする。こんなの晴らしくない。そんな風に考えていたら、表の方から「晴?そろそろどう」と真の声が聞こえてきた。鍋の中がぶくぶくと煮立ってきたことを確認して、火を止める。ライスと熱々のカレーを大皿によそって、冷蔵庫を漁ってミニサラダ用に用意していた輪切りのゆで卵を勝手に傍へ飾った。
店の方へと向かってカウンター席にいる葉の目の前にカレーライスを提供すると、大きな目が晴を捉えた。なんとなく動きを止めて、その瞳を覗き込む。
「晴、ありがとう」
「うん」
「この店のカレーは卵までのってるんだ」
黄色が可愛いね、と同意を求められて、思わず眉の辺りを指先で掻いた。幸い、真は玄関の辺りでモップがけをしている。それを確認してから、晴はそっと葉へ顔を近づけた。
「葉くんにだけ、特別」
葉は大きな目と共に口まで少し開けている。その様子が無防備で、あどけなくて、可愛い。そう思った瞬間に今までのあれこれがストンと腑に落ちた。葉は、すごく可愛い。そうか、可愛いのかと納得しながら笑いかける。すると葉は目をまん丸にしてから、今までで一番嬉しそうに笑った。
「晴、何か良いことでも考えてる?」
ふと隣からかかった声に慌てて顔を向ける。晴の顔を覗き込むように見ているのは親友の真だった。ううん、と首を軽く横に振ると、真は「へえ」と意味有り気な視線だけよこして、晴の肩をポンと軽く叩いた。
「仕事中ですからね」
「うん」
適当に頷いたけれど少々きまりが悪い。アルバイト中であることを忘れていたのは事実だ。
駅から少し離れた場所にあるこのアルバイト先は、煉瓦造りの凝った内装と洒落たメニューが有名なカフェである。十九時以降になれば酒類の提供もしていることから、正確にはカフェバーと言うのかもしれない。真と共にアルバイトを始めたのが昨年の六月ごろだったから、丸一年は働いていることになるだろう。複雑なカフェメニューや数多の酒類を覚えることには苦労したのの、真と一緒にシフトに入ることも多く、案外楽しく仕事ができている。
今日のような日は雨だからこその憂鬱さはあれど、気分は少し楽だった。カウンター内で作業をしていても、フロアに出て接客をしていても、いつものように不躾な視線を感じない。店内の客はほとんどが雨宿り目的らしく、静かに過ごしてくれているのだ。普段は晴や真目当ての女性客が訪れることが多いため、接客に忙しいのが常だった。考え事ができるほどに静かなシフトというのは珍しい。
でもこれ以上ぼんやりしている訳にはいかないだろう。今日はもう一つの仕事の打ち合わせもあるのだ。その仕事とは、幼い頃から続けているモデル業である。オーナーの厚意もあって、シフト終わりに店の一番隅の席を借りて打ち合わせをする予定なのだ。だからこそ、店の仕事も手を抜くわけにはいかない。
表の仕事は落ち着いている今、普段手をつけられないバックヤードの掃除でもしようか。面倒だなと思いつつもそう決めて、真に伝えようとしたその時だった。カランカランと鳴ったドアベルと激しい雨音。きっとまた雨宿りだろうと思いながら入り口を見遣ると、ずぶ濡れの男が勢いよく駆け込んできたところだった。水分で髪が重くなって目元が伺えないけれど、多分同世代くらいだろう。
「葉?」
「え、葉くん?」
真に一瞬遅れて、男が葉であると気がついた。薄暗い照明の店内ではわかりづらいものの、立ち姿は確かに葉だ。慌ててカウンターを抜け出して葉の元へ急ぐ。ずぶ濡れの彼は小刻みに震えているようだった。
「葉くん、大丈夫?」
晴が声をかけると、葉は前髪を掻き上げてパチパチと大きな目を瞬かせた。
「寒すぎるね。晴、こんにちは」
そんな挨拶に適当に頷きながら雨に濡れた肩に触れると、体は氷のように冷え切っている。
「葉、どうしたの」
その声と共に近寄ってきた真は、おそらくバックヤードから持ち出してきた大きな白いタオルで葉の頭を包んだ。わしゃわしゃとされるがままに拭われている様子はまるで犬みたいだ。なんだかムズムズソワソワするのは、晴も犬みたいな彼の頭を拭いてやりたいからかもしれない。
「真、ちょっと痛い」
「わがままだな。我慢しなよ」
二人の関係性はいつもこうだ。面倒を見るのが当然な男と、面倒を見られるのが当然な男。その点、晴ときたらまだ葉の面倒を見るまでに認められていない気がする。
「中においで。ヒーターあるから」
真が店内に促すと、葉は慌てたように首を横に振った。
「大丈夫。床濡れちゃうから」
「いいって。どうせ暇だし、掃除するから」
「いや、本当に。二人が働いてる店をちょっと見てみたいなって思っただけなんだ」
二人が、ということは、真だけでなく晴のことも頭数に入っているらしい。なんだか途端に良い気分で「そうなの?」と尋ねてみると、葉は素直にこくりと頷いた。
「本屋を出た時は小降りだったんだけど、急に雨粒が大きくなってさ。明日は水たまりがたくさんできるだろうから、アメンボが喜ぶね」
「ふふ。うん、喜ぶね」
アメンボが喜ぶと、葉も喜ぶ。それが晴としても嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。でも、真の細められた目と不意に視線がぶつかって、それとなく表情を取り繕った。
「本屋って、バイト?」
真が晴から葉へと視線を移しながらそう尋ねた。
「そう」
「大変だった?」
「床が濡れるから、掃除がね」
「お腹は空いてない?」
「空いてる」
「今なら紅茶淹れてあげるけど。よければカレーも食べて行く?」
「……カレー」
「しかも、晴の奢り」
突然出てきた自分の名前に「え?」と声が漏れたけれど、澄んだ大きな目を輝かせた葉を目の前にしたらなんでも良いかと思った。
誰もいないカウンター席に葉を案内すると、当然のように真が紅茶を淹れ始めた。つまり、カレーを奢るのも用意するのも、この晴の仕事ということだ。黙ってバックヤードへと下がって、オーナーが朝のうちに仕込んでおいてくれたカレーをかき混ぜながら温める。葉はカレーが好きなのだろうか。もし好きなのだとしたら、この前女の子たちから教わったカレーの美味しい店に行こうと誘ってみようか。その様子をちょっと想像してみて、「うーん」と唸った。友人から遊びに誘われることはあっても誘うことは少ないからなのか、晴が葉を誘うところを想像してみると格好悪くて不自然な気がする。こんなの晴らしくない。そんな風に考えていたら、表の方から「晴?そろそろどう」と真の声が聞こえてきた。鍋の中がぶくぶくと煮立ってきたことを確認して、火を止める。ライスと熱々のカレーを大皿によそって、冷蔵庫を漁ってミニサラダ用に用意していた輪切りのゆで卵を勝手に傍へ飾った。
店の方へと向かってカウンター席にいる葉の目の前にカレーライスを提供すると、大きな目が晴を捉えた。なんとなく動きを止めて、その瞳を覗き込む。
「晴、ありがとう」
「うん」
「この店のカレーは卵までのってるんだ」
黄色が可愛いね、と同意を求められて、思わず眉の辺りを指先で掻いた。幸い、真は玄関の辺りでモップがけをしている。それを確認してから、晴はそっと葉へ顔を近づけた。
「葉くんにだけ、特別」
葉は大きな目と共に口まで少し開けている。その様子が無防備で、あどけなくて、可愛い。そう思った瞬間に今までのあれこれがストンと腑に落ちた。葉は、すごく可愛い。そうか、可愛いのかと納得しながら笑いかける。すると葉は目をまん丸にしてから、今までで一番嬉しそうに笑った。
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