蝶々の夏

月丘きずな

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第三話

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 梅雨が明けたらしい。そう聞いたのはこの前同じ学科の女の子たちと遊んだ時だった。その言葉は葉から聞きたかったなと思いつつ、晴は「蝉が喜ぶね」と言った。女の子たちの反応はあまり覚えていない。ただただ、蝉が喜ぶと葉も喜ぶだろうなと思っていたのだ。学科一番の美人にボディタッチをされても、腕を組まれても、ずっとずっと上の空だった。
 大学の食堂の窓際は晴の特等席だ。大きな窓は中庭に面していて、花壇の一番近くの席が定位置である。金曜日の昼は特に気合を入れてこの場所を死守するのだ。なぜなら金曜日だけは、食堂と中庭でしか葉に会えないからだった。
「さすがに早いですね」
 そう揶揄うように言ったのは、四人がけテーブルの向かいにいつの間にか立っている真だ。彼のこういった態度には慣れたものだ。肩を竦めて、「まあね」とだけ言うと、真は「あれ、葉がいない」と中庭に視線を向けながら呟いた。金曜日の二限は空きコマらしい葉は、いつもは中庭にいるのだ。それなのに今の所姿が見えないことは晴も気になっていた。
「どこ行ったんだろ」
 着席しながら晴に聞いてくる真になんとなく苛ついてしまう。葉のことで真にわからないことは晴にもわからない。関係値で言ったら晴よりも真が上なことくらい、付き合いの長さが物語っている。でも勝手に苛ついているのも子供っぽい気がして、晴は首を傾げるだけにとどめた。
「晴くん、真くん」
 ふわりと香る甘いコロンの香り。女の子が好きそうな香りは、多分有名な雑誌とかに載っている代物なのだろう。そんなことを考えながら通路の方を見上げると、この前遊んだばかりの女の子たちが揃って立っていた。学科一番の美人である南が先頭に立って、その後ろに数人控えている。
「南さんたち、どうかした?」
「マイ」
「頑張れ、マイ」
 小さな声援と共に、後ろの方にいた可愛らしい女の子が押し出されて南の隣に並ぶ。
「あの、今日は天川くんは」
「え、葉?そのうち来ると思うよ」
 真が答えると、彼女は小さな声で「そうなんだ」と呟くように言った。
「ほら、マイ」
「う、うん。……実は」
 なんとなく嫌な予感がした瞬間、真と視線がぶつかる。
「実は、私、天川くんのことが、好きで」
「そういうことなの。だから二人も応援してくれない?」
 南の自信に満ちた声を聞きながら、葉のことが好きだという彼女を観察してみる。緩く巻かれた長い髪も、施されたメイクも、洗練された服装も、可愛いのかもしれないけれど個性には乏しい。葉にはふさわしくなさそうだ。
「まあ、無理かな」
「え、どうして?」
 晴の答えに、南が意外とでも言うように目を丸く見開いた。葉に好意を抱いているらしい彼女も、周りの取り巻きたちも、全員が予想していなかった返答らしい。
「いつもみたいに、みんなで遊ぶだけで良いんだけど」
「だから無理だよ。葉くん、好きな人いるし」
 これはまるっきり嘘だ。葉に好きな人がいるのかもいないのかも、実際にはわからない。でもどんなに好きな相手がいたとしても、きっと中庭の生き物には敵わないだろう。その考えは晴の心を救うのと同時に、激しいほど鋭く傷つけた。晴が心の痛みに息を詰まらせていると、晴に代わって目の前の真が「まあ、また今度ね」と彼女たちを笑顔で拒絶した。
 納得いかなそうなままに去っていく後ろ姿を見ていたら今度はムカムカしてくる。葉に近づこうだなんて、絶対に許せない。しかも一人で立ち向かう勇気も持たないだなんて、葉に好意を向ける資格すらない。彼女たちを見ていると気がおかしくなりそうで、晴は呼吸を荒くしながら今度は罪のない白色の机上を睨みつけた。
「晴、怒りすぎ」
 そう言った真を遠慮もせずに睨みつける。すると真は心外だと言うように目を瞬かせた。
「まあね、俺も面白くなかったけど」
「そうだろ」
「葉とマイちゃんを利用して、俺たちに近づきたいって見え見え」
 その考えはなかったけれど、言われてみればその通りかもしれない。そんなの余計に許せない。息が止まりそうになるほどに怒りが湧き上がる。
「それはそうとしても、そんなに怒るなんてどう言うこと?」
 真はいたって冷静に晴の目を覗き込んでくる。
「そりゃ、怒るだろ」
「晴、女の子好きじゃん」
 いつだか言われたことと同じ言葉なのに、否定したくて仕方がない。でもそれは男として健全ではない気がして、晴は必死に呼吸を整えて思考をクリアに近づけた。
「そりゃ、好きだよ」
「そうだろ?女の子の、どこが好き?」
「はあ?」
「ほら、どこが好きですか?」
 ふざけていると思ったのに、真は思いがけず真面目に晴のことを見ている。だから取り繕うように思考を巡らせた。
「女の子は、可愛いよ」
「うん。それで?」
「良い匂いがするし、優しい。それに、柔らかい」
「……柔らかい」
 復唱と共に若干軽蔑の眼差しを浴びて流石に慌ててしまう。親友にこの視線を向けられるのはショックだ。でも、これは序の口だった。
「やっぱり、晴ってすごく女の子が好きなんだな」
 心臓が信じられないくらい跳ねて、同時に隣を振り返る。そこには驚いたような、それでいて感心したような表情で、なぜだかふむふむと頷く葉が立っていた。
「え、いや……」
 言葉を詰まらせた晴に代わって、真がすかさず身を乗り出す。
「葉、これはたとえばの話」
「たとえば?」
「そう。たとえば、男は女の子のどこが好きなんだろうなって」
「なにそれ。変な話してるね」
 葉はそう言いながら、真の隣へと回り込んで椅子に緑色のリュックを置いた。いまだに心臓がバクバクしているけれど、同時にひどく心が傷ついている気がする。それは聞かれたくない話が聞かれたくない人に聞かれてしまったからなのか、それとも彼がいつもと同じく隣に座ってくれなかったからなのか。葉の優先順位は、いつだって晴より真が上なのだ。すでに真がなにやら冗談を言って、葉はケラケラと笑っている。今のやり取り全てにおいて葉の心は少しも反応しなかったのだと突きつけられて、それがさらにショックだった。
「二人とも、先にお昼買っておいでよ」
 真の提案に、鈍い動作で頷く。いつもだったらこの瞬間はすごく嬉しいのだ。葉と他愛もない話をして、葉のことをまた少し知って、その会話を何度も反芻する。でもそれに何の意味があるというのだろう。
 席を立って券売機に向かおうとすると自然と葉が隣に並んだ。いつもよりも少し近く感じる距離は、きっと晴の思い違いなのだろう。だって心はこんなにも遠く離れている。そう思ったのに、ふと背中に感じた温もりは、確認するよりも先に葉の手のひらだとわかった。思わず振り返って、少し低い位置にある綺麗な顔を見つめる。
「晴、大丈夫?」
「……え?」
「具合、悪い?」
 心から心配してくれているのだと晴にはわかった。だからこそ、フルフルと首を横に振る。勝手に気持ちを揺らして心配をかけるだなんて恥ずかしい。
「大丈夫だよ」
「そうなの?でも無理するなよ」
 ぽんぽんと優しく背中に触れられて、ゆっくりと温もりが離れていく。それが寂しいと思うのと同時に、葉が妙にイタズラな表情をしていることに気がついた。
「でもさ、晴は女の子にモテるんだから、辛いことなんてないはずなんだよ?」
「何それ」
 おどけて元気づけようとしているらしいその言葉に、思わず笑みがこぼれる。心が温かくなって、くすぐったいほどに可愛い。ところが葉は急に俯き、晴の腕をそっと掴んでから足を止めた。
「葉くん?」
 晴も自然と動きを止めて葉の顔を覗き込もうとした。
「でも、これだけは言わせてくれ」
 その言葉と共に、耳元にぐっと寄せられた唇。吐息が触れて、背中が震えた。
「俺だって、ちょっとくらいは、柔らかいはずだよ」
 息が止まった。見開いた目に、葉の笑顔が映る。イタズラが成功したかのような嬉しそうな顔に、可愛いと思う余裕なんてなかった。
 再び世界が動き出した時には、葉は目の前から消えていた。さっさと券売機の方へと去ってしまったことに気がついて、逃してたまるかと追いかける。そしてそのまま肩を抱いてみた。仲良くなってから数ヶ月は経っているけれど、こんな接触は初めてだ。晴は盛大にドキドキしている。至近距離で見る葉の横顔。キラキラな瞳は、今は虫ではなくメニュー表に夢中だ。困ったなと、素直に思った。どうしてこんなに無邪気な葉に惹かれてしまうのだろう。無邪気で、イタズラで、可愛くて、ちょっとくらいは柔らかいらしい。そんなの、どう考えたって。
「晴は何にするの?」
「葉くんは?」
「うーん。カレーか、カツ丼か」
 晴を見ようともしない葉の振る舞いには慣れている。寂しいのは確かだ。でも、それならどうにかして振り向かせたら良い。
「じゃあ、葉くんがカレーで、俺がカツ丼。一切れあげる」
 パッと振り返った葉は、満面の笑顔。それが向けられているのが晴だけだと思うと、この感覚が癖になりそうだ。
「いいの?ありがとう」
「いいえ」
 笑顔に応えるように渾身の微笑みを向けてみる。これで大抵の女の子は落ちるのだ。しかしそれに対して特別反応は見せず、葉は晴の腕から抜け出した。弾むような足取りで券売機へと向かっていく後ろ姿。まったく、困った生き物だ。晴は小さく溜息を漏らしつつもそんな葉のことが堪らなく好きで、そんな自分自身のことが割と好きだなと思えたのだ。
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