蝶々の夏

月丘きずな

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第七話

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 全部だめだ。何も上手く描けない。八月の静かな学内が余計に気を滅入らせる。透は鉛筆を軽く放り投げて、大きな溜息をついた。デッサンすら上手く描けないなんて、美術を学ぶ資格がない。描けない苦しさは描いている間の苦悩よりも辛かった。少し考えて、机に転がった鉛筆を拾い上げる。どうせ一時間後にはアルバイトだ。今日はもうやめにしよう。誰もいない講義室で荷物をまとめると、透はアルバイト先へと向かうべく、ゆっくりと立ち上がった。
 大学内を歩いているといくつかの視線を感じる。人と関わるのは苦手な方ではないけれど、こんな気分の日はいささか面倒だ。「透くん」だなんてかかった可愛い声に微笑みと共に手を振りながら、大きなキャンパスバッグを肩に担いで颯爽と校門を後にした。
 アルバイト先であるカフェチェーン店には、どうやら先週から仲間が増えたらしい。
「ヨウタだか、ヨウヘイだか、そんな感じの名前だった気がするよ。古川がヨウって呼んでたから」
 バイトリーダーがそう教えてくれたのはちょっと前のことだった。ヨウと聞いた瞬間に心が弾んだのは、自分の馬鹿らしいところであり、可愛いところだ。忘れもしない、幼稚園で出会った初恋の相手がヨウだったのだ。あの頃は性別なんて二の次で、自分と同じ男である彼のことを一生懸命に想い、結婚まで考えていた気がする。透の引越しで年長になる頃にはお別れをした仲だけれど、彼のことは確かに特別だった。
 初恋だなんて、甘酸っぱくて鮮やかで最高の題材だ。大人になった彼でも想像してデッサンしてみようか。いや、それは少し気持ち悪いかもしれない。そんなことを考えながら、辿り着いたカフェの裏口から店舗内に入る。簡易的な男子用のロッカールームに入室すると、そこにはちょうどエプロンを身につけている同じ年くらいの男が透に背を向けていた。見たことがない後ろ姿に、彼こそ新入りのヨウタだかヨウヘイだかだと察した。
「お疲れ様です」
 後ろ手に扉を閉めながらそう声をかけると、白いシャツにエプロン姿の彼が振り返る。甘栗色の髪に、大きな目。認識した瞬間、心の奥に何かが引っかかった気がした。「あ、はじめまして。昨日から入った天川です」
 天川、と口の中で呟いた瞬間、体の奥がブルブルと震えて、息が止まる。記憶の中の彼は、確かにそんな名前だったはずだ。いや、まさか。そう思うのに、心が先に間違いないと確信する。白い肌は柔らかそうで、繋いだ手の感触まで鮮明に思い出せる。きっと、彼だ。
「京極、透です」
 気づいて欲しくて、わざとゆっくり慎重に名乗ると、彼の大きな目が溢れそうなほどに見開かれた。


 十数年ぶりの再会を果たした場所は、薄暗い男子ロッカールームだった。街中とか、学校とか、いくらでも再会のシチュエーションを想像したことはあったけれど、まさか本当に目の前に現れてくれるとは思いもしなかった。
 ヨウは葉と書くらしい。彼のことを気にしながら三時間ほど働いて、やっと余裕ができた二十時過ぎになって知った事実だ。本人には言わなかったけれど、可愛いらしくて、明るくて、元気な彼にぴったりな名前だと思った。老若男女誰にでもフラットに優しくて、彼がいるだけで場が明るくなる気がする。仕事にも慣れてくれば、もしかしたらファンがつくかもしれない。
「ねえ、葉ちゃん」
「ん?」
 熱心に洗い物をする彼の横で、綺麗になったマグカップを布巾で軽く拭いていく。なんとなく心が浮き足立って、いつもの仕事がより楽しく思えるのが不思議だ。
「久しぶりの僕、どう思った?」
 透の質問に、葉は「えー、そうだな」と言いながら考えているようだ。こんな面倒な質問も真っ直ぐ受け止めて、嫌な顔せずに答えてくれようとしているらしい。
「透くんは、もっとかっこよくなったね」
 葉の言葉に、ふと昔を思い出した。あの頃、女の子みたいに可愛いと言われ続けることが何よりも嫌だった。葉はそんなことまで覚えていないかもしれないけれど、それでも自然と透が傷つかない言葉を選んでくれているようで、そこがまた彼らしさに思える。
「でもあんまりかっこいいと、俺は悔しいけど」
「悔しいって、どうして?」
「だってモテるだろ?モテてる人は俺の敵なの」
 葉はおどけたようにそう言って、チラリと透を見て笑った。幼い頃と変わらず素直で、お茶目で、あの頃の自分は人を見る目が確かだったらしい。
「葉ちゃんって、本当に可愛い」
 自然と口をついて出た言葉に、透自身が驚いた。今年成人の男相手に可愛いと思うだなんて、透らしくもない。言われた張本人は「そうかも」だなんてふざけたように言って、もう一度楽しそうに笑顔を見せるだけだ。透の言葉が彼の心には少しも反響しないのだとわかると、無性に悔しいのはなぜだろう。
「葉!」
 唐突に、店の方から葉を呼ぶ声が聞こえてきた。葉は「はーい」と大きな声で返事をして、透に対しては「呼ばれちゃった」と小さく囁いた。
「やっておくから、行ってきて」
「悪い、ありがとう」
 葉を見送って、洗い物に手をつける。やっておくと言いながらも、葉がほとんど終わらせていたためにすぐに片付いた。タオルで手を拭って、マグカップを並べたカゴごと店のカウンターへと運び込む。自然と目に入ったのは、先輩の女性店員に教えられながらドリンクを作る葉の姿だ。マグカップを所定の場所へ並べながらも、その横顔を自然と見守ってしまう。作っているのはホットドリンクのようだ。マグカップにドリンクを注いで、そこにホイップをのせる。そして最後に手に取ったのはキャラメルソースだ。
「それでハート描いて」
 その声は、葉をカウンター越しに見守っている男性客からのようだった。自然と顔を顰めてしまったのは、仕方がないことだろう。
「え、ハート?」
 驚いた様子の葉に、男性客は嬉しそうに頷いた。葉の後ろに立つ先輩の女性店員は客を止めるでもなく、微笑ましそうにそのやり取りを眺めている。
「ハートなんて描けないかも」
「いいから、葉くんなりのハート描いて」
 随分と馴れ馴れしい客だ。何かあったら助けに入ろうと思う透の傍ら、葉は一生懸命にホイップの上にキャラメルソースをかけ始める。
「……はい、ハート」
 ハートが完成したのか、客にマグカップを提供しようとした葉に、見守っていた女性店員は「ちょっとソースが少ないかも」と言った。
「そうですか?でも、ハートが」
「じゃあ、僕が描きましょうか」
 居ても立っても居られずに話に割って入った瞬間、例の男性客と目があった。無表情でやけに美しい顔をしている客は、透や葉と同年代に見える。
「僕、絵を描くのは得意なので」
 ラテアートは得意だし、キャラメルソースを扱うくらい苦労しないはずだ。そう思いながら、葉が提供しようとしていたマグカップをチラリと見る。どんな角度からもハートには見えないグチャグチャなキャラメルソースに、どうしてか胸がキュンとなった。
「透くん、助かるよ」
 丸い目を緩めて安心したような面持ちの葉からそう言われると、なんだか透の気遣いが認められた気がして心が明るくなる。ところが、透が手をかけようとしたところで、マグカップは客が取り上げてしまった。そして拗ねたように「ありがたいけど、結構です」とだけ言うと、窓際の席へと不機嫌そうに去って行く。
「晴、どうしたんだろ。せっかく美大生の透くんがハート描いてくれるところだったのにね」
 窓際の席でドリンクの写真を撮っている彼を眺めながら、葉が残念そうに呟いた。
「葉くん、心配ならお友達のところに行っておいで」
「え、いいんですか?」
「どうせ暇だから、ちょっとならいいよ」
 パアッと顔を輝かせた葉は、透たちに会釈をするとカウンターから出て彼の元へとかけて行った。その背中は随分と楽しそうだ。
「はあ、本当大変だわ」
 女性店員がやれやれと首を横に振った。
「大変って?」
「あのお客さん、葉くんのお友達なんだけど、葉くんことがかなり好きなのよ」
 まあ、そうだろうなとは思う。だから透が口を出したら嫌そうな顔をしたのだ。それくらい透にもわかる。自然を装って窓際の客席を見ると、向かい合って座った彼らが楽しそうに笑いあっていた。
「葉くんが描いたハート、待ち受けにする」
「なんでだよ。あんまり可愛く描けなかったのに」
「可愛いよ。とっても」
「本当?じゃあ次はもっと上手に描けるように練習する。子供とかにも描いてあげたいから」
「子供なんて適当でいいんだよ。俺にだけにして」
 漏れ聞こえてくる会話は随分と仲が良さそうだ。
「いつくっつくのやら。葉くん次第ね」
「え?くっつくって」
 女性店員の言葉に唖然としながら、窓際の二人を見遣る。客の少ない店内では一際目立つ二人だ。葉が仕事に戻ろうと席を立つと、男が彼の右手をふと握る。
「待ってるから、頑張って」
「うん。ありがとう」
 軽く手を振り合って、葉が小走りで戻ってくる。その背中を見つめる強烈な視線がふと透を捉えた。真っ直ぐな威嚇に負けないように、透も彼を見つめ返す。彼が葉へ好意を向けていることはわかった。でも問題は、彼が葉にとっての何なのかということだ。再会初日にこんなことを気にするなんておかしいのかもしれない。でも、透にとって葉は大事な初恋相手であることには間違いないのだ。
「透くん、今日の売り上げデータ確認しておいてくれる」
 バイトリーダーからかかった声に、ようやく彼から視線を外した。本当は先に目を逸らしたくはなかったけれど、「はい」と返事をしてくるりと体を翻す。するといつの間にか至近距離にいた葉と目が合った。
「透くん、晴のこと知ってるの?」
「晴って、あの子?葉くんの友達の」
「そう。なんか今」
 何か言いかけた葉に被さるように、「透くん」とバイトリーダーに呼ばれてしまう。「すぐ行きます」と返事をしながらもう一度葉の顔を見下ろすと、彼はフルフルと首を横に振った。
「なんでもない。やっぱり二人ともかっこいいから」
「え?」
「気にしないで。呼ばれてるよ」
 そう言った葉は一見変わらない様子に見えたけれど、向けられた背中が寂しそうで、透はそれが気がかりだった。
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