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第九話
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八月の半ば、真は葉と一緒に地元に帰った。大学生の夏休みは長い。それでもアルバイトがあるために、帰省は二泊三日ほどだった。その間中、葉の様子がおかしいことには気がついていた。比較的いつもおかしい子だけれど、食いしん坊のくせに夏祭りに出かけてもずっとぼんやりしていたのだ。その様子を心配したのは真だけではなかった。
「葉、どうかしたの」
夏祭りから帰って葉の家でくつろいでいたところで、葉の弟がそう話しかけてきたのだ。これは非常に珍しいことだった。幼い頃は真のこともよく慕っていてくれていたけれど、ここ数年は真が葉と一緒にいると良い顔をしないのだ。
「朔。やっぱりあの子、おかしいよね」
天川家のリビングには、ソファに座る真と、その横に立つ朔の二人きりだ。葉は風呂にでも行っているのだろう。それでも一応こっそりと言葉を返すと、朔はぎゅっと顔を顰めた。
「葉になにがあったのか、知らないの?」
「まあね。そんなに心配なら直接聞いてみたら良いよ」
「ふん」
朔はわかりやすくそっぽを向いて、リビンングから出て行ってしまった。今年高校二年になった朔は、多分まだ怒っている。昔から異様に葉のことが好きな子だったから、実家から遠く離れた大学に進学した葉のことを許していないのだ。それでも葉が話しかけたら嬉しそうに反応するのだから、二人の関係性については放っておいても大丈夫だろう。
問題は、ここ最近様子のおかしい葉のことについてだけだ。葉が正気を取り戻したのは、夏祭りの途中で神社に立ち寄った際にトカゲを見つけた時だけだった。それ以外は基本的にぼんやりして、時々小さく溜息を漏らしている。
だから地元から戻って数日後、夕方からアルバイトらしい葉の様子を見に行ってみようと真は思い立った。葉のことが心配だったこともあるし、葉の新しい職場の雰囲気もずっと気になってはいたのだ。せっかくなら夕食も兼ねてと出かけた先にいたのは、働く葉を窓際の席から眺め続ける晴だった。夏休み中も真自身のアルバイト先であるカフェバーではよく顔を合わせているけれど、いつ見ても相変わらず美しい男だ。その存在はキラキラと輝いていて、女性客のほとんどは晴に夢中なように見えた。
「晴」
「あっ、……ふん」
そう言ってそっぽを向いた晴に、朔の姿が重なる。顔が良くて面倒な男に一途に愛されるのは、葉の得意分野なのだろう。
「なに怒ってるんだよ」
そう聞きながらも、不機嫌の理由はわかっている。真が葉と一緒に地元に帰ったことに嫉妬しているのだ。ちょっと呆れながら、二人がけの向かいの席に着席する。微妙な沈黙は気にしない。気にしたところでただ面倒だからだ。そう思っていたところで、晴の視線がカウンターの方へ向けられたことに気がついた。
「……葉くん、最近どうかしたの」
その視線を追ってみると、カウンターの中で客から注文をとっている葉がいる。大きな目で相手を見つめて、なにが面白かったのか客と一緒になって笑っている姿。こうしているといつもの葉に見えるけれど、接客を終えてバックヤードへと向かっていったその横顔は気落ちしているように見えた。
「やっぱり、おかしいよな」
「……あいつのせいかな」
改めて晴の視線を辿ると、そこには綺麗な男が一人。バックヤードを振り返って、それから葉を追っていく姿が見えた。あの男が恐らく京極透だろう。確か年長になった頃くらいまで真と葉と同じ幼稚園に通っていて、葉にプロポーズまでした男だ。もしかしたら、あの時から既に葉の特殊体質は始まっていたのかもしれない。
「なんで透くんのせいだって思うわけ?」
「あいつが現れてから、なんか嫌だ」
「嫌だって言ってもね、そりゃ初恋だから」
「えっ!」
珍しく目をまん丸にして驚いた様子の晴に、「知らなかった?」と聞いてみると、晴は眉間に皺を寄せて「どうせ知らなかったよ」と答えた。
「それは、葉くんの初恋ってこと?」
「いや、葉はどうだったかな。あの頃はダンゴムシと蝶々に夢中だったから」
「じゃあ、あいつの初恋相手が葉くんってことか」
怪しいと思ったんだ、と呟いた晴に、少し笑えてくる。真からしたら、晴の容姿は誰よりも美しいと思う。クールぶっているものの、心根は誰よりも優しくて思いやりのある男だ。女癖が少々悪いところが玉に瑕だったからこそ、今の晴は前よりずっと魅力的に見えた。
そしてあっという間に半月経ち、今日からは九月だ。大学生の身分だと月末までは夏休みを謳歌できるから、まだまだ降り注ぐ厳しい日差しにも耐えられるというものだ。楽しいバカンスというよりも、アルバイトに精を出す毎日。それは葉も、そして今、カフェバーのカウンター内でお盆にドリンクをのせている晴も同じである。土曜日の昼下がりはやたらと忙しい。
「真、次二番テーブルにアイスティーとホットコーヒー」
「はいよ」
涼しい顔で店の奥の方にある卓にコーヒーを届けに行った晴は、多分すぐには帰って来られないだろう。あの席のマダムたちは晴のことがお気に入りなのだ。その帰りの動線にも晴狙いの女子大学生が二組ほどいる。ということは、今注文が入っている分は真が全て配膳しなければならないだろう。
色々と考えながら仕事をこなしていると、新たな来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。さっと入り口を見上げると、そこには葉と、見間違いでなければ透が立っている。珍しい来訪者に多少驚きながらも、真は葉と視線を合わせて「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「二人です」
「はい」
店をぐるりと見渡す。テーブル席はすっかり埋まっていて、空いているのはカウンター席の端の二席だけだ。とりあえず空いていて良かったと思いながら席を手で示すと、葉はこくりと頷いて透と一緒にカウンターへ近づいてきた。
「真、忙しい時にごめんな」
「良いって。むしろ嬉しいよ」
「こちら、この前話してた京極透くん」
葉の様子を見に行った時に遠目からは見ていたものの、近くで見ると王子様のような見た目にただ感心してしまう。昔から美少女のようだった記憶はあるけれど、あの子がこんな風に成長したのかと感慨深くなった。
定型的な挨拶を交わして着席を促すと、透はさっと葉の椅子を引いて先に座らせた。
「透くんて、本当に王子様みたいだ」
「ふふ、そんなことないよ」
二人のやり取りに胸がザワザワする。メニューを二冊渡したのに揃って一冊を覗き込む様子は、思っていたよりもずっと仲が良くなっている証拠だろう。
「僕はアイスティー。葉ちゃんは?」
「うーん、オレンジジュースかな」
「うん、いいね。可愛い」
こんな二人の姿を晴が見たら失神してしまうのではないだろうか。思わず奥の席を確認すると、晴はまだマダムたちに捕まっているようだ。そのことに少し安心しつつ、早くメニューを決めてくれと願うばかりだ。
たっぷり時間をかけてフードメニューまで注文を済ませると、葉と透は楽しそうに会話を始めた。爽やかで紳士的な透は、きっと女性にも大いにモテるのだろう。葉の意味のわからない生物論にも軽やかに笑って、誰がどう見ても好青年だ。
「葉ちゃんはカレー選んでたけど、好きなの?」
「うん。カレーには良い思い出があるんだ」
「へえ、どんな?」
「あ、いや。どんなだったかな」
「あはは!思い出したら教えてね」
いつも以上におとぼけの葉にも上手く対応して、真が提供したアイスティーを飲む姿も様になっている。一方で葉をチラリと見てみると、自分のオレンジジュースと透のアイスティーを交互に見つめて、少し悲しそうな顔をしていた。
「葉、どうかした?」
忙しいなりにも葉の様子が気になって尋ねてみる。すると葉は分かりやすく愛想笑いを浮かべて、「別に、大丈夫」と答えた。
それからしばらくして、疲れた表情の晴がカウンターへ戻ってきた。もうあのマダムたちにはできる限り近づけさせない方が良いかもしれない。
「お疲れ、晴」
「長く空けてごめん」
「いい。お前はよく頑張った」
少しおどけて返したら、晴はちょっと面白そうに笑った。ところが、その笑顔がすぐに固まってしまったのは、真の予想通りと言えばそうかもしれない。
「晴」
そう晴へ声をかけた葉の表情は、嬉しさと、緊張と、よくわからない不安。真はそう読み取った。こんなに複雑な顔をする葉はかなり珍しい。
「ほら、透くんだよ」
いきなり紹介された透は少し驚いたような顔をして、それから晴へぺこりと挨拶をした。晴も軽く会釈を返したけれど、なんとも不穏な空気だ。その空気を打ち壊したのは、二人を交互に見つめていた葉だ。なぜだか安心したような顔をして、「良かった」と小さく呟いた。
それ以降、晴は普段以上にガムシャラに働いているように見えた。カウンターにいると二人の姿が目に入って気が散るのかもしれない。だんだん空いてきた店内に、葉たちにもテーブル席を案内してやろうかと考える。でもその思考が途切れたのは透の緊張したような声が聞こえてきたからだった。
「葉ちゃん、あのさ」
「ん?」
「実は今、スランプなんだ」
「スランプって、絵が描けないってこと?」
「そうなんだ。もうずっと」
「美大生も大変だ」
「うん、それでさ。……いや、もし嫌じゃなかったらなんだけど」
言葉の続きが気になって、自分の動きで生じる音を最小限に抑える。本当は洗い物をしたいけれど、そんなことは二の次だ。
「本当、嫌じゃなかったらね、僕の絵のモデルになってくれないかな」
デートの誘いや告白ではなかったことに一瞬安堵したものの、果たしてモデルという言葉に安心しきって良いのかともう一度耳をそばだてる。
「もちろんお礼もするよ。どうかな」
「俺がモデルって変じゃない?もっと良い生き物紹介するって」
「葉ちゃんがお勧めする生き物もきっと素敵だけど、僕は葉ちゃんが描きたいんだ」
だめかな、と首を傾げる姿をこっそり眺めて、葉の様子を伺ってみる。葉は少し困った顔をしながらも、最終的にはゆっくりと頷いた。
「透くんが描いてくれるなら、俺も嬉しいけど」
「本当?」
「うん。でも、俺の何を描くの?顔?」
「顔も描きたいし、全身も描きたいけど、最終的には背中を描きたいなと思ってる」
「背中」
「そう、早ければ来週のこの時間」
「来週ならいいよ」
「……それで、もしかしたら上だけ、服は脱いでもらうかもしれない」
真の心臓がドクリと鳴った瞬間だった。ガシャンッと衝撃的な音がして、慌てて音の発生源を探ってみる。それは葉たちの後ろにあるテーブル席からだった。どうやら晴がグラスを回収しようとして、うっかり取り落としたらしい。幸い客は帰った後だったために、被害は最小限だろう。急いで布巾を持って駆け寄りながら確かめてみると、グラスも割れてはいなかった。
「ごめん」
「うん、大丈夫?」
真が尋ねると、晴はこくりと頷いた。二人でテーブルを片付けて、グラスや皿を引き上げる。一緒にカウンター内に戻ると、透は席を外しているようで葉だけが座っていた。先ほどの話はどうなったのだろうか。でも一応、客の会話について根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。
「大丈夫だった?怪我はない?」
そう晴に話しかけた葉の顔がさっと青ざめた。何事かと思って様子を見ていると、しきりに晴の顔を覗き込んでいる。
「晴、気分でも悪いの?」
「……別に、大丈夫」
「本当に大丈夫?顔色が」
「グラス割りそうになって慌てただけ」
珍しく葉のことは少しも見ずに、晴はそう言った。葉は納得いかなそうな顔をしているけれど、すぐに思い直したように表情を明るく取り繕ったようだった。今日の葉は忙しそうだ。自然界の生き物以外に対して、一生懸命に感情を動かしている。
「そうだ!透くんもきっと晴に会えて嬉しいと思うよ」
つい先程形式的な挨拶をしていたように見えたけれど、晴と透は仲が良いのだろうか。仲良くなる瞬間なんてあっただろうかと考えながら晴へ視線を移した時、真は思わずギョッとしてしまった。晴が怒っている。しかも、史上最高潮にだ。これまで晴のことを散々揶揄ってきたけれど、こんなに怒りに震えている姿は初めて見た。
「透くんもカレーが好きみたい。ここのカレー、美味しいよね」
「……あのさ」
地の底から這い上がってくるような晴の声に、葉がぴくりと体を震わせた。真は黙って二人を見守ることしかできない。
「な、なに」
「透くんとやらが、俺に会えて嬉しいって?」
「う、うん」
「俺に会えて嬉しいと思うなら、俺をモデルにするんじゃないの」
「え?……いや、それは」
「葉くんもちゃんと考えなよ。男の裸なんて、普通描かないでしょ」
葉の目が見開かれて、晴のことを見つめる。一生懸命な眼差しは、どうしてかひどく傷ついているように見えた。
「……晴がそう思うのは」
「なに」
「俺だからなんじゃないの」
「なにそれ」
「そりゃさ、俺は可愛くもないし、良い匂いもしないよ。もしかしたら柔らかくもない」
「今そんな話してない」
「透くんだって、晴がいいに決まってるじゃん」
「はあ?」
話の流れがよくわからなくて、真なりに必死に考える。葉へのモデルの依頼に対して晴が嫉妬していることはわかった。でも、葉にはそれがわかっていなさそうだ。それに、どうして葉まで怒っているのだろう。
登場人物と相関図を脳内に思い浮かべて整理しているうちに、透がお手洗いの方から戻ってきた。そして微妙な空気を敏感に察知したらしく、すぐに葉に向けて「そろそろバイトに行こうか」と声をかけた。葉は俯いたまま、コクッと頷いた。
真がレジに立って、一人ずつ会計を済ませる。その間葉は黙っていたけれど、最後に小さな声で呟いた。
「ごめん。全部俺が悪いね」
苦しそうなその表情に、今にも泣き出すのではないかと心配になった。でも葉は大きく息を吸い込むと、ニッと笑って「またね」と言った。透と店から出ていく後ろ姿を見送ってから、チラリと隣の晴へ視線を移す。
「どういうつもり」
「……」
「まあ、葉のことが好きなら怒りたくもなるか」
「……」
「なんかあの子、今日は特に変だった。まあ、いつも変だけどさ」
「……うん」
「あんなに複雑な葉、初めて見た気がする」
「本当、なに考えてるんだか」
「あのさ、これは俺の推理だから、なんの確証もないんだけど」
いや、まさかと思いながら、続けてみる。
「葉、なんか勘違いしてない?」
「勘違い?」
「葉さ、晴が透くんのこと好きだって思ってない?」
「ありえないでしょ」
「いや、そうだよね。変なこと言って悪い」
でも、葉は晴に一生懸命透のことをアピールしているように見えた。もし真の推理が正しいのだとしたら、色々とおかしくても辻褄は合う。
「葉くんは、あいつのことが好きなのかな」
「なんでそう思うの?」
「あんなに嬉しそうに人間のことを話す葉くん、初めてだもん」
確かに、それはそうかもしれない。葉のことは大抵のことならわかってきたつもりだった。それなのに、二十年になる付き合いの中で今回が一番難しい。複雑すぎて、もう面倒だから後で葉に直接聞いてみよう。
だんだんと落ち着いてきた店内は、これから夕飯時にかけて忙しくなるだろう。そろそろシフトの時間は終わりだけれど、後に続く人のためになるべく仕事を減らすまでが仕事だ。気持ちは晴れないながらも、真は持ち前の器用さでなんとか仕事に集中してみるのだった。
「葉、どうかしたの」
夏祭りから帰って葉の家でくつろいでいたところで、葉の弟がそう話しかけてきたのだ。これは非常に珍しいことだった。幼い頃は真のこともよく慕っていてくれていたけれど、ここ数年は真が葉と一緒にいると良い顔をしないのだ。
「朔。やっぱりあの子、おかしいよね」
天川家のリビングには、ソファに座る真と、その横に立つ朔の二人きりだ。葉は風呂にでも行っているのだろう。それでも一応こっそりと言葉を返すと、朔はぎゅっと顔を顰めた。
「葉になにがあったのか、知らないの?」
「まあね。そんなに心配なら直接聞いてみたら良いよ」
「ふん」
朔はわかりやすくそっぽを向いて、リビンングから出て行ってしまった。今年高校二年になった朔は、多分まだ怒っている。昔から異様に葉のことが好きな子だったから、実家から遠く離れた大学に進学した葉のことを許していないのだ。それでも葉が話しかけたら嬉しそうに反応するのだから、二人の関係性については放っておいても大丈夫だろう。
問題は、ここ最近様子のおかしい葉のことについてだけだ。葉が正気を取り戻したのは、夏祭りの途中で神社に立ち寄った際にトカゲを見つけた時だけだった。それ以外は基本的にぼんやりして、時々小さく溜息を漏らしている。
だから地元から戻って数日後、夕方からアルバイトらしい葉の様子を見に行ってみようと真は思い立った。葉のことが心配だったこともあるし、葉の新しい職場の雰囲気もずっと気になってはいたのだ。せっかくなら夕食も兼ねてと出かけた先にいたのは、働く葉を窓際の席から眺め続ける晴だった。夏休み中も真自身のアルバイト先であるカフェバーではよく顔を合わせているけれど、いつ見ても相変わらず美しい男だ。その存在はキラキラと輝いていて、女性客のほとんどは晴に夢中なように見えた。
「晴」
「あっ、……ふん」
そう言ってそっぽを向いた晴に、朔の姿が重なる。顔が良くて面倒な男に一途に愛されるのは、葉の得意分野なのだろう。
「なに怒ってるんだよ」
そう聞きながらも、不機嫌の理由はわかっている。真が葉と一緒に地元に帰ったことに嫉妬しているのだ。ちょっと呆れながら、二人がけの向かいの席に着席する。微妙な沈黙は気にしない。気にしたところでただ面倒だからだ。そう思っていたところで、晴の視線がカウンターの方へ向けられたことに気がついた。
「……葉くん、最近どうかしたの」
その視線を追ってみると、カウンターの中で客から注文をとっている葉がいる。大きな目で相手を見つめて、なにが面白かったのか客と一緒になって笑っている姿。こうしているといつもの葉に見えるけれど、接客を終えてバックヤードへと向かっていったその横顔は気落ちしているように見えた。
「やっぱり、おかしいよな」
「……あいつのせいかな」
改めて晴の視線を辿ると、そこには綺麗な男が一人。バックヤードを振り返って、それから葉を追っていく姿が見えた。あの男が恐らく京極透だろう。確か年長になった頃くらいまで真と葉と同じ幼稚園に通っていて、葉にプロポーズまでした男だ。もしかしたら、あの時から既に葉の特殊体質は始まっていたのかもしれない。
「なんで透くんのせいだって思うわけ?」
「あいつが現れてから、なんか嫌だ」
「嫌だって言ってもね、そりゃ初恋だから」
「えっ!」
珍しく目をまん丸にして驚いた様子の晴に、「知らなかった?」と聞いてみると、晴は眉間に皺を寄せて「どうせ知らなかったよ」と答えた。
「それは、葉くんの初恋ってこと?」
「いや、葉はどうだったかな。あの頃はダンゴムシと蝶々に夢中だったから」
「じゃあ、あいつの初恋相手が葉くんってことか」
怪しいと思ったんだ、と呟いた晴に、少し笑えてくる。真からしたら、晴の容姿は誰よりも美しいと思う。クールぶっているものの、心根は誰よりも優しくて思いやりのある男だ。女癖が少々悪いところが玉に瑕だったからこそ、今の晴は前よりずっと魅力的に見えた。
そしてあっという間に半月経ち、今日からは九月だ。大学生の身分だと月末までは夏休みを謳歌できるから、まだまだ降り注ぐ厳しい日差しにも耐えられるというものだ。楽しいバカンスというよりも、アルバイトに精を出す毎日。それは葉も、そして今、カフェバーのカウンター内でお盆にドリンクをのせている晴も同じである。土曜日の昼下がりはやたらと忙しい。
「真、次二番テーブルにアイスティーとホットコーヒー」
「はいよ」
涼しい顔で店の奥の方にある卓にコーヒーを届けに行った晴は、多分すぐには帰って来られないだろう。あの席のマダムたちは晴のことがお気に入りなのだ。その帰りの動線にも晴狙いの女子大学生が二組ほどいる。ということは、今注文が入っている分は真が全て配膳しなければならないだろう。
色々と考えながら仕事をこなしていると、新たな来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。さっと入り口を見上げると、そこには葉と、見間違いでなければ透が立っている。珍しい来訪者に多少驚きながらも、真は葉と視線を合わせて「いらっしゃいませ」と声をかけた。
「二人です」
「はい」
店をぐるりと見渡す。テーブル席はすっかり埋まっていて、空いているのはカウンター席の端の二席だけだ。とりあえず空いていて良かったと思いながら席を手で示すと、葉はこくりと頷いて透と一緒にカウンターへ近づいてきた。
「真、忙しい時にごめんな」
「良いって。むしろ嬉しいよ」
「こちら、この前話してた京極透くん」
葉の様子を見に行った時に遠目からは見ていたものの、近くで見ると王子様のような見た目にただ感心してしまう。昔から美少女のようだった記憶はあるけれど、あの子がこんな風に成長したのかと感慨深くなった。
定型的な挨拶を交わして着席を促すと、透はさっと葉の椅子を引いて先に座らせた。
「透くんて、本当に王子様みたいだ」
「ふふ、そんなことないよ」
二人のやり取りに胸がザワザワする。メニューを二冊渡したのに揃って一冊を覗き込む様子は、思っていたよりもずっと仲が良くなっている証拠だろう。
「僕はアイスティー。葉ちゃんは?」
「うーん、オレンジジュースかな」
「うん、いいね。可愛い」
こんな二人の姿を晴が見たら失神してしまうのではないだろうか。思わず奥の席を確認すると、晴はまだマダムたちに捕まっているようだ。そのことに少し安心しつつ、早くメニューを決めてくれと願うばかりだ。
たっぷり時間をかけてフードメニューまで注文を済ませると、葉と透は楽しそうに会話を始めた。爽やかで紳士的な透は、きっと女性にも大いにモテるのだろう。葉の意味のわからない生物論にも軽やかに笑って、誰がどう見ても好青年だ。
「葉ちゃんはカレー選んでたけど、好きなの?」
「うん。カレーには良い思い出があるんだ」
「へえ、どんな?」
「あ、いや。どんなだったかな」
「あはは!思い出したら教えてね」
いつも以上におとぼけの葉にも上手く対応して、真が提供したアイスティーを飲む姿も様になっている。一方で葉をチラリと見てみると、自分のオレンジジュースと透のアイスティーを交互に見つめて、少し悲しそうな顔をしていた。
「葉、どうかした?」
忙しいなりにも葉の様子が気になって尋ねてみる。すると葉は分かりやすく愛想笑いを浮かべて、「別に、大丈夫」と答えた。
それからしばらくして、疲れた表情の晴がカウンターへ戻ってきた。もうあのマダムたちにはできる限り近づけさせない方が良いかもしれない。
「お疲れ、晴」
「長く空けてごめん」
「いい。お前はよく頑張った」
少しおどけて返したら、晴はちょっと面白そうに笑った。ところが、その笑顔がすぐに固まってしまったのは、真の予想通りと言えばそうかもしれない。
「晴」
そう晴へ声をかけた葉の表情は、嬉しさと、緊張と、よくわからない不安。真はそう読み取った。こんなに複雑な顔をする葉はかなり珍しい。
「ほら、透くんだよ」
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「葉ちゃん、あのさ」
「ん?」
「実は今、スランプなんだ」
「スランプって、絵が描けないってこと?」
「そうなんだ。もうずっと」
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「うん、それでさ。……いや、もし嫌じゃなかったらなんだけど」
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だめかな、と首を傾げる姿をこっそり眺めて、葉の様子を伺ってみる。葉は少し困った顔をしながらも、最終的にはゆっくりと頷いた。
「透くんが描いてくれるなら、俺も嬉しいけど」
「本当?」
「うん。でも、俺の何を描くの?顔?」
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「背中」
「そう、早ければ来週のこの時間」
「来週ならいいよ」
「……それで、もしかしたら上だけ、服は脱いでもらうかもしれない」
真の心臓がドクリと鳴った瞬間だった。ガシャンッと衝撃的な音がして、慌てて音の発生源を探ってみる。それは葉たちの後ろにあるテーブル席からだった。どうやら晴がグラスを回収しようとして、うっかり取り落としたらしい。幸い客は帰った後だったために、被害は最小限だろう。急いで布巾を持って駆け寄りながら確かめてみると、グラスも割れてはいなかった。
「ごめん」
「うん、大丈夫?」
真が尋ねると、晴はこくりと頷いた。二人でテーブルを片付けて、グラスや皿を引き上げる。一緒にカウンター内に戻ると、透は席を外しているようで葉だけが座っていた。先ほどの話はどうなったのだろうか。でも一応、客の会話について根掘り葉掘り聞くわけにもいかないだろう。
「大丈夫だった?怪我はない?」
そう晴に話しかけた葉の顔がさっと青ざめた。何事かと思って様子を見ていると、しきりに晴の顔を覗き込んでいる。
「晴、気分でも悪いの?」
「……別に、大丈夫」
「本当に大丈夫?顔色が」
「グラス割りそうになって慌てただけ」
珍しく葉のことは少しも見ずに、晴はそう言った。葉は納得いかなそうな顔をしているけれど、すぐに思い直したように表情を明るく取り繕ったようだった。今日の葉は忙しそうだ。自然界の生き物以外に対して、一生懸命に感情を動かしている。
「そうだ!透くんもきっと晴に会えて嬉しいと思うよ」
つい先程形式的な挨拶をしていたように見えたけれど、晴と透は仲が良いのだろうか。仲良くなる瞬間なんてあっただろうかと考えながら晴へ視線を移した時、真は思わずギョッとしてしまった。晴が怒っている。しかも、史上最高潮にだ。これまで晴のことを散々揶揄ってきたけれど、こんなに怒りに震えている姿は初めて見た。
「透くんもカレーが好きみたい。ここのカレー、美味しいよね」
「……あのさ」
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「透くんとやらが、俺に会えて嬉しいって?」
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「え?……いや、それは」
「葉くんもちゃんと考えなよ。男の裸なんて、普通描かないでしょ」
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「なに」
「俺だからなんじゃないの」
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「今そんな話してない」
「透くんだって、晴がいいに決まってるじゃん」
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登場人物と相関図を脳内に思い浮かべて整理しているうちに、透がお手洗いの方から戻ってきた。そして微妙な空気を敏感に察知したらしく、すぐに葉に向けて「そろそろバイトに行こうか」と声をかけた。葉は俯いたまま、コクッと頷いた。
真がレジに立って、一人ずつ会計を済ませる。その間葉は黙っていたけれど、最後に小さな声で呟いた。
「ごめん。全部俺が悪いね」
苦しそうなその表情に、今にも泣き出すのではないかと心配になった。でも葉は大きく息を吸い込むと、ニッと笑って「またね」と言った。透と店から出ていく後ろ姿を見送ってから、チラリと隣の晴へ視線を移す。
「どういうつもり」
「……」
「まあ、葉のことが好きなら怒りたくもなるか」
「……」
「なんかあの子、今日は特に変だった。まあ、いつも変だけどさ」
「……うん」
「あんなに複雑な葉、初めて見た気がする」
「本当、なに考えてるんだか」
「あのさ、これは俺の推理だから、なんの確証もないんだけど」
いや、まさかと思いながら、続けてみる。
「葉、なんか勘違いしてない?」
「勘違い?」
「葉さ、晴が透くんのこと好きだって思ってない?」
「ありえないでしょ」
「いや、そうだよね。変なこと言って悪い」
でも、葉は晴に一生懸命透のことをアピールしているように見えた。もし真の推理が正しいのだとしたら、色々とおかしくても辻褄は合う。
「葉くんは、あいつのことが好きなのかな」
「なんでそう思うの?」
「あんなに嬉しそうに人間のことを話す葉くん、初めてだもん」
確かに、それはそうかもしれない。葉のことは大抵のことならわかってきたつもりだった。それなのに、二十年になる付き合いの中で今回が一番難しい。複雑すぎて、もう面倒だから後で葉に直接聞いてみよう。
だんだんと落ち着いてきた店内は、これから夕飯時にかけて忙しくなるだろう。そろそろシフトの時間は終わりだけれど、後に続く人のためになるべく仕事を減らすまでが仕事だ。気持ちは晴れないながらも、真は持ち前の器用さでなんとか仕事に集中してみるのだった。
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そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。
でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。
彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。
そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。
完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました
美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
僕たち、結婚することになりました
リリーブルー
BL
俺は、なぜか知らないが、会社の後輩(♂)と結婚することになった!
後輩はモテモテな25歳。
俺は37歳。
笑えるBL。ラブコメディ💛
fujossyの結婚テーマコンテスト応募作です。
聖者の愛はお前だけのもの
いちみりヒビキ
BL
スパダリ聖者とツンデレ王子の王道イチャラブファンタジー。
<あらすじ>
ツンデレ王子”ユリウス”の元に、希少な男性聖者”レオンハルト”がやってきた。
ユリウスは、魔法が使えないレオンハルトを偽聖者と罵るが、心の中ではレオンハルトのことが気になって仕方ない。
意地悪なのにとても優しいレオンハルト。そして、圧倒的な拳の破壊力で、数々の難題を解決していく姿に、ユリウスは惹かれ、次第に心を許していく……。
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