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荒波 2
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イースデイルの邸は、一年前と変わったところはなく、ちらりと見えたマクシムの使っていた離れもそのままになっているようだった。
邸の中は静かで、ソランジュとオルガは出かけているらしく、先に訪問を知らせたゲイリーが、二人を同席させないよう求めたのかもしれないとメルリーナは思った。
ソランジュの趣味で整えられた、これみよがしに高級そうな家具で埋め尽くされた応接間で、ゲイリーはメルリーナとの出会いからこれまでの経緯を掻い摘んで説明し、ギュスターヴは時折驚いた表情をしながらも、じっと耳を傾けた。
ゲイリーが最近のリヴィエールの景気の話を促せば、ギュスターヴはエナレスの不穏な動きのせいで物流が滞り始めていることなどをひと通り話した後、ゲイリーに席を外して欲しいと告げた。
「ゲルハルト殿下。大変申し訳ないのですが、少し外していただけますか」
メルリーナは、こんなに色々と骨を折ってくれたゲイリーを閉め出すなんて出来ないと言おうとしたが、ゲイリー本人が承諾し、すっと立ち上がった。
「もちろんです。親子水入らずでお話された方がよろしいでしょう。メル、僕は別室で待っているからゆっくり話すといい」
「で、でもっ……」
申し訳なさと、心細さが入り混じって、ついその腕を掴んでしまったメルリーナに、ゲイリーは跪いて視線を合わせて言い聞かせた。
「大丈夫だよ。メルは、ちゃんと強くなっている。もしも助けが必要になったら、遠慮なく呼んでくれていい。そのために、僕はメルの傍にいるんだからね」
そんな風に甘えていいのだと言われることに慣れていないメルリーナが頷けずにいると、ゲイリーはくすりと笑って額をぶつけて来た。
「呼んでもらえないと、僕はブラッドに役立たずの番犬って呼ばれるんだよね。それって酷いと思わないかい?」
「……はい」
「呼びたくなったら呼べばいいし、呼びたくなかったら呼ばなくてもいい。メルが思うようにしていいんだ。でも、僕が待っていることを忘れないで」
目の前にあるゲイリーの瞳には、不穏な光はどこにもなく、ただ優しくて温かいものが見える。
凪いだ海のような穏やかさに、メルリーナはほっとして頷いた。
◇◆
「ゲルハルト殿下とは、随分仲が良いようだな?」
ゲイリーが侍女に導かれて別室へと退出し、しばらく沈黙が続いた後、ギュスターヴに話しかけられたメルリーナは思わずビクリと飛び上がりそうになった。
「は、はい……あの……とてもよく、してもらっています」
「ディオン様とは正反対の性格をしていらっしゃるようだな」
「……は、い」
再び沈黙が落ち、メルリーナは昔どうやって父と会話していたのか、思い出そうとしたが、随分と長い間、会話らしい会話をしていないのだと改めて気付いた。
一年前も、旅立つことを事後報告し、イースデイル家の名を捨てても構わないと一方的に告げただけで、話し合ったりはしなかった。
ギュスターヴも、今更どうすればいいのかわからないのかもしれない。
それでも、何も訊かずに終わるわけにはいかないのだと、メルリーナが意を決して口を開こうとしたとき、ギュスターヴが唐突に言った。
「チェスをしないか?」
メルリーナは驚いたが、マクシムの息子なのだから知らないはずはないし、嫌いなはずもないと思った。
「……は、はいっ!」
ギュスターヴに命ぜられて本人の自室から侍従が持ってきたチェスセットは、磨き上げられた木製のチェス盤と余計な飾りのない木製のチェスピースからなる素朴なものだった。
派手で高価なものを好むソランジュは決して選ばないものだろう。
メルリーナは、久しぶりにチェスをするというギュスターヴに先攻を譲った。
ギュスターヴは、中央からひとつずれた白のポーンを二マス進める。
メルリーナは、それに応じて黒のポーンを中央へ二マス進める。
ギュスターヴがナイトを繰り出すのに応じてメルリーナも同じようにナイトを進める。
ビショップを動かし、互いにキャスリングを決めたところで、ようやく本格的な勝負に入った。
「その首飾り、ジゼルのものか?」
ギュスターヴは、メルリーナの胸元に光る巻貝の首輪に視線を合わせた。
「はい。お祖父様の遺品の中にありました」
「そうか。持っていたのか……捨てたのかと思っていたが……」
「……?」
ジゼルにとっては母ロスヴィータの形見だ。
捨てるなんてするはずがないとメルリーナが驚きに目を見開けば、ギュスターヴは苦笑した。
苦笑にしろ冷笑にしろ、父の笑みを見るのは子供の頃以来のことだった。
「私が、捨てろと言ったのだ」
「……ど、うして、ですか?」
「嫉妬していたのだ。他の男から貰ったものだと思っていた」
「え……?」
「後から、母親の形見だと聞いた」
ギュスターヴが中央に進めたポーンをナイトで奪う。
「私は、臆病者なんだ」
どういう意味だと目で問えば、ギュスターヴは苦い表情で呟いた。
「お祖父様は、引退するまでは一年のほとんどを海の上で過ごしていた。お祖母様は、いつもひとりで家のことや私の面倒を見なくてはならなかったんだ。病気のときも、商売が危機的な状況を迎えたときも、頼れる相手はいなかった。私は、自分の家族にはそんな思いをさせたくなかった。だから、船乗りにはならなかった。海が、船が嫌いだったんだ」
「お祖母様は……もしかして、幸せではなかった?」
「子供の頃は、苦労ばかりして大変な思いをしている姿は幸福には見えなかった。だが、今になってみれば、覚悟の上で結婚したんだ。愚痴も文句も言わずにいたのは、少なくとも不幸ではなかったからだろう。その証拠に、いつも笑っていた。嵐が来ようが、売掛金が回収出来なかろうが、いつでも笑い飛ばしていた」
メルリーナは、祖母のことをはっきりとは覚えていないが、正に船乗りの妻そのものだったのだと言うギュスターヴは、メルリーナがナイトを動かして無防備になったポーンをビショップで奪った。
「ジゼルは、お祖母様に似ていた」
「そう……ですか?」
メルリーナにとって母は、どちらかと言うと物静かな印象だった。
「ああ。とても強い女性だった」
メルリーナはポーンを敢えて犠牲にし、誘い出したビショップをクイーンで手に入れる。
「ジゼルは、海が好きだった。私よりも、お祖父様と一緒にいる方が楽しそうで、幸せそうだった。結婚し、おまえを身ごもった頃から、頻繁に港へ行くようになって、お祖父様の帰りを待っているのだと思った」
自分の父親に嫉妬したのだというギュスターヴは、顔を歪めるようにして自嘲の笑みを浮かべると、残ったもう一つのビショップを動かす。
「馬鹿な男のくだらぬ嫉妬だ」
吐き捨てるように言ったギュスターヴのビショップをルークで奪う。
ギュスターヴは、下手な対戦相手ではなかったが、裏を読まなければならないような手や奇抜な手は指さず、ごく一般的な手を指して来る。
「ジゼルを侍女にしようと邸へ連れて来たのはお祖父様だった。幼いジゼルが乗っていた船が海賊に襲われたところをラザール様とお祖父様が乗っていた船が助けたのが縁だったらしい。引き取ろうかと思ったようだが、さすがにほとんど家に戻らない身でお祖母様に押し付けられなかったようだ。それだからこそ、ジゼルのことを見守っていた。私は知らないことが――知ろうともしなかったことが多すぎて、ジゼルが何に苦しんでいたのか、気付けなかった。自分のことばかり考えていた」
それきり沈黙したギュスターヴは、次々と駒を進め、失い、メルリーナもまた駒を進め、失った。
やがて互いに残った駒はあと僅かとなり、勝負は終盤に差し掛かる。
「お母様は故郷に帰りたいとは言わなかったの……?」
「ジゼルは、リヴィエールの船に助けられたとき、記憶を失っていた。だから、港に行くのは故郷を思ってのことではないと、考えていたんだが、私と結婚し、おまえを身ごもった頃、不意に思い出したようだ。自分がどこから来て、どこへ行くところだったのかを」
ギュスターヴはジゼルの出自をすべて知っているのかもしれないと、メルリーナが窺うように見つめれば、首を横に振った。
「ジゼルは、私には何も話さなかった」
ギュスターヴは顔を歪めて呟いた。
「ジゼルは、私に迷惑が掛かると心配し、お祖父様に相談していたんだが、私は嫉妬から二人についてのくだらぬ噂を真に受けた。おまえのことも……間違いなく私の子だとわかっていたのに、お祖父様の子ではないかと疑った」
思わず、手にしていたクイーンの駒をあらぬ場所へ落としそうになって、メルリーナはぎゅっと握りしめた。
「ソランジュの囁きに、耳を貸してしまった」
メルリーナがそっと置いたクイーンをギュスターヴのクイーンが奪う。
「一度疑い出すと、すべてが疑わしく見えた。そうではないと訴えるジゼルの話も信じられなかった。ソランジュに逃げた。おまえが生まれる頃には、私はジゼルの信頼も、お祖父様の信頼も失っていた」
ごくり、と唾を飲み込んで、メルリーナはナイトを動かした。
「……ふっ……さすがは、お祖父様仕込みだな」
黒のナイトは、白のクイーンとキングを同時に抑えていた。
そこから一時逃れても、ルークがキングの逃げ道を塞いでいる。
チェックだった。
「まるで歯が立たないな」
負けたことに悔しがるでもなく、感心したと頷くギュスターヴは、メルリーナが知る父とは別人のようだった。
「どう、して……どうしてっ……」
どうしてもっと早くに教えてくれなかったのだと、そう言い募ろうとしたけれど、溢れた涙で声にならなかった。
「ジゼルの出自については、お祖父様は知っていたんだろうが、ジゼルの遺言を守り、誰にも教えなかった。私は、ジゼルが亡くなってから、自分で調べてある程度の予想はついていた。おまえに何度か話そうとしたんだが……結局、勇気が出なかった。私がジゼルやおまえにしたことは、許されるようなことではないからな」
マクシムが亡くなり、ソランジュたちをイースデイル家に正式に迎える際にすべてを打ち明けようとしたが、時期を誤るとソランジュたちがメルリーナに何かするのではないかと思い、黙っていたとギュスターヴは告白した。
「ソランジュは、私がジゼルと出会う前から私のことを知っていた。私としては面識がある程度の関係だったが、密かに思っていてくれたらしい。だから、ジゼルへの対抗意識が強い。私がジゼルにそっくりなおまえのことを構うたびに辛く当たるのはそのせいだ。私が構わなければ、無体はしない。ソランジュが求める社交界での地位や商売であがる十分な利益さえあれば、あれは満足する。近くに置く方が目が行き届くと思った」
辛い思いをさせたと、ギュスターヴはメルリーナに詫びた。
「私は臆病者で、戦うこともせずに逃げることでおまえを守ったつもりになっていた。すまなかった」
ギュスターヴは、駒を元通りに直しながら「それでも、最後にひとつくらいは親らしいことをしてやりたいと思っているのだ」と言う。
「私は、パスラへ行こうと思っている」
「パスラへ?」
まさか父がリヴィエールを離れるなど、思ってもみなかったことを言われ、メルリーナは瞬時に涙も引っ込んだ。
「イースデイル男爵位は、お祖父様がラザール様よりいただいたにわか爵位だ。なくなったところで誰が困るわけでもない。ソランジュがパスラへ共に行く道を選ばないのなら、イースデイルの名はソランジュとオルガにやろうと思う。ディオン様と結ばれるにしろ、そうでないにしろ、今のメルリーナにとってイースデイルの名は足枷にしかならないだろう。イースデイルの名を継ぐことで、自由に動けなくなる」
ギュスターヴは、綺麗に並べ直した駒を見下ろし、微笑んだ。
「もし、ディオン様が不甲斐なく、ソランジュとオルガがリヴィエールに残るようならば、パスラへ来ればいい」
ギュスターヴの言うように、ディオンの傍にいられないなら、どちらにせよリヴィエールを離れることになるだろう。
ディオンが他の誰か、フランツィスカと結ばれるのを見ていたくない。
勝手に決めるギュスターヴに、言いたいことはたくさんあった。
亡くなってしまった母や祖父のことを思うと、詰りたい気持ちもあった。
ただ、一番聞きたかったことは、イースデイル家のことでも、ソランジュやオルガのことでもない。
「お、父様は……お母様と結婚して……わ、たしが生まれたことを、後悔していない?」
ギュスターヴは、メルリーナを真っすぐ見据え、マクシムとよく似た声ではっきりと答えた。
「口先だけと罵られるかもしれないが、ジゼルもおまえも、私にとっては大事な宝物だ。愚かな私の過ちで疵付けてしまったことをこそ後悔しているが、おまえたちと出会ったことを後悔などしていない。おまえにはイースデイルの名を遺さないが、リヴィエール以外の土地で生きていくことを選んでもいいように、幾ばくかの財産をラザール様に預けてある。ソランジュやオルガの知らぬ財産だ」
本来、ディオンが戻った際に用意し、伝えるつもりだったが、フランツィスカの件があったため、様子を見ようと思ったものの、メルリーナがいきなり海に出てしまったのは、計算外だったと苦笑した。
「おまえが、ジゼルとお祖父様のように勇気があることを忘れていた。おまえなら、リヴィエール以外の国でも暮らしていけるだろう。ゲルハルト殿下も悪くないのではないかと思うぞ」
ディオンではなく、ゲイリーを勧められ、メルリーナは否定する理由を探して口ごもる。
「で、でも、その、ゲイリーさんとは……」
「どちらを選ぶにせよ、素直に気持ちを伝えることだ。いなくなってしまってからでは、何も伝えられない。いつか、はもう二度と来ないかもしれないのだから」
メルリーナは、ジゼルの家族がウィスバーデンにいるかもしれないことを伝えるべきかどうすべきか、迷った。
だが、ギュスターヴは話せないことは話さなくていいと断った代わりに、その表情を強張らせ、掠れた声でメルリーナに今一度詫びた。
「メルリーナ。おまえに幸せな時間を与えてやれず、すまなかった。私は、情けない、愚かな父親だ。許してくれなてもいい。憎んでくれて構わない。だが、私のように嫉妬や劣等感から目を曇らせることなく、どうか幸せをしっかりと掴んでくれ」
邸の中は静かで、ソランジュとオルガは出かけているらしく、先に訪問を知らせたゲイリーが、二人を同席させないよう求めたのかもしれないとメルリーナは思った。
ソランジュの趣味で整えられた、これみよがしに高級そうな家具で埋め尽くされた応接間で、ゲイリーはメルリーナとの出会いからこれまでの経緯を掻い摘んで説明し、ギュスターヴは時折驚いた表情をしながらも、じっと耳を傾けた。
ゲイリーが最近のリヴィエールの景気の話を促せば、ギュスターヴはエナレスの不穏な動きのせいで物流が滞り始めていることなどをひと通り話した後、ゲイリーに席を外して欲しいと告げた。
「ゲルハルト殿下。大変申し訳ないのですが、少し外していただけますか」
メルリーナは、こんなに色々と骨を折ってくれたゲイリーを閉め出すなんて出来ないと言おうとしたが、ゲイリー本人が承諾し、すっと立ち上がった。
「もちろんです。親子水入らずでお話された方がよろしいでしょう。メル、僕は別室で待っているからゆっくり話すといい」
「で、でもっ……」
申し訳なさと、心細さが入り混じって、ついその腕を掴んでしまったメルリーナに、ゲイリーは跪いて視線を合わせて言い聞かせた。
「大丈夫だよ。メルは、ちゃんと強くなっている。もしも助けが必要になったら、遠慮なく呼んでくれていい。そのために、僕はメルの傍にいるんだからね」
そんな風に甘えていいのだと言われることに慣れていないメルリーナが頷けずにいると、ゲイリーはくすりと笑って額をぶつけて来た。
「呼んでもらえないと、僕はブラッドに役立たずの番犬って呼ばれるんだよね。それって酷いと思わないかい?」
「……はい」
「呼びたくなったら呼べばいいし、呼びたくなかったら呼ばなくてもいい。メルが思うようにしていいんだ。でも、僕が待っていることを忘れないで」
目の前にあるゲイリーの瞳には、不穏な光はどこにもなく、ただ優しくて温かいものが見える。
凪いだ海のような穏やかさに、メルリーナはほっとして頷いた。
◇◆
「ゲルハルト殿下とは、随分仲が良いようだな?」
ゲイリーが侍女に導かれて別室へと退出し、しばらく沈黙が続いた後、ギュスターヴに話しかけられたメルリーナは思わずビクリと飛び上がりそうになった。
「は、はい……あの……とてもよく、してもらっています」
「ディオン様とは正反対の性格をしていらっしゃるようだな」
「……は、い」
再び沈黙が落ち、メルリーナは昔どうやって父と会話していたのか、思い出そうとしたが、随分と長い間、会話らしい会話をしていないのだと改めて気付いた。
一年前も、旅立つことを事後報告し、イースデイル家の名を捨てても構わないと一方的に告げただけで、話し合ったりはしなかった。
ギュスターヴも、今更どうすればいいのかわからないのかもしれない。
それでも、何も訊かずに終わるわけにはいかないのだと、メルリーナが意を決して口を開こうとしたとき、ギュスターヴが唐突に言った。
「チェスをしないか?」
メルリーナは驚いたが、マクシムの息子なのだから知らないはずはないし、嫌いなはずもないと思った。
「……は、はいっ!」
ギュスターヴに命ぜられて本人の自室から侍従が持ってきたチェスセットは、磨き上げられた木製のチェス盤と余計な飾りのない木製のチェスピースからなる素朴なものだった。
派手で高価なものを好むソランジュは決して選ばないものだろう。
メルリーナは、久しぶりにチェスをするというギュスターヴに先攻を譲った。
ギュスターヴは、中央からひとつずれた白のポーンを二マス進める。
メルリーナは、それに応じて黒のポーンを中央へ二マス進める。
ギュスターヴがナイトを繰り出すのに応じてメルリーナも同じようにナイトを進める。
ビショップを動かし、互いにキャスリングを決めたところで、ようやく本格的な勝負に入った。
「その首飾り、ジゼルのものか?」
ギュスターヴは、メルリーナの胸元に光る巻貝の首輪に視線を合わせた。
「はい。お祖父様の遺品の中にありました」
「そうか。持っていたのか……捨てたのかと思っていたが……」
「……?」
ジゼルにとっては母ロスヴィータの形見だ。
捨てるなんてするはずがないとメルリーナが驚きに目を見開けば、ギュスターヴは苦笑した。
苦笑にしろ冷笑にしろ、父の笑みを見るのは子供の頃以来のことだった。
「私が、捨てろと言ったのだ」
「……ど、うして、ですか?」
「嫉妬していたのだ。他の男から貰ったものだと思っていた」
「え……?」
「後から、母親の形見だと聞いた」
ギュスターヴが中央に進めたポーンをナイトで奪う。
「私は、臆病者なんだ」
どういう意味だと目で問えば、ギュスターヴは苦い表情で呟いた。
「お祖父様は、引退するまでは一年のほとんどを海の上で過ごしていた。お祖母様は、いつもひとりで家のことや私の面倒を見なくてはならなかったんだ。病気のときも、商売が危機的な状況を迎えたときも、頼れる相手はいなかった。私は、自分の家族にはそんな思いをさせたくなかった。だから、船乗りにはならなかった。海が、船が嫌いだったんだ」
「お祖母様は……もしかして、幸せではなかった?」
「子供の頃は、苦労ばかりして大変な思いをしている姿は幸福には見えなかった。だが、今になってみれば、覚悟の上で結婚したんだ。愚痴も文句も言わずにいたのは、少なくとも不幸ではなかったからだろう。その証拠に、いつも笑っていた。嵐が来ようが、売掛金が回収出来なかろうが、いつでも笑い飛ばしていた」
メルリーナは、祖母のことをはっきりとは覚えていないが、正に船乗りの妻そのものだったのだと言うギュスターヴは、メルリーナがナイトを動かして無防備になったポーンをビショップで奪った。
「ジゼルは、お祖母様に似ていた」
「そう……ですか?」
メルリーナにとって母は、どちらかと言うと物静かな印象だった。
「ああ。とても強い女性だった」
メルリーナはポーンを敢えて犠牲にし、誘い出したビショップをクイーンで手に入れる。
「ジゼルは、海が好きだった。私よりも、お祖父様と一緒にいる方が楽しそうで、幸せそうだった。結婚し、おまえを身ごもった頃から、頻繁に港へ行くようになって、お祖父様の帰りを待っているのだと思った」
自分の父親に嫉妬したのだというギュスターヴは、顔を歪めるようにして自嘲の笑みを浮かべると、残ったもう一つのビショップを動かす。
「馬鹿な男のくだらぬ嫉妬だ」
吐き捨てるように言ったギュスターヴのビショップをルークで奪う。
ギュスターヴは、下手な対戦相手ではなかったが、裏を読まなければならないような手や奇抜な手は指さず、ごく一般的な手を指して来る。
「ジゼルを侍女にしようと邸へ連れて来たのはお祖父様だった。幼いジゼルが乗っていた船が海賊に襲われたところをラザール様とお祖父様が乗っていた船が助けたのが縁だったらしい。引き取ろうかと思ったようだが、さすがにほとんど家に戻らない身でお祖母様に押し付けられなかったようだ。それだからこそ、ジゼルのことを見守っていた。私は知らないことが――知ろうともしなかったことが多すぎて、ジゼルが何に苦しんでいたのか、気付けなかった。自分のことばかり考えていた」
それきり沈黙したギュスターヴは、次々と駒を進め、失い、メルリーナもまた駒を進め、失った。
やがて互いに残った駒はあと僅かとなり、勝負は終盤に差し掛かる。
「お母様は故郷に帰りたいとは言わなかったの……?」
「ジゼルは、リヴィエールの船に助けられたとき、記憶を失っていた。だから、港に行くのは故郷を思ってのことではないと、考えていたんだが、私と結婚し、おまえを身ごもった頃、不意に思い出したようだ。自分がどこから来て、どこへ行くところだったのかを」
ギュスターヴはジゼルの出自をすべて知っているのかもしれないと、メルリーナが窺うように見つめれば、首を横に振った。
「ジゼルは、私には何も話さなかった」
ギュスターヴは顔を歪めて呟いた。
「ジゼルは、私に迷惑が掛かると心配し、お祖父様に相談していたんだが、私は嫉妬から二人についてのくだらぬ噂を真に受けた。おまえのことも……間違いなく私の子だとわかっていたのに、お祖父様の子ではないかと疑った」
思わず、手にしていたクイーンの駒をあらぬ場所へ落としそうになって、メルリーナはぎゅっと握りしめた。
「ソランジュの囁きに、耳を貸してしまった」
メルリーナがそっと置いたクイーンをギュスターヴのクイーンが奪う。
「一度疑い出すと、すべてが疑わしく見えた。そうではないと訴えるジゼルの話も信じられなかった。ソランジュに逃げた。おまえが生まれる頃には、私はジゼルの信頼も、お祖父様の信頼も失っていた」
ごくり、と唾を飲み込んで、メルリーナはナイトを動かした。
「……ふっ……さすがは、お祖父様仕込みだな」
黒のナイトは、白のクイーンとキングを同時に抑えていた。
そこから一時逃れても、ルークがキングの逃げ道を塞いでいる。
チェックだった。
「まるで歯が立たないな」
負けたことに悔しがるでもなく、感心したと頷くギュスターヴは、メルリーナが知る父とは別人のようだった。
「どう、して……どうしてっ……」
どうしてもっと早くに教えてくれなかったのだと、そう言い募ろうとしたけれど、溢れた涙で声にならなかった。
「ジゼルの出自については、お祖父様は知っていたんだろうが、ジゼルの遺言を守り、誰にも教えなかった。私は、ジゼルが亡くなってから、自分で調べてある程度の予想はついていた。おまえに何度か話そうとしたんだが……結局、勇気が出なかった。私がジゼルやおまえにしたことは、許されるようなことではないからな」
マクシムが亡くなり、ソランジュたちをイースデイル家に正式に迎える際にすべてを打ち明けようとしたが、時期を誤るとソランジュたちがメルリーナに何かするのではないかと思い、黙っていたとギュスターヴは告白した。
「ソランジュは、私がジゼルと出会う前から私のことを知っていた。私としては面識がある程度の関係だったが、密かに思っていてくれたらしい。だから、ジゼルへの対抗意識が強い。私がジゼルにそっくりなおまえのことを構うたびに辛く当たるのはそのせいだ。私が構わなければ、無体はしない。ソランジュが求める社交界での地位や商売であがる十分な利益さえあれば、あれは満足する。近くに置く方が目が行き届くと思った」
辛い思いをさせたと、ギュスターヴはメルリーナに詫びた。
「私は臆病者で、戦うこともせずに逃げることでおまえを守ったつもりになっていた。すまなかった」
ギュスターヴは、駒を元通りに直しながら「それでも、最後にひとつくらいは親らしいことをしてやりたいと思っているのだ」と言う。
「私は、パスラへ行こうと思っている」
「パスラへ?」
まさか父がリヴィエールを離れるなど、思ってもみなかったことを言われ、メルリーナは瞬時に涙も引っ込んだ。
「イースデイル男爵位は、お祖父様がラザール様よりいただいたにわか爵位だ。なくなったところで誰が困るわけでもない。ソランジュがパスラへ共に行く道を選ばないのなら、イースデイルの名はソランジュとオルガにやろうと思う。ディオン様と結ばれるにしろ、そうでないにしろ、今のメルリーナにとってイースデイルの名は足枷にしかならないだろう。イースデイルの名を継ぐことで、自由に動けなくなる」
ギュスターヴは、綺麗に並べ直した駒を見下ろし、微笑んだ。
「もし、ディオン様が不甲斐なく、ソランジュとオルガがリヴィエールに残るようならば、パスラへ来ればいい」
ギュスターヴの言うように、ディオンの傍にいられないなら、どちらにせよリヴィエールを離れることになるだろう。
ディオンが他の誰か、フランツィスカと結ばれるのを見ていたくない。
勝手に決めるギュスターヴに、言いたいことはたくさんあった。
亡くなってしまった母や祖父のことを思うと、詰りたい気持ちもあった。
ただ、一番聞きたかったことは、イースデイル家のことでも、ソランジュやオルガのことでもない。
「お、父様は……お母様と結婚して……わ、たしが生まれたことを、後悔していない?」
ギュスターヴは、メルリーナを真っすぐ見据え、マクシムとよく似た声ではっきりと答えた。
「口先だけと罵られるかもしれないが、ジゼルもおまえも、私にとっては大事な宝物だ。愚かな私の過ちで疵付けてしまったことをこそ後悔しているが、おまえたちと出会ったことを後悔などしていない。おまえにはイースデイルの名を遺さないが、リヴィエール以外の土地で生きていくことを選んでもいいように、幾ばくかの財産をラザール様に預けてある。ソランジュやオルガの知らぬ財産だ」
本来、ディオンが戻った際に用意し、伝えるつもりだったが、フランツィスカの件があったため、様子を見ようと思ったものの、メルリーナがいきなり海に出てしまったのは、計算外だったと苦笑した。
「おまえが、ジゼルとお祖父様のように勇気があることを忘れていた。おまえなら、リヴィエール以外の国でも暮らしていけるだろう。ゲルハルト殿下も悪くないのではないかと思うぞ」
ディオンではなく、ゲイリーを勧められ、メルリーナは否定する理由を探して口ごもる。
「で、でも、その、ゲイリーさんとは……」
「どちらを選ぶにせよ、素直に気持ちを伝えることだ。いなくなってしまってからでは、何も伝えられない。いつか、はもう二度と来ないかもしれないのだから」
メルリーナは、ジゼルの家族がウィスバーデンにいるかもしれないことを伝えるべきかどうすべきか、迷った。
だが、ギュスターヴは話せないことは話さなくていいと断った代わりに、その表情を強張らせ、掠れた声でメルリーナに今一度詫びた。
「メルリーナ。おまえに幸せな時間を与えてやれず、すまなかった。私は、情けない、愚かな父親だ。許してくれなてもいい。憎んでくれて構わない。だが、私のように嫉妬や劣等感から目を曇らせることなく、どうか幸せをしっかりと掴んでくれ」
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