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波乱

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 リヴィエールを出たヴァンガード号は、時計回りにリーフラントとは逆方向へ向かう形で、ウィスバーデンを目指し、沿岸から近いところを航行していた。
 リヴィエールからアンテメール海を一直線に突っ切れば、ほんの五、六日で辿り着ける距離をわざわざ倍の日数が掛かる進路で遠回りするのは、出来る限りリーフラントを巡るゴタゴタに巻き込まれないためだ。
 
 ウィスバーデンもただ傍観するというわけにはいかないだろうが、国王ハワードの決断を待たずに行動を起こすわけにはいかない。
 早さと安全を天秤にかけ、ブラッドフォードは後者を取った。
 
 ただし、操船という面では岸に近いところを行くため、浅瀬や岩場など危険な箇所も多く、厄介だ。
 見張りに立つ者の責任は重大で、昼も夜も気が抜けない。
 メルリーナも、なるべく甲板に出てウロウロしつつ、食事を運んだり、頼まれた伝言をブラッドフォードや航海長のクルトに伝えたりと微力ながらも手伝ってはいたが、あまり役に立てていない。
 
 リヴィエールを出てから五日目、アンテメール海の東の端にようやく到達しようという辺りに差し掛かった昼下がり。
 檣楼にいた見張り役が何やら身振りで斜め右手側を示すのを見たブラッドフォードは、溜息を吐いた。

「このまま何事もなけりゃいいと思っていたんだがな……」

「そう簡単にはいかねぇさ。なんせ、船長は日頃の行いが悪い」

 もぞもぞと髭に埋もれたクルトの口から、忍び笑いが漏れる。

「ああん? 俺様ほど、善行に満ち溢れた人生を送っているヤツはいねぇだろ? 何せ、家出娘をタダで一年も船に乗せてやった上に、足になってやってんだぞ」

「タダじゃねぇでしょう。たっぷりと礼を貰ったし、野郎ばかりのむさくるしい船の生活も、ちっとは潤っていた。西海を渡った先で珍しい動物を捕まえて、芸を仕込むのが楽しいと思うヤツラの気持ちがわかったような気がするな」

 珍しい動物って何だ、と操舵手ジャックをメルリーナが睨んだとき、船室で昼寝していたはずのゲイリーが嬉々とした様子で階段を軽々と駆け上がって現れた。

「ようやく出番かな?」

「ああ」

 ゲイリーは目を細めて水平線を眺めていたが、甲板に転がって思い思いに寛いでいた海兵隊員たちに「ボケッしてんじゃねぇぞ」と喝を入れ、戦闘の準備をしろと命じる。

 いつものことながら性格が激変するゲイリーにメルリーナが目を丸くしていると、王子様然とした笑みを浮かべて振り返った。

「メルはエメリヒと一緒に船倉で大人しくしてるんだよ? 絶対に、出て来ちゃだめだ。メルみたいな可愛い子が乗っているとわかったら、ヤツラ目の色変えてヴァンガード号に乗り込もうとするかもしれないからね? 言うことを聞けないなら、メルを僕の部屋に監禁しなくちゃならなくなる」

「……監禁すんなら、おまえの部屋じゃなくてもいいだろ」

「ん? 何か余計なこと言った? ブラッド?」

「……」

 ブラッドフォードは、もう何を言っても無駄だと言うように首を振って、ジャックに岸から離れるよう船首を右へ向けろと指示し、クルトは乗組員たちに敵船との遭遇を伝達する。

 メルリーナも、足手まといになることは望んでいないし、何より頷くまでゲイリーの腹黒い笑みが消えそうにないと見て、頷いた。

「……はい。下で、エメリヒさんの手伝いをします」

「うん。メルに何かあってはいけないし、あのクソガキに借りは作りたくないからね」

「……」

 クソガキとはディオンのことだろう。
 メルリーナは、なかなか自分を見せないゲイリーの感情をむき出しにさせるディオンは、ある意味すごいのではないかと思った。

「何だい? メル。何でも言ってごらん。ああ、でも、言葉に出来ないようなことを伝えたいのなら、二人きりのときにしてくれないかな? あのクソガキとは違う、大人の経験をさせてあげるよ?」

 ゲイリーの言う大人の経験というのは、きっと自分にはとても無理だろうとメルリーナは熱くなる頬を押さえながら、きっぱりと首を振った。

「いいえ。そんな経験はしたくないです」

 ジャックが、ぐふっとくぐもった声を上げるのが聞こえ、ゲイリーは遠い目で姿を現した船影を見遣ると嘆いた。

「時々、メルは僕のことが嫌いなんじゃないかと思うよ……」

「嫌いでは、ないです」

 そんなことはないと慌てて否定すれば、ゲイリーはにやりと笑う。

「嫌いではない、ということは、好きになるかもしれないってことだね」

「そ、そういうわけじゃ……」

「そういうことだよ? メル。さ、エメリヒのところへ行くんだ」

 そういうことではない、と言えぬままにゲイリーに背を押されたメルリーナは、上甲板から下りたものの、乗組員たちが忙しく走り回る中でしばらくの間、甲板の砲撃手が弾薬を込めたり、次々と甲板に上がってくる乗組員たちに長銃を手渡すのを手伝った。

 やがて、二つの船影がはっきりと視界に映ったところで、総員戦闘態勢と叫ぶブラッドフォードの声が響く。

「撃てっ!」

 こちらへ向かって来る船の正体を確かめることなく、ブラッドフォードは攻撃を命じた。
 轟音と共に放たれた砲弾は、向かって来る船の進路に落ち、激しい飛沫を上げる。

「取り舵いっぱいっ!」

 ブラッドフォードの指示で、船は左へ進行方向を変えて、挟まれないよう逃げつつ、右舷の砲門から一斉に砲撃を加える。
 風に逆らって進む敵側よりも追い風に乗るヴァンガード号の方が早いが、船尾からの攻撃を避けるため、今度は右へと船首を切るようにして逆に相手の船尾を捉えようとする。
 ただし、その先にはもう一隻が待ち構えているため、船首側の砲撃を続けなくてはならない。

 轟音が響き渡り、激しい打ち合いで硝煙で視界が遮られ、不意に誰かが目の前に転がり落ちて来た。

「……っ!」

 一瞬、呆然として血塗れの身体を見下したメルリーナだったが、呻き声が聞こえたような気がして、慌ててしゃがみこむ。

「だ、大丈夫ですか?」

「……どう、見ても……だいじょ、うぶじゃ、ねぇだろ……」

 煤塗れ、血塗れの顔に、白い歯が覗いたのを見て、メルリーナは「ごめんなさい」と断ってから、背後からその脇に両手を差し入れ、引き摺るようにして船内へと続く階段を引き摺って下りた。

 砲撃手に火薬や弾薬を運ぶ係たちが走り回る中、何とかエメリヒのいる船医室まで辿り着く。

「え、エメリヒ、さんっ!」

「メル! 今探しに行こうと思っていた……おう、ひでぇな」

「……メルが、あちこちにぶつけて……」

「贅沢言うな。首が折れてないだけ幸運だ」

 弱々しい声で抗議する乗組員をエメリヒが叱りつけ、診察台へと担ぎ上げた。
 体中、酷い裂傷はあったが、どれも致命傷となるほど深いものではなく、しぶとければ生き残れるとエメリヒは請け合った。

 包帯をぐるぐる巻きにした男を隣の部屋へと運び込むと、別の男が担ぎ込まれて来る。
 ヴァンガード号はまともに砲撃を受けてはいないようだが、時折何かが破壊されるような轟音が聞こえてくる。

「船は一隻か?」

 エメリヒは、苦戦してることを感じ取ったらしく、眉をひそめた。

「いえ、二隻でした」
 
「二隻? このあたりの海賊じゃないな」

「そう、なんですか?」

 海賊だって、大勢の手下を抱え、何隻も船を操って船団を組む者もいなくはないだろうとメルリーナが首を傾げれば、エメリヒは苦い表情で説明してくれた。

「この海域の海賊たちは、基本的に漁師半分、海賊半分といった小物ばかりだ。船団を組んでの海賊行為をするなんて、聞いたこともない。そもそも、そんな大層な船も持っていない」
 
 リヴィエールからウィスバーデンまでの間を埋めるアンテメール海に面する国々は、どれも小国だ。
 カーディナルと東側の国々との国境線が行ったり来たりするたびに、兵士に蹂躙され、荒廃するため、大きく発展することは出来ず、海岸線沿いにこびりつくようにしてある港町が生き残り、近隣同士で牽制し合い、時には争い合っている。
 彼らは、大国の動きを窺いながら、時々、攻め込まれる口実にならない程度の海賊行為で懐を潤し、隙さえあれば隣国の良質な港を手に入れようと狙っているが、ウィスバーデンやリヴィエールに対抗できるような力も船もない。

 それに比べ、西海への出口に近い場所を根城にし、西海とアンテメール海を出たり入ったりしているような海賊が本業である者たちは、船も装備も格段にいいものを持っている。時々手を組んで大物を仕留めて儲けを山分けしたりもしている。エナレスは、そういった海賊たちを使っているようだとエメリヒは言う。

「……やはり狙いはメルかもしれないな」

「わ、たし?」

 何故だと目を瞬くと、エメリヒはメルリーナの胸元に覗く首飾りを示した。

「エナレスが、海賊どもにを手に入れれば大金をやると言っていたとすれば……メルも当てはまるだろう」

「でも、それは、そのことは……」

 誰も知らないはずだ。
 そもそも、メルリーナの母ジゼルがリーフラントと関りがあるかもしれないと知っているのは、ウィスバーデン国王、アデルたちとラザール。そして、はっきりと知っているかどうかわからない、父ギュスターヴだけだ、と思いかけたメルリーナは港に現れたオルガのことを思い出した。

 オルガは、あの後出港するまで、二度と姿を見せることはなかったし、何かしたとしても知る術はない。
 ただ、善意ではなく悪意を感じたというだけのことだ。

「心当たりがありそうだな?」

「……でも、本当にそうなのかどうか……わかりません」

 オルガがエナレスと通じている、ましてや海賊となんて、とても信じられない。
 第一、メルリーナは王女ではない。
 もしかしたら、リーフラント王家のずっと末端にぶら下がっているかもしれない程度の血筋だ。
 そんなものに海賊たちが食いつくのか、疑問だ。

「まぁ、どこからどういう話になって漏れたかなんて、今となっては調べたところで無駄だな。とにかく、メルの母親の出自がはっきりすれば、メルの安全も大っぴらに確保できる。あとちょっとだけ、踏ん張ればいいだけだ」

 ブラッドフォードならそれくらいは出来るはずだし、出来なかったらアナに愛想を尽かされるだろう。
 だから、常にブラッドフォードは優秀有能な船長でなくてはならないのだとエメリヒは苦笑したが、すぐに次の患者が運び込まれて来て、呑気に話している場合ではなくなった。

 そのうち、乗組員に混じって幾人か海兵隊員も運び込まれて来るようになり、メルリーナは俄かにゲイリーが心配になって来た。
 
 ブラッドフォードはああ見えて戦闘となると冷静で、引き際も心得ているけれど、ゲイリーの場合は無謀ともいえる真似をすることが多い。
 勝算があるからだと本人は言うけれど、ブラッドフォードやクルトが時折、「あいつ、死にてぇのか」などと毒づいて、苦い表情をしているのをメルリーナは知っていた。

 ちょっとずつ正体が見えて来たゲイリーは、よほどディオンよりも危なっかしい気がする。
 たくさん世話になったのだから、少しくらいは恩返しがしたいし、役にも立ちたい。
 駄目だと、出てくるなと言われたけれど、ちょっとくらい様子を見るくらいなら構わないだろう。
 ゲイリーが無事だとわかれば、すぐに戻ればいい。

「エメリヒさん、ちょっと様子を見て来ます」
「おい、メルっ! 馬鹿、待てっ……」

 砲撃の音が消え、最後の患者の足の傷をエメリヒが縫い終わったところで、戦闘は一段落したのだろうと思ったメルリーナは、船医室を飛び出した。
 揺れも砲撃の音もない代わりに、乾いた長銃の音が散発的に聞こえる中、甲板へ続く扉近くに置かれていた長銃を念のため手にし、そっと開ける。

 怒号と煙が一気に流れ込んで来て、そこに見えた光景にメルリーナは立ち竦んだ。

 甲板の上には倒れ、転がる乗組員たちの姿があり、視線を転ずれば接舷した船の向こうで短剣を振り回している海兵隊員たちの姿が見えた。

 挟み撃ちには遭っていないようだったが、ヴァンガード号の帆には一部大きな穴が開いて垂れ下がっているものもあり、索具も一部壊れている。
 
 今までのような楽勝ではない様子に呆然としかけたメルリーナだったが、取り敢えず船の縁に二つ折りになって危なっかしく伸びている乗組員を助けようと駆け寄ったとき、ブラッドフォードの声が聞こえた気がした。

「ゲイリーっ!」

 振り返った先で、こちらへ戻って来ようとしているゲイリーの赤い軍服が見えた。
 無事な姿にほっとして、何気なくその背後へと目線を上げたメルリーナは、海賊船の折れたマストにかろうじて残っていた檣楼の陰に、鈍く光るものを見た。
  
 それが何かを考えるより先に、とにかく長銃を構え、そちらへ向けて発砲した。
 ゲイリーから教えてもらった通りにやってみたつもりだが、パン、という乾いた音に続けて、予想外の衝撃と痛みを肩に受け、船の縁に背中から叩きつけられる。

「うっ……」

 あまりの痛みに涙目になったが、命中したとは思えないものの、鈍く光るものを持っていた相手が慌てるあまり檣楼から転げ落ちるのを見て、ちょっとくらいは役に立てたかもしれないとほっとした時、突風を受けた船がグラリと揺れて、ふわりと足が浮いた。

「あ……っ」

 濡らしては大変だと銃を放り出した。
 ほんの一瞬だけ宙に浮いた身体が急激に落下し、激しい痛みを背中に受けた途端、ヴァンガード号の船体が視界から消える。

 水の冷たさに悲鳴を上げようと開いた口に、ゴボゴボと容赦なく海水が入って来た。
 淡い光の差し込む先へと手を伸ばし、必死で浮き上がろうとすれば、余計に身体は重くなり、どんどん沈んでいく。
 
 足掻き、もがきながら、メルリーナはようやくとても大事なこと――今まで、一度も海で泳いだことはなく、泳げるかどうかもわからないことを、思い出した。
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