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第1章 臥龍堕つ
第5話 青空は答えない
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父帝よ。一人で空に向かい、呟く。
とても一時代を築いた皇帝の墓とは思えない、小さく、質素な墓であった。ここには劉禅の実の母親である、甘夫人も葬られている。
先帝である劉備は蜀漢を建国し、まず掲げた国策が、呉を滅ぼすことであった。
その理由というのが、荊州の地を任されていた蜀軍第一とも呼べる将軍、劉備の義弟でもある「関羽(かんう)」を、同盟関係であったはずの呉が突如裏切って背後から攻めた為だ。関羽は、戦死した。その後、張飛が殺され、彼を殺したであろう将が呉へ寝返るという悲劇も重なった。
勿論、蜀漢という国の為には、呉と和し、魏を攻めなければならない。誰から見てもそれは明らかであり、蜀と呉が本気でぶつかってしまえば、得をするのは魏なのである。しかし劉備は、死線を共に潜った男達の為だけに、全軍を憤怒の色に染め、呉を滅ぼす事のみを悲願とした。それもまた、劉備という男の最大の魅力であった。
呉を滅ぼす寸前まで、確かに進撃した。それは、生涯を戦場で過ごした老骨の意地の猛攻であった。
しかし、あと一歩で、敗れた。それも、国が瓦解しかねない程の大敗であった。国を支えるはずであった人材のほとんどが戦死。劉備と、それを守った僅かな将兵のみが帰還する、大敗北であった。
劉備は失意のうちに衰弱し、崩御した。勿論、豪勢な墓を築く予算など無かった。墓に回す金があれば、軍の強化に全て投じよ。死骸は、他の兵士達と同じように、戦場に埋めてくれるだけで十分だと。劉備は何度もそう言った。
父帝よ。貴方がこの世を去り、既に十年が過ぎました。
その志を託されていた、国家の柱石である諸葛亮も、逝ってしまいました。
青空ばかりが広く、されど、私の足元は未だ暗闇を彷徨ってばかりで、どうも、この不肖の身には、この空は広すぎるようです。
国は、かつての活気を取り戻しつつあった。
諸葛亮はいないが、蒋琬や費褘を筆頭として、国は豊かさを増していく。当初の予定よりもかなり早く、内政の成果が上がりつつあるのだ。
軍もよく外敵を防いでいる。ただ、やはりどうも、呉懿の病は治って崩れてを繰り返していた。それでも漢中の防備に全く綻びが生じないのは、頭が下がるような思いであった。
「皆が、父帝の築かれた国を守り、その志を継ごうと懸命になっております。ただ、この私のみが、未だ心に穴をあけたまま、どこへ進んでいけば良いか、分からないのです」
一人になると、劉禅は絶えず、そう言った不安に襲われていた。
魏は、あまりに強大なのである。蜀と呉が本当に力を合わせて初めて、拮抗した戦況を作り上げる事が可能となる。いや、力を合わせてもなお、国力において魏は勝っている。
本当に、北伐を成せるのであろうか。父でも、諸葛亮でも、成し得なかったそれを。果たして、自分が。
戦が起きれば、疲弊するのは民である。死力を、尽くさねばならない。だが、その苦しみを見るのもまた辛いのだ。
「いかがでしょうか。心は、いくらか晴れましたか?」
「董先生」
歩み寄ってくるのは、劉禅の暮らす宮中の一切を取り仕切っている、董允であった。
眉間に刻まれた溝は深く、その厳格さが顔にまで現れている。劉禅はこの董允を、尊敬と畏怖の念を込めて、先生と呼んでいた。
「父帝と相父の、その雄姿を思い出すばかり。それに比べると朕は、そう思ってしまうのだ」
「良いですか陛下。皇帝という存在は、有能であってはならないのです。その有能さが国を亡ぼす素となってしまう事がある故です。無能であればあるほどよろしく、更に自らが平凡であると自覚していれば、その皇帝は名君であると言えます。有能さは、臣下に求めればよろしい。現にあの諸葛丞相の能力を遺憾なく引き出したのも、陛下の功績ともいえるのです。ただ、無能であれど、無道であってはなりません。国の行く道というものは、陛下にしか決められないのです」
「それは褒められているのだろうか」
「いいえ、今の陛下は無能で無道であらせられます。その道の全てを、丞相に託されておいででした故に、今は何も見えなくなっておられる」
「……全てお見通しであるな、先生は」
相も変わらず厳しい口調。また、その全てに反論できない為に益々気持ちは鬱屈したものとなってしまう。
それを見て董允は一つ溜息を吐いた。
「陛下、この国で最も重要な方針は何で御座いましょうや」
「北伐である。父帝と相父の前で誓おう」
「そう思っておいでであれば、陛下に推挙したき人物が一人おります。今の陛下にとっては、恐らく劇薬にもなりかねない程に、強き意思を持った男です」
「劇薬、であるか」
「はい。名を、お聞きになりますか?」
劉禅は頷く。縋る様な目、その目に不安を覚えたが、董允はこの愛すべき主君の器を信じた。
「ご存知かと思われますが、その者とは姜維(きょうい)将軍です。諸葛丞相をもって天才と言わせしめた、かの者と二人きりで言葉を交わされませ」
「分かった。早速、今夜だ。今夜会う事にしよう」
まるで乾いた砂に水が染みるようである。臣下の言葉に耳を傾け、それを迅速に行動に移せる。しっかり、名君としての基盤は組み上がっていると言ってよい。
ただ、その豊か過ぎる感受性ゆえか、誰の言葉にも耳を傾けてしまうところがあった。宦官の黄皓との関係を見れば、その傾向が顕著であることが分かる。今後はもっと人を見る目を養っていかねばならないだろう。
もう、絶対の信頼を置ける丞相は居ないのだから。董允は墓に深く拝礼をし、劉禅の後を追った。
とても一時代を築いた皇帝の墓とは思えない、小さく、質素な墓であった。ここには劉禅の実の母親である、甘夫人も葬られている。
先帝である劉備は蜀漢を建国し、まず掲げた国策が、呉を滅ぼすことであった。
その理由というのが、荊州の地を任されていた蜀軍第一とも呼べる将軍、劉備の義弟でもある「関羽(かんう)」を、同盟関係であったはずの呉が突如裏切って背後から攻めた為だ。関羽は、戦死した。その後、張飛が殺され、彼を殺したであろう将が呉へ寝返るという悲劇も重なった。
勿論、蜀漢という国の為には、呉と和し、魏を攻めなければならない。誰から見てもそれは明らかであり、蜀と呉が本気でぶつかってしまえば、得をするのは魏なのである。しかし劉備は、死線を共に潜った男達の為だけに、全軍を憤怒の色に染め、呉を滅ぼす事のみを悲願とした。それもまた、劉備という男の最大の魅力であった。
呉を滅ぼす寸前まで、確かに進撃した。それは、生涯を戦場で過ごした老骨の意地の猛攻であった。
しかし、あと一歩で、敗れた。それも、国が瓦解しかねない程の大敗であった。国を支えるはずであった人材のほとんどが戦死。劉備と、それを守った僅かな将兵のみが帰還する、大敗北であった。
劉備は失意のうちに衰弱し、崩御した。勿論、豪勢な墓を築く予算など無かった。墓に回す金があれば、軍の強化に全て投じよ。死骸は、他の兵士達と同じように、戦場に埋めてくれるだけで十分だと。劉備は何度もそう言った。
父帝よ。貴方がこの世を去り、既に十年が過ぎました。
その志を託されていた、国家の柱石である諸葛亮も、逝ってしまいました。
青空ばかりが広く、されど、私の足元は未だ暗闇を彷徨ってばかりで、どうも、この不肖の身には、この空は広すぎるようです。
国は、かつての活気を取り戻しつつあった。
諸葛亮はいないが、蒋琬や費褘を筆頭として、国は豊かさを増していく。当初の予定よりもかなり早く、内政の成果が上がりつつあるのだ。
軍もよく外敵を防いでいる。ただ、やはりどうも、呉懿の病は治って崩れてを繰り返していた。それでも漢中の防備に全く綻びが生じないのは、頭が下がるような思いであった。
「皆が、父帝の築かれた国を守り、その志を継ごうと懸命になっております。ただ、この私のみが、未だ心に穴をあけたまま、どこへ進んでいけば良いか、分からないのです」
一人になると、劉禅は絶えず、そう言った不安に襲われていた。
魏は、あまりに強大なのである。蜀と呉が本当に力を合わせて初めて、拮抗した戦況を作り上げる事が可能となる。いや、力を合わせてもなお、国力において魏は勝っている。
本当に、北伐を成せるのであろうか。父でも、諸葛亮でも、成し得なかったそれを。果たして、自分が。
戦が起きれば、疲弊するのは民である。死力を、尽くさねばならない。だが、その苦しみを見るのもまた辛いのだ。
「いかがでしょうか。心は、いくらか晴れましたか?」
「董先生」
歩み寄ってくるのは、劉禅の暮らす宮中の一切を取り仕切っている、董允であった。
眉間に刻まれた溝は深く、その厳格さが顔にまで現れている。劉禅はこの董允を、尊敬と畏怖の念を込めて、先生と呼んでいた。
「父帝と相父の、その雄姿を思い出すばかり。それに比べると朕は、そう思ってしまうのだ」
「良いですか陛下。皇帝という存在は、有能であってはならないのです。その有能さが国を亡ぼす素となってしまう事がある故です。無能であればあるほどよろしく、更に自らが平凡であると自覚していれば、その皇帝は名君であると言えます。有能さは、臣下に求めればよろしい。現にあの諸葛丞相の能力を遺憾なく引き出したのも、陛下の功績ともいえるのです。ただ、無能であれど、無道であってはなりません。国の行く道というものは、陛下にしか決められないのです」
「それは褒められているのだろうか」
「いいえ、今の陛下は無能で無道であらせられます。その道の全てを、丞相に託されておいででした故に、今は何も見えなくなっておられる」
「……全てお見通しであるな、先生は」
相も変わらず厳しい口調。また、その全てに反論できない為に益々気持ちは鬱屈したものとなってしまう。
それを見て董允は一つ溜息を吐いた。
「陛下、この国で最も重要な方針は何で御座いましょうや」
「北伐である。父帝と相父の前で誓おう」
「そう思っておいでであれば、陛下に推挙したき人物が一人おります。今の陛下にとっては、恐らく劇薬にもなりかねない程に、強き意思を持った男です」
「劇薬、であるか」
「はい。名を、お聞きになりますか?」
劉禅は頷く。縋る様な目、その目に不安を覚えたが、董允はこの愛すべき主君の器を信じた。
「ご存知かと思われますが、その者とは姜維(きょうい)将軍です。諸葛丞相をもって天才と言わせしめた、かの者と二人きりで言葉を交わされませ」
「分かった。早速、今夜だ。今夜会う事にしよう」
まるで乾いた砂に水が染みるようである。臣下の言葉に耳を傾け、それを迅速に行動に移せる。しっかり、名君としての基盤は組み上がっていると言ってよい。
ただ、その豊か過ぎる感受性ゆえか、誰の言葉にも耳を傾けてしまうところがあった。宦官の黄皓との関係を見れば、その傾向が顕著であることが分かる。今後はもっと人を見る目を養っていかねばならないだろう。
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