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第1章 臥龍堕つ
第4話 一騎当千の娘
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「諸葛丞相が亡くなられて、私は正直、この国は大乱に見舞われるものだとばかり思っておりました。禅の落ち込み様を見て、益々その不安を募らせたものです。でも、そうはなっていません。私が思っているよりも、ずっとお強いのですね」
「この世の終わりだと朕が嘆いている間、他の者が皆、懸命に国を支えてくれた。感謝の念が堪えない思いだ。特に蒋琬は、丞相の死期を悟ったうえで国家の安定を図る準備を進めていたらしい。朕は先帝と比べ、あまりに弱い。それでも、あのような臣下が居るこの蜀漢は、きっと前に進む事が出来るだろう」
「またそのようにして自らを責められる。私が強いと言ったのは、禅の事ですよ?」
「ははっ、慰めてくれているのか?」
「いいえ。確かに先帝は、天下を統べる程の器を持った御方でした。人を惹きつける、際限の無い度量の広さを持っておりました。ただ、禅には先帝に無い、深い優しさがあります。臣下や民の、その心にまで寄り添うことは、貴方にしかできない事だと私は思います。臣下である諸葛丞相の死を誰よりも悼むそのお姿に、皆は必死になって、支えなければならないと思った事でしょう。この国の誰もが禅の優しさを感じているからこそ、国は一つにまとまっているのです。私はそれもまた、君主の強さだと思います」
「今日は、怖いくらいに優しいな」
敬の言葉の一つ一つに心癒されながら身を任せていると、不意に、体を擦る布に込められた力が強くなったような気がした。
「あら、お分かりになりますか?」
振り向くと、にこやかな顔の敬が居る。ただ、その瞳だけは笑っていない。
宮女達も何かを察したのか、顔を固く強張らせ、そそくさと部屋の外へと出て行った。足は湯に浸かっているのに、体の芯が一瞬にして冷たく凍るような感覚に襲われる。
「禅……また、側室を増やそうとしているらしいですね。確か、李尹(りい)とか言う名の、大層お若い女性だとか」
「どうして、それを」
「皇后というのは、後宮において陛下の内を支える存在でございますから。その全てを把握しておくのが私の務めです」
蜀の国内を巡幸している際に黄皓が見付けてきた、まだ少女とも呼べる女性である。自分の気持ちを真っすぐにぶつけてくる、明るく溌溂とした性格をしていた。勿論このことは、自分と黄皓しか知らないはずである。そして、黄皓は決して自分の意に背くような人間ではない。
だとすれば恐らく、董允であろう。
宮中の一切を取り仕切るあの男なら、このくらいを調べ上げるのは苦ではないはずだった。それに、常々後宮に入れる女性が多いと口煩く窘められていた。そして、自分が何よりも張敬に弱い事を知っている。
「私が居ながら、まだご不満がおありなのですか?」
流石に一騎当千の猛将、張飛の娘だった。どうもこの目に見据えられると、体が委縮してしまう。
別に張敬を嫌っているわけでもないし、不満も全くない、それどころか自分には見合わない程の素敵な女性だと本気で思っていた。誰よりも大切に思っていると、神にも誓えるほどである。
ただ、劉禅には、その父の血を色濃く受け継いだという証でもある「激情」が、どうしようもなく体の中で熱を持つときがあった。
先帝の劉備は、各地で戦場を渡り歩きながら、民衆から「徳の将軍」と呼ばれ、人心を集めていた。民を守り、漢王室に忠誠を尽くし、臣下とも分け隔てなく接する、そんな姿が徳の将軍という劉備像を作り出したのだ。しかし、距離が近しい人間達は、劉備のその本質が全く異なる事を知っていた。その心の内側には、誰にも抑えることの出来ない激しさがあったのだ。だからこそ常に戦場では剣を振って死線をくぐり、敵兵を自ら屠ることでその熱を発散させていた。長いこと戦が無いと、ふとした瞬間に誰かを叩き斬る事すらあった。ただ、それ程の熱が無いと「天下」を目指す事など出来はしないのだ。だからこそ敢えて、臣下もそれを本気で咎めようとはしなかった。
劉禅は幼少の頃より、そんな父の「徳」の部分のみを色濃く受けついでいると言われてきたし、自らも周りにそういった面だけを見せる様に務めた。しかし、やはり抑えきれない熱が内に溜まるのだ。それを周囲に気づかれるわけにもいかなかった。父の様に、人を斬ることも出来ない立場である。したがってその熱は「情欲」という形で発散させる他なかった。これを本当の意味で理解しているのは、黄皓のみと言っていいだろう。董允や張敬ですら、性にだらしないという程度でしか認識していなかった。
大切に思うからこそ、張敬にはその激しさをぶつけるわけにはいかなかった。自分でも抑えられない時などは、下手すれば相手の女が耐えきれずに衰弱したり、死んだりすることもある。
「禅は、この国の皇帝です。私だけに目を向けて下さいとは申しませんが……嫉妬くらいは、許してほしいわ」
「誰よりも愛しているし、大切に思っている。それだけは信じて欲しい」
「言葉では何とでも言えます、それを、私にお示しください」
ふわりと、体が包まれる。劉禅の体にしがみつくその華奢な腕や指には、強い力が籠っていた。
淡く甘い空気が揺れ、二人の影の境は溶け合う。部屋の入り口に置かれた果物に気づくのは、張敬が疲れて眠った後の事であった。
「この世の終わりだと朕が嘆いている間、他の者が皆、懸命に国を支えてくれた。感謝の念が堪えない思いだ。特に蒋琬は、丞相の死期を悟ったうえで国家の安定を図る準備を進めていたらしい。朕は先帝と比べ、あまりに弱い。それでも、あのような臣下が居るこの蜀漢は、きっと前に進む事が出来るだろう」
「またそのようにして自らを責められる。私が強いと言ったのは、禅の事ですよ?」
「ははっ、慰めてくれているのか?」
「いいえ。確かに先帝は、天下を統べる程の器を持った御方でした。人を惹きつける、際限の無い度量の広さを持っておりました。ただ、禅には先帝に無い、深い優しさがあります。臣下や民の、その心にまで寄り添うことは、貴方にしかできない事だと私は思います。臣下である諸葛丞相の死を誰よりも悼むそのお姿に、皆は必死になって、支えなければならないと思った事でしょう。この国の誰もが禅の優しさを感じているからこそ、国は一つにまとまっているのです。私はそれもまた、君主の強さだと思います」
「今日は、怖いくらいに優しいな」
敬の言葉の一つ一つに心癒されながら身を任せていると、不意に、体を擦る布に込められた力が強くなったような気がした。
「あら、お分かりになりますか?」
振り向くと、にこやかな顔の敬が居る。ただ、その瞳だけは笑っていない。
宮女達も何かを察したのか、顔を固く強張らせ、そそくさと部屋の外へと出て行った。足は湯に浸かっているのに、体の芯が一瞬にして冷たく凍るような感覚に襲われる。
「禅……また、側室を増やそうとしているらしいですね。確か、李尹(りい)とか言う名の、大層お若い女性だとか」
「どうして、それを」
「皇后というのは、後宮において陛下の内を支える存在でございますから。その全てを把握しておくのが私の務めです」
蜀の国内を巡幸している際に黄皓が見付けてきた、まだ少女とも呼べる女性である。自分の気持ちを真っすぐにぶつけてくる、明るく溌溂とした性格をしていた。勿論このことは、自分と黄皓しか知らないはずである。そして、黄皓は決して自分の意に背くような人間ではない。
だとすれば恐らく、董允であろう。
宮中の一切を取り仕切るあの男なら、このくらいを調べ上げるのは苦ではないはずだった。それに、常々後宮に入れる女性が多いと口煩く窘められていた。そして、自分が何よりも張敬に弱い事を知っている。
「私が居ながら、まだご不満がおありなのですか?」
流石に一騎当千の猛将、張飛の娘だった。どうもこの目に見据えられると、体が委縮してしまう。
別に張敬を嫌っているわけでもないし、不満も全くない、それどころか自分には見合わない程の素敵な女性だと本気で思っていた。誰よりも大切に思っていると、神にも誓えるほどである。
ただ、劉禅には、その父の血を色濃く受け継いだという証でもある「激情」が、どうしようもなく体の中で熱を持つときがあった。
先帝の劉備は、各地で戦場を渡り歩きながら、民衆から「徳の将軍」と呼ばれ、人心を集めていた。民を守り、漢王室に忠誠を尽くし、臣下とも分け隔てなく接する、そんな姿が徳の将軍という劉備像を作り出したのだ。しかし、距離が近しい人間達は、劉備のその本質が全く異なる事を知っていた。その心の内側には、誰にも抑えることの出来ない激しさがあったのだ。だからこそ常に戦場では剣を振って死線をくぐり、敵兵を自ら屠ることでその熱を発散させていた。長いこと戦が無いと、ふとした瞬間に誰かを叩き斬る事すらあった。ただ、それ程の熱が無いと「天下」を目指す事など出来はしないのだ。だからこそ敢えて、臣下もそれを本気で咎めようとはしなかった。
劉禅は幼少の頃より、そんな父の「徳」の部分のみを色濃く受けついでいると言われてきたし、自らも周りにそういった面だけを見せる様に務めた。しかし、やはり抑えきれない熱が内に溜まるのだ。それを周囲に気づかれるわけにもいかなかった。父の様に、人を斬ることも出来ない立場である。したがってその熱は「情欲」という形で発散させる他なかった。これを本当の意味で理解しているのは、黄皓のみと言っていいだろう。董允や張敬ですら、性にだらしないという程度でしか認識していなかった。
大切に思うからこそ、張敬にはその激しさをぶつけるわけにはいかなかった。自分でも抑えられない時などは、下手すれば相手の女が耐えきれずに衰弱したり、死んだりすることもある。
「禅は、この国の皇帝です。私だけに目を向けて下さいとは申しませんが……嫉妬くらいは、許してほしいわ」
「誰よりも愛しているし、大切に思っている。それだけは信じて欲しい」
「言葉では何とでも言えます、それを、私にお示しください」
ふわりと、体が包まれる。劉禅の体にしがみつくその華奢な腕や指には、強い力が籠っていた。
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