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第3章 高平陵の変
第11話 興勢の役
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この戦は「興勢の役」と、後に呼ばれることになる。
先の北伐の失敗や、蒋琬の引退など、蜀の内部が転換期を迎えたのを見計らい、曹叡により国の後事を託された「曹爽」が、蜀の討伐軍を挙兵した。
その魏軍の総勢は十万から十五万。蜀が保有できる最大の兵力と同数という大軍勢である。
ただ、この挙兵には軍略ではなく、政治的な意図が大いに働いていたといわれる。
幼き魏帝「曹芳」を支えるのは、曹爽と司馬懿の二人。
司馬懿は対蜀戦に目覚ましい功績があり、公孫淵の乱の鎮圧や、呉との戦線においても自ら指揮を取って勝利へ導いていた。
対して曹爽はというと、軍権や人事権を握っているとはいえ、その功績は司馬懿に遠く及ばない。
また、皇族である曹氏のほとんどは、争いを産ませない為に力を大きく削がれている。
司馬氏の台頭を押さえつけるには、曹爽が力を持つしかなかった。
十五万の兵力を使えば、蜀までは取れずとも、漢中は容易に取れる。
ましてや今、漢中を守る兵力は二万。それなら、援軍の到着前に落とせる。
曹爽の見立てはこの通りであった。
確かに、兵力差だけで見ればそうである。しかし、司馬懿は猛反発をした。
涼州未だ民心治まらず、雍州も北伐で土地が荒れている。
更に、蜀までの道のりは極めて険しく、兵糧の補給とて容易ではない。
蜀の臣下筆頭となった費褘は、文官としては諸葛亮に並ぶ才覚を持っている。
漢中の主将である王平は、防衛に優れた名将。天険の地である蜀など容易く守り通す。
この状況下で兵を動かしても、蜀は愚か、漢中すら手に入れることは出来ない。
例え倍の兵力を用いても敵わないだろう。
魏の内政の再構築を担当しているだけに、それを台無しにされる出兵を司馬懿は激しく拒んだのである。
しかし、この反発を曹爽は、司馬懿が自らの地位を守ろうとしている、という風にしか見ていなかった。
それだけに勝利を確信し、出兵を強行したのであった。
魏軍は総勢十五万の兵を起こし、蜀の討伐を宣誓した。
総大将に、曹氏の筆頭である曹爽。
軍事都督に、皇族の一人であり聡明と名高い「夏侯玄(かこうげん)」。
その副将に、司馬懿の次男である「司馬昭(しばしょう)」。
先鋒である前軍の指揮官は、涼州雍州の諸軍を率いる郭淮という、そうそうたる布陣である。
対する漢中の守兵は、二万。
フ城では姜維が、成都では馬忠が援軍をかき集めてはいるが、魏軍の襲来までの到着は難しいだろう。
「王平将軍、我が軍は二万。とてもでは無いですが、援軍の到着まで持ち応えられません」
青い顔を浮かべて王平に迫るのは、胡済将軍である。
諸葛亮に登用された軍人ではあるが、軍政や後方支援に携わる事が多く、あまり前線に立ったことが無い。
軍人というより、文官や政治家に向いた性格をしていた。
見渡してみれば誰もが胡済と同じように不安げな面持ちでいる。
ただ、呉懿の孫である、若き呉喬将軍だけは血気盛んに息巻いていた。
「なれば胡済殿、敵を目前に漢中を捨てよと申されるのか!」
「お前は若すぎるのだ!このまま戦っても犬死である、漢中よりも蜀を守る事を考えろ!」
勇猛だが思慮の浅い呉喬と、考えすぎて思考が後ろ向きになりがちな胡済。
この二人は軍議の場でこうして言い争う事が多いが、戦場で組ませれば、意外と力を発揮したりもした。
前回の北伐で、姜維が軍の一翼をこの二人に担わせたのも、その相性を見たからだろう。
「我が漢中守備軍は、退かん」
王平の一言に、誰もが口を噤んだ。
「陛下より、この王平は漢中を任せられた身。決して退くことはせん。僅か六日ばかり凌げば、フ城より姜維将軍率いる三万の精鋭が来る。一月耐えれば、成都より八万の援軍が到着する。何も、難しい事ではない」
「二万で十五万を相手に六日も凌げますか?しかも、援軍は三万のみ。焼け石に水なのでは」
不安を抑えきれない顔で、末席の将軍が声を上げた。
まだ若く、呉喬とそれ程年も変わらない。この漢中で、王平が直々に登用した者である。
名を「蔡甘(さいかん)」と言い、普段は臆病な性格なのに、いざ戦に出ると果敢な戦いをする有望な将であった。
「誰か、こやつを斬れ」
何の色も映さない、冷酷な瞳のまま、王平は衛兵にそう告げた。
衛兵達は速やかに蔡甘の両脇を抱えて引きずり出そうとする。
勿論、蔡甘は慌てて許しを請うが、王平は動かない。代わりに前に進み出たのが、同僚でもある呉喬であった。
「将軍、どうか蔡甘をお許し願いたい。奴も兵士、この罪は戦の功で償わせるべきです」
「ならん。この窮地で、蔡甘の様な者が一人でも居れば、軍全体の士気に関わる」
「戦の前に味方を斬るは不吉と申します」
強い眼差しであった。呉喬は、折れる事を知らない。
王平はその視線を、呉喬から蔡甘に移す。
「蔡甘」
「は、はっ!」
「我が直属の精鋭の中でも、選りすぐりの猛者千人を与える。魏軍の鼻っ柱をへし折り、その進軍を遅らせてみせよ」
処刑は免れたものの、これでは、戦場へ死にに行けという意味である。
十数万の大軍に、千の兵で正面から突っ込めというのだ。あまりに無謀すぎる命令であった。
しかし、既に蔡甘の目は据わっていた。死を覚悟した兵士の目だ。
「御意。郭淮の首を、将軍へお届けいたします」
「言ったな。ならば首を取るまで、帰る事は許さん」
「今まで、お世話になりました」
「家族の事は心配するな。責任を持って預かろう」
先の北伐の失敗や、蒋琬の引退など、蜀の内部が転換期を迎えたのを見計らい、曹叡により国の後事を託された「曹爽」が、蜀の討伐軍を挙兵した。
その魏軍の総勢は十万から十五万。蜀が保有できる最大の兵力と同数という大軍勢である。
ただ、この挙兵には軍略ではなく、政治的な意図が大いに働いていたといわれる。
幼き魏帝「曹芳」を支えるのは、曹爽と司馬懿の二人。
司馬懿は対蜀戦に目覚ましい功績があり、公孫淵の乱の鎮圧や、呉との戦線においても自ら指揮を取って勝利へ導いていた。
対して曹爽はというと、軍権や人事権を握っているとはいえ、その功績は司馬懿に遠く及ばない。
また、皇族である曹氏のほとんどは、争いを産ませない為に力を大きく削がれている。
司馬氏の台頭を押さえつけるには、曹爽が力を持つしかなかった。
十五万の兵力を使えば、蜀までは取れずとも、漢中は容易に取れる。
ましてや今、漢中を守る兵力は二万。それなら、援軍の到着前に落とせる。
曹爽の見立てはこの通りであった。
確かに、兵力差だけで見ればそうである。しかし、司馬懿は猛反発をした。
涼州未だ民心治まらず、雍州も北伐で土地が荒れている。
更に、蜀までの道のりは極めて険しく、兵糧の補給とて容易ではない。
蜀の臣下筆頭となった費褘は、文官としては諸葛亮に並ぶ才覚を持っている。
漢中の主将である王平は、防衛に優れた名将。天険の地である蜀など容易く守り通す。
この状況下で兵を動かしても、蜀は愚か、漢中すら手に入れることは出来ない。
例え倍の兵力を用いても敵わないだろう。
魏の内政の再構築を担当しているだけに、それを台無しにされる出兵を司馬懿は激しく拒んだのである。
しかし、この反発を曹爽は、司馬懿が自らの地位を守ろうとしている、という風にしか見ていなかった。
それだけに勝利を確信し、出兵を強行したのであった。
魏軍は総勢十五万の兵を起こし、蜀の討伐を宣誓した。
総大将に、曹氏の筆頭である曹爽。
軍事都督に、皇族の一人であり聡明と名高い「夏侯玄(かこうげん)」。
その副将に、司馬懿の次男である「司馬昭(しばしょう)」。
先鋒である前軍の指揮官は、涼州雍州の諸軍を率いる郭淮という、そうそうたる布陣である。
対する漢中の守兵は、二万。
フ城では姜維が、成都では馬忠が援軍をかき集めてはいるが、魏軍の襲来までの到着は難しいだろう。
「王平将軍、我が軍は二万。とてもでは無いですが、援軍の到着まで持ち応えられません」
青い顔を浮かべて王平に迫るのは、胡済将軍である。
諸葛亮に登用された軍人ではあるが、軍政や後方支援に携わる事が多く、あまり前線に立ったことが無い。
軍人というより、文官や政治家に向いた性格をしていた。
見渡してみれば誰もが胡済と同じように不安げな面持ちでいる。
ただ、呉懿の孫である、若き呉喬将軍だけは血気盛んに息巻いていた。
「なれば胡済殿、敵を目前に漢中を捨てよと申されるのか!」
「お前は若すぎるのだ!このまま戦っても犬死である、漢中よりも蜀を守る事を考えろ!」
勇猛だが思慮の浅い呉喬と、考えすぎて思考が後ろ向きになりがちな胡済。
この二人は軍議の場でこうして言い争う事が多いが、戦場で組ませれば、意外と力を発揮したりもした。
前回の北伐で、姜維が軍の一翼をこの二人に担わせたのも、その相性を見たからだろう。
「我が漢中守備軍は、退かん」
王平の一言に、誰もが口を噤んだ。
「陛下より、この王平は漢中を任せられた身。決して退くことはせん。僅か六日ばかり凌げば、フ城より姜維将軍率いる三万の精鋭が来る。一月耐えれば、成都より八万の援軍が到着する。何も、難しい事ではない」
「二万で十五万を相手に六日も凌げますか?しかも、援軍は三万のみ。焼け石に水なのでは」
不安を抑えきれない顔で、末席の将軍が声を上げた。
まだ若く、呉喬とそれ程年も変わらない。この漢中で、王平が直々に登用した者である。
名を「蔡甘(さいかん)」と言い、普段は臆病な性格なのに、いざ戦に出ると果敢な戦いをする有望な将であった。
「誰か、こやつを斬れ」
何の色も映さない、冷酷な瞳のまま、王平は衛兵にそう告げた。
衛兵達は速やかに蔡甘の両脇を抱えて引きずり出そうとする。
勿論、蔡甘は慌てて許しを請うが、王平は動かない。代わりに前に進み出たのが、同僚でもある呉喬であった。
「将軍、どうか蔡甘をお許し願いたい。奴も兵士、この罪は戦の功で償わせるべきです」
「ならん。この窮地で、蔡甘の様な者が一人でも居れば、軍全体の士気に関わる」
「戦の前に味方を斬るは不吉と申します」
強い眼差しであった。呉喬は、折れる事を知らない。
王平はその視線を、呉喬から蔡甘に移す。
「蔡甘」
「は、はっ!」
「我が直属の精鋭の中でも、選りすぐりの猛者千人を与える。魏軍の鼻っ柱をへし折り、その進軍を遅らせてみせよ」
処刑は免れたものの、これでは、戦場へ死にに行けという意味である。
十数万の大軍に、千の兵で正面から突っ込めというのだ。あまりに無謀すぎる命令であった。
しかし、既に蔡甘の目は据わっていた。死を覚悟した兵士の目だ。
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