77 / 93
第4章 暗中の剣
第2話 国主の務め
しおりを挟む
王平の死後、漢中はそのまま、駐屯していた姜維、廖化、張翼の三人が守る事となった。
それに先の北伐は、国内では北伐軍の「勝利」として盛り上がっていた。
姜維は官爵と土地が与えられ、それぞれの将兵らにも恩賞が配られた。
ただ、陳祇の目から見れば、この程度で大いに喜んでいては到底北伐など成し得ない。
勝利どころか、むしろ敗北であろう。
敢えてそれを口には出さないが、戦況を分析すれば、郭淮の思う通りに防衛されたと見るのが妥当だった。
「陛下」
「あぁ、陳祇。用は済んだのか?」
「はい。陛下にもそのご報告をと思いまして」
劉禅は張彩の影響もあってか、自分の心に区切りを付けられるようになってきたように思う。
昔の様に、臣下が死んでいくたびに深く絶望するのは、君主としては美徳であるが、一人の人間として心が壊れかねないものであった。
この国の全ての悲しみさえ、その身に受けようとする。劉禅はそういう気質を持っていたのだ。
蒋琬や董允が亡くなったと聞いた時も、その悲しみの深さは誰よりも深かった。
そんな劉禅に、常に寄り添っていたのが、張彩である。
この二人の間に、どのような信頼が通っているのか、それは陳祇には分からない。
ただ、間違いなく言える事は、張彩の存在は間違いなく劉禅の大きな柱となっているという事だ。
「それにしても、流石、奥方様ですね。間違いなく、御父上の血脈を色濃く継いでおられる」
「ふふっ、陳祇様も、ひとつお相手になられますか?」
「勘弁してください。私に武の才能は欠片たりともありません」
張彩は軽装で、太い木刀を手に、気持ちよく汗を流していた。
その傍で、劉禅と黄皓が地面に腰を下ろしている状態であった。
なおも涼し気な張彩に比べ、二人は汗を滝の如く流し、肩で息をしている有様である。
「間違いなく、彩の武は天性のものだ。黄皓はこう見えて相当な手練れというのに、私と二人を相手にしても、この有様だ」
劉禅は笑い、黄皓は面目なさげに恥じている。
「陳祇様をお待たせしては申し訳ないですね。今日の稽古はこのくらいにしましょう」
「そうだな。黄皓、湯を張っていてくれ、話が終わったらすぐに汗を流したい」
「直ちに、準備いたしましょう。ただ、この老体に、しばしの休息を……」
「分かった分かった。陳祇よ、話は奥で聞こう」
「しからば」
先日、王平の訃報が入ってきた。
こういう風に体を動かしているのも、その悲しみに浸らない為だろう。
劉禅のそういった心の機微を感じ取ったのか、張彩も稽古を最近は激しいものにしていた。
奥の部屋に、劉禅と陳祇が二人。
劉禅は布で汗を拭い、従者に運ばせた水を一気に飲み干した。
「それで、話とは」
「魏において政変が御座いました。曹爽とその側近、彼らの一族に至るまでの全てが、司馬懿によって監禁状態にあります。処刑される日もそう遠くはないかと」
「司馬懿だと? 彼はもう老齢だぞ。隠遁していたはずであろう」
「表向きは司馬懿が機を窺っていたような偽装に見えますが、恐らく、長子の司馬師が工作を進めていたものと思われます。司馬懿が立ったのも、情勢に沿ったものではないかと」
「ふむ……つまり、政争に決着がついたのか。夏侯玄も、同じか?」
「彼には才もあり、人望もあります。大きな罪も無いので処刑まではされないと思いますが、あえて生かされているような、軟禁状態にあります」
今、この三国において、もっとも成熟した君主はこの劉禅であった。
魏の曹芳はまだ子供であり、呉の孫権はかつての鋭気を失い耄碌としている。
情勢は確実に、この蜀へ傾いていた。喜ぶべきことである。
「陳祇よ、朕は如何にすべきか」
痛みを背負いながらも、劉禅は、それでも前に進もうとしていた。
それを全力で支える事が、今の陳祇に成すべきことである。
「陛下が気負う事はありません。今まで通り、重臣らの意見を広く聞き、用いるべきものを用いる、そして進むべき道を定めるのです。完璧である必要はありません」
「されど、この政変の持つ意味は大きい。動くべき時は、動かねばならないのではないか」
「そういうのは、我々臣下の役目です。敢えて申せば、姜将軍は気が逸りすぎ、費褘殿は慎重が過ぎます。それを念頭に入れていただければ十分でしょう」
「何というか、そなたと居ると、肩透かしを食らった気分になる。董先生は、こういう時にこそ気を引き締めろと、常々口煩い程であったぞ」
「陛下は先帝より位を御継になられて二十数年。国の頂点に立つ者として成してきた経験は、臣下の誰にも分かり得ません。御身を大事になされませ、己を信じることもまた大切です。それこそが、この国の全てを抱える陛下の務めで御座います」
劉禅は、溢れそうになる涙を堪え、息を吐いた。
「朕は、この国の皇帝として、父帝や相父にもいつか、胸を張って会う事が出来るだろうか」
「これからも、この国の在り方を示し続けていただければ、間違いなく」
「そうか。そうだな」
それに先の北伐は、国内では北伐軍の「勝利」として盛り上がっていた。
姜維は官爵と土地が与えられ、それぞれの将兵らにも恩賞が配られた。
ただ、陳祇の目から見れば、この程度で大いに喜んでいては到底北伐など成し得ない。
勝利どころか、むしろ敗北であろう。
敢えてそれを口には出さないが、戦況を分析すれば、郭淮の思う通りに防衛されたと見るのが妥当だった。
「陛下」
「あぁ、陳祇。用は済んだのか?」
「はい。陛下にもそのご報告をと思いまして」
劉禅は張彩の影響もあってか、自分の心に区切りを付けられるようになってきたように思う。
昔の様に、臣下が死んでいくたびに深く絶望するのは、君主としては美徳であるが、一人の人間として心が壊れかねないものであった。
この国の全ての悲しみさえ、その身に受けようとする。劉禅はそういう気質を持っていたのだ。
蒋琬や董允が亡くなったと聞いた時も、その悲しみの深さは誰よりも深かった。
そんな劉禅に、常に寄り添っていたのが、張彩である。
この二人の間に、どのような信頼が通っているのか、それは陳祇には分からない。
ただ、間違いなく言える事は、張彩の存在は間違いなく劉禅の大きな柱となっているという事だ。
「それにしても、流石、奥方様ですね。間違いなく、御父上の血脈を色濃く継いでおられる」
「ふふっ、陳祇様も、ひとつお相手になられますか?」
「勘弁してください。私に武の才能は欠片たりともありません」
張彩は軽装で、太い木刀を手に、気持ちよく汗を流していた。
その傍で、劉禅と黄皓が地面に腰を下ろしている状態であった。
なおも涼し気な張彩に比べ、二人は汗を滝の如く流し、肩で息をしている有様である。
「間違いなく、彩の武は天性のものだ。黄皓はこう見えて相当な手練れというのに、私と二人を相手にしても、この有様だ」
劉禅は笑い、黄皓は面目なさげに恥じている。
「陳祇様をお待たせしては申し訳ないですね。今日の稽古はこのくらいにしましょう」
「そうだな。黄皓、湯を張っていてくれ、話が終わったらすぐに汗を流したい」
「直ちに、準備いたしましょう。ただ、この老体に、しばしの休息を……」
「分かった分かった。陳祇よ、話は奥で聞こう」
「しからば」
先日、王平の訃報が入ってきた。
こういう風に体を動かしているのも、その悲しみに浸らない為だろう。
劉禅のそういった心の機微を感じ取ったのか、張彩も稽古を最近は激しいものにしていた。
奥の部屋に、劉禅と陳祇が二人。
劉禅は布で汗を拭い、従者に運ばせた水を一気に飲み干した。
「それで、話とは」
「魏において政変が御座いました。曹爽とその側近、彼らの一族に至るまでの全てが、司馬懿によって監禁状態にあります。処刑される日もそう遠くはないかと」
「司馬懿だと? 彼はもう老齢だぞ。隠遁していたはずであろう」
「表向きは司馬懿が機を窺っていたような偽装に見えますが、恐らく、長子の司馬師が工作を進めていたものと思われます。司馬懿が立ったのも、情勢に沿ったものではないかと」
「ふむ……つまり、政争に決着がついたのか。夏侯玄も、同じか?」
「彼には才もあり、人望もあります。大きな罪も無いので処刑まではされないと思いますが、あえて生かされているような、軟禁状態にあります」
今、この三国において、もっとも成熟した君主はこの劉禅であった。
魏の曹芳はまだ子供であり、呉の孫権はかつての鋭気を失い耄碌としている。
情勢は確実に、この蜀へ傾いていた。喜ぶべきことである。
「陳祇よ、朕は如何にすべきか」
痛みを背負いながらも、劉禅は、それでも前に進もうとしていた。
それを全力で支える事が、今の陳祇に成すべきことである。
「陛下が気負う事はありません。今まで通り、重臣らの意見を広く聞き、用いるべきものを用いる、そして進むべき道を定めるのです。完璧である必要はありません」
「されど、この政変の持つ意味は大きい。動くべき時は、動かねばならないのではないか」
「そういうのは、我々臣下の役目です。敢えて申せば、姜将軍は気が逸りすぎ、費褘殿は慎重が過ぎます。それを念頭に入れていただければ十分でしょう」
「何というか、そなたと居ると、肩透かしを食らった気分になる。董先生は、こういう時にこそ気を引き締めろと、常々口煩い程であったぞ」
「陛下は先帝より位を御継になられて二十数年。国の頂点に立つ者として成してきた経験は、臣下の誰にも分かり得ません。御身を大事になされませ、己を信じることもまた大切です。それこそが、この国の全てを抱える陛下の務めで御座います」
劉禅は、溢れそうになる涙を堪え、息を吐いた。
「朕は、この国の皇帝として、父帝や相父にもいつか、胸を張って会う事が出来るだろうか」
「これからも、この国の在り方を示し続けていただければ、間違いなく」
「そうか。そうだな」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
ソラノカケラ ⦅Shattered Skies⦆
みにみ
歴史・時代
2026年 中華人民共和国が台湾へ軍事侵攻を開始
台湾側は地の利を生かし善戦するも
人海戦術で推してくる中国側に敗走を重ね
たった3ヶ月ほどで第2作戦区以外を掌握される
背に腹を変えられなくなった台湾政府は
傭兵を雇うことを決定
世界各地から金を求めて傭兵たちが集まった
これは、その中の1人
台湾空軍特務中尉Mr.MAITOKIこと
舞時景都と
台湾空軍特務中士Mr.SASENOこと
佐世野榛名のコンビによる
台湾開放戦を描いた物語である
※エースコンバットみたいな世界観で描いてます()
おめでとう。社会貢献指数が上がりました。
水井伸輔(Mizui Shinsuke)
SF
「正しく」生きれば、どこまでも優しいこの国。
17歳のシュウは、社会貢献指数を高め、平穏な未来を手に入れようとしていた。しかし、システムに疑問を抱く父のランクは最低の「D」。
国家機能維持条項が発令された夜、シュウの端末に現れたのは、父の全権利を支配するための「同意」ボタンだった。
支配か、追放か。指先ひとつで決まる、親子の、そして人間の尊厳の行方。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる