最果ての僕ら

雲沢 あしか

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1班

No.18 根津 文斗

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 身体が痛い。殴られたお腹も蹴られた足も、引っ張られた髪の毛も傷ついた心も全部がズキズキ痛かった。
 「もう学校来んなよドブネズミ!」
 「まじきったねー」
 「はは!懲りないよなぁほんと。サンドバッグになるってわかってんじゃん」
 ランドセルを背負った同級生の、まだあどけない声が頭に響く。ゲラゲラと下品に笑って、尻餅をついた状態で立ち上がれない少年を見下ろしていた。
 「…もう僕に構わないでよ…」
 少年は目を伏せたまま、小さな言葉を絞り出した。同級生は「はぁ?」と、耳元に手のひらを当てる大げさなジェスチャーを付けて言葉を返す。
 「声小さすぎて聞こえねえや!」
 「ちゃんと喋ろよ!な」
 ドカッと音がしたと同時に、ランドセルに衝撃を受けた一人の同級生の言葉が止まった。座り込んでいた少年の視界に、倒れ込んだ同級生が滑り込んくる。彼は「いってぇ…」と呟き、手のひらで勢いよく地面を押して振り返った。
 「何すんだよ!」
 怒鳴り込んだものの、同級生は「あ…」と声を漏らして焦ったように顔を歪めた。少年をいじめていた他の2人も、同級生のランドセルを蹴り飛ばした相手と、ばつが悪そうに向き合っていた。仲間が暴力を振るわれたのだから助けるのが当然なのだが、こいつには勝てないとわかっていたからだ。
 「楽しそうだなァ。俺も混ぜろよ」
 同級生を蹴った少年もまた、黒いランドセルを背負っていた。小学生の割には低めの声でそう言うと、ニィっと口角を上げる。目が笑っていないので、とてつもなく不気味だった。
 「飛針…!」
 同級生は焦ったように名前を呼んで後ずさりをした。取り巻き2人も顔を見合わせ面倒臭そうに彼を見る。3人とも飛針のことは嫌いだった。いつかは一矢報いてやりたい一番の相手だ。だがそれは今ではなかった。
 「別に…勝手にしろよ!もう用は済んでるから」
 蹴り飛ばされた同級生は、パンパンとズボンについた砂を叩きながら立ち上がり、平然とした様子でそう答えた。飛針と呼ばれた少年は「ふーん」と興味無さそうに答える。「行こうぜ」という言葉とともに、同級生たちはバタバタと走って去っていった。
 「…ご、ごめん…」
 尻餅をついていた少年は弱々しい声で呟いた。灰色がかった髪が風に揺れる。彼の大きな黄金色の瞳を見据え、同級生を追い払った少年は呆れたように声を漏らした。
 「あっさり負けてんじゃねえよネズミ」
 「うん…ごめん、鷹道君」
 鷹道は「ほら」と付け足して、文斗の腕を引っ張り上げて立たせた。文斗は鷹道から目をそらし、気まずそうに俯く。少年のその態度に、彼はますますイライラしていた。
 「いちいち謝るんじゃねえよ。あとドブネズミってなんだよ。ムカつくからやめさせろ」
 「鷹道君だってネズミって呼ぶじゃんか…」
 「俺はいいんだよボケ」
 無茶苦茶なことを言いながら鷹道は「帰るぞ」と背を向けた。文斗は慌てて転がっていた自分のランドセルを拾い、後を追いかける。
 「あ…のさ、本当にごめん。いつも巻き込んじゃって…」
 「いちいち謝るなって言っただろ」
 「それで…その…もういいから。僕のことは放っておいて…君が助けてくれるの嬉しいけど…迷惑かけたくないし…」
 文斗は下を向いたまま、声を絞り出した。自分の着ているTシャツをギュッと掴み、肩は震えていた。鷹道はようやく振り返り、少しだけ口角を上げた。
 「…っは。あいつらの事殴るのは、俺がムカつくからだ。俺のためだよ。お前のためなんかじゃねえ」
 そう返すと、鷹道は再び「帰ろう」とだけ言った。自分が内気で自信のない弱々しい存在だから、強気な少年たちの的になってしまう事はよく分かっていた。幼馴染の鷹道が、自分がいじめられれば黙っていないこともわかっていた。



 「おかえり」
 今日は珍しく母がいた。いつもはこの時間仕事に出かけていていないのだ。鍵を開けずとも誰かが開いてくれるドアは久しぶりで、文斗の顔に自然と笑みが零れた。
 「ただいま」
 しかし、反対に母の表情は瞬時に青ざめた。当然だ。自分の息子が服を汚し、身体に傷を作って帰ってきたのだから。
 「どうしたの?その傷!」
 慌てる母の言葉に、文斗は困ったように笑って返す。
 「今日鷹道君と遊んだんだ。ほら、大きいタコのトンネルがある公園で。ダンボール持ってきてくれたから、坂滑りしてたら僕が転がっちゃって…ははは」
 「本当に…?」
 「そりゃそうだよ。痛かったなぁ。でも楽しかったよ」
 ヘラヘラと笑う息子に、母は不安な気持ちを隠せずにいた。そんな彼女の心中を察し、文斗は「そうだ」と話題を切り替える。
 「お母さん、今日はお仕事早く終わったの?」
 「あ…今日はね、もともと半休をもらってたの。だから…ほら」
 母はニコニコと微笑みながらキッチンに引っ込むと、再びボウルを持って戻ってきた。鶏肉と調味料が入ったボウルから醤油と生姜が混ざった匂いがする。
 「からあげ!?」
 「そうだよ。文斗好きでしょう?」
 「うん!大好き!」
 文斗が満面の笑みを見せると、母は安心したように眉を下げて笑った。シングルマザーの自分が普段夜遅くに帰ってきて、おかえりもおやすみも言ってやれないことや、出来立てのご飯を食べさせてあげられないことが、彼女が一番気にしている部分だ。2人で暮らすこと自体がギリギリで、文斗が着ている服も親戚や近所の子どものお下がりが多い。文斗がそんな自分に気を使っていることも、それに甘えてしまっていることもよく分かっているため、休みのときくらいは思い切り甘えさせてやりたかった。文斗の好きな料理を作り、文斗がやりたいといったことをやってあげたいのだ。7畳ほどのリビングに戻ると、テレビをつけながら母は文斗に目をやった。
 「ねえ、今日はご飯を食べ終わったら一緒にアイスを買いに行きましょう」
 「え!いいの!?」
 「うん、今日は特別」
 文斗は「やった」とガッツポーズをした。息子が子どもらしく喜ぶ姿を見ると、母として頑張れているという実感が持てた。
 『次のニュースです。本日未明、千葉県いずみ市の住宅街に突如ナレノハテが出没しました。超能力者によって駆除され、怪我人も確認されていませんが、警察、最果学園による警戒が続いています』
  ふと聞こえてきたニュースに、2人はテレビへと目をやった。
 「いやねぇ…ここら辺には出たことなくてよかった…」
 母は眉を潜め、小さな声で呟く。文斗はそんな母にチラリと視線をやると、再びテレビを見つめた。ナレノハテはもともと人間なのに駆除なんて言葉が使われて可哀想だって、そう思うのも今となってはおかしな話なのだ。だから、口には出さないつもりだった。
 「母さん」
 「なあに?」
 「どうにかならないのかな。だって、ナレノハテってもともとは人間なんだよね?なのに…」
 文斗はテレビを見たまま、話し始める。母は、自分の息子の優しいところが大好きだった。優しくて弱くて、どうしようもなく守りたい存在。息子が言ってることは正しくも、間違っていることであった。
 「ナレノハテにはね、もう人間としての感情がないらしいの。理性のない、とても危険な存在なのよ。だから仕方ないの」
 母は文斗に視線を合わせ、眉を下げて言葉を紡いだ。目を細めて笑い「文斗は本当に優しいね」と伝える。文斗は再び、作り笑顔を浮かべた。
 「だよねぇ。ごめん」
 本当は、もう色々限界だったのだが、取り繕うことは得意だった。






 小学校の屋上は入れないようになっている。でもその日はたまたま、職員が鍵を閉め忘れたらしい。夕暮れ時、気がついた同級生たちが面白がって文斗を引き摺り込んでいた。相変わらず暴力は痛くて苦しいが、耐えるための耐性も付いていて、なんとか平常心を保てること自体がおかしくて仕方がない。でもそれは、自分だけが苦しいことに限るのだ。
 「てめぇら…!」
 バンッと大きな音と共に屋上の扉が開き、ドスの効いた声が聞こえた。文斗はハッとして顔を上げる。
 「た、鷹道くん…!」
 「またこんなくだらねえことやってんのか!さっさと手を離し…!」
 文斗があの三人に囲まれている様子を見て、鷹道は声を荒げた。彼の右手には携帯電話が握られている。どうしてこんな場所で虐められているのがわかったのかと不思議に思ったが、彼は呼び出されたのだろう。その可能性に気がついた時、文斗は咄嗟に「だめだ…!」と声を漏らした。
 「だめだ鷹道君!」
 文斗が叫んだ時だった。鷹道の死角から彼よりも体格の良い少年が現れ、背後から殴りつけたのだ。恐らく中学生くらいだろう。大人から見れば大したことないかもしれないが、小学生から見たら大きくてどうしようもなく強そうな相手だった。
 「…っ!」
 不意の一撃に、鷹道がそのまま前のめりに倒れ込む。急いで身体を翻し起き上がろうとしたが、中学生はそれを許さず再び彼に殴りかかった。ゴッと嫌な音がしてそのままコンクリートに叩きつけられる。
 「鷹道くん!!!」
 文斗は身体を押さえつけられた状態で必死に叫んだ。いわゆるいじめっ子たちは、何が面白いのかニタニタ笑っている。文斗にとってこの状況が一番苦痛だった。自分のせいで鷹道が苦しんでいる、精神的にだけではなく、暴力によって苦しんでいるこの状況が。
 「てめえか弟を蹴り飛ばしたってクソ餓鬼は」
 中学生は鷹道に馬乗りになり胸ぐらを掴んで言った。鷹道は強気にも「はぁ?」と眉を潜める。そしてそのままニタリと口角を上げた。
 「うるせえよデブ」
 ブチっと何かがちぎれる音がした。正確にはそんな音しないはずなのだが、文斗の顔は血の気がひいて真っ青になる。なんでそんなこと言うんだ!ばか!ばかばかばか!と、普段鷹道には絶対言わない思いで一杯になった。なんでやり過ごそうと思わないんだ。なんで僕なんかを助けに来てくれるんだ。なんで君はそんなに強いんだ。
 「んだと!!」
 デブだと事実を突きつけられた中学生は馬乗りになったまま鷹道の顔面を殴る。圧倒的に不利な状況であるにも関わらず、鷹道は未だに「重いんだよ!!降りろ!!」と声を荒げた。
 「僕は何も返せないのに…もうやめてよ…」
 文斗は震える声を振り絞って言った。普段鷹道に勝てない同級生たちは文斗の身体を押さえつけながら、ようやく文斗に視線を戻した。嫌に楽しげな表情で、今の今まで鷹道が兄に殴られる様子を見ていたのだ。同級生は「いいぜ」とニヤッと笑う。
 「お前がここから飛び降りるって男気見せたらやめてやるよ!飛針にもお前にももう近づかねえ」
 それのどこが男気の証明になるのか考えても理解不能だが、今の文斗にこれ以上考えるということは不可能だった。もちろん同級生も本気でそんなことは言っていない。出来ないことが分かってて笑っているだけなのだ。だからゾッとしただろう。この言葉を受けた文斗の表情に。
 「ほんと?」
 文斗が押さえつけられたまま、大きな黄金色の瞳を同級生に向けた。今まで抵抗しなかった少年のその目には、考えられないほど希望が迸っている。
 「え」
 呆気にとられた同級生が力を弱めた瞬間、文斗はバッと彼らの手を振り解いた。そしてそのままスタスタとフェンスへと近づいていく。小学校によるのだろうがこの屋上のフェンスは大した高さもなく乗り越えるのは容易だった。
 「文斗…!?」
 鷹道の声が耳に届く。鷹道がこんなに焦った声を漏らすのを効いたのは初めてだ。文斗が振り返ると、同級生や中学生も流石に目を丸くして驚いているように見えた。それがどうにも滑稽だ。
 「約束守ってよね」
 文斗はそう言うと、ニコッと笑ってみせた。そのまま彼の身体がフワッと傾く。
 「文斗!!!!」
 鷹道は勢いよく中学生を突き飛ばしたが、すでに文斗の身体は屋上から投げ出されていた。ドッと何かが叩きつけられるような音が響く。全身から力が抜け、そちらに駆け寄ることはもちろん立ち上がることもできなかった。
 「まじかよ…!知らねえからな!!」
 「にいちゃん!まってよ!!」
 中学生は慌てた様子で屋上から出て行き、同級生たちも恐怖にかられその場から逃げ出す。屋上に取り残された鷹道は何もできずに座り込んでいた。





 結論から言うと、文斗は助かった。何故か用意された病院の個室で文斗はぼんやりと外を眺める。ベッドの上は退屈だが、暴力の痛みや精神的疲労がない時間はどうしようもなく幸せだった。しかし何よりも大きな問題が一つだけあった。文斗は自分のベッドの横に置いてある椅子に座り、自身を見ている男性に目をやる。彼は穏やかな笑みを浮かべ、文斗を見つめていた。
 「…どちら様ですか」
 「はは、思ったより動揺してないねぇ」
 スーツの男は「そういうとこ俺はいいと思うけど、可愛げないよね」と続ける。銀髪に碧眼のその男は、嫌に若々しく年齢不詳な見た目をしていた。文斗は眉を潜める。目が覚めたら病院のベッドの上で、この男はすでにいたのだ。意味がわからない、が、嫌な予感がした。
 「はじめまして。俺は最果学園の理事長、まあジョーカーとでも呼んでくれ」
 男は本名を明かさずそう告げると、再びニコニコと笑いはじめた。
 「最果学園…って…あの…」
 文斗の言葉に合わせるようにジョーカーは口を開く。
 「無断で悪いとは思ったけどね、君の入寮手続きはもう完了したから、ちゃんと話したいなぁと思って」
 「…え?」
 文斗が驚いて声を漏らしたが、ジョーカーは気にしていなかった。
 「いやあ~、にしても君すごいねぇ!屋上から飛び降りるなんてさ!なかなか出来ることじゃないよ!まあ、子どもたちにあんな問題起こさせちゃって、屋上の鍵を閉め忘れた職員さんは運がなかったねぇ、可哀想に」
 自分の行動を告げられ、文斗は「あ…!」と思い出したように声を上げた。
 「鷹道君は…!?」
 「無事だよ。警察が屋上で見つけてね。放心状態だったけど」
 「そっか…」
 安心してホッと息を漏らす文斗の異常さに、ジョーカーは眉を下げて微笑む。そして「お疲れ様」と続けた。
 「え…あ、いや…っていうか入寮手続きって…」
 「君が飛び降りてからどれくらい時間がたったと思う?」
 「え…?」
 ジョーカーの言葉に自分の身体を見つめる。不自然なほどどこにも傷がない。なんなら痛みすらなかった。意識のない人間がどこまで治癒するのかわからないが相当な時間がたったのだろうか。目が覚めたときは頭がボーッとしてあまり考えていなかったが、時間の経過が恐ろしく、文斗は弱々しい声で返した。
 「僕…相当意識が戻らなかったんですかね…」
 ジョーカーはまた「ハハッ」とおかしそうに笑った。
 「相当意識が戻らなかった人間は、そんなペラペラ話せないよ」






 「あの飛び降り騒動からまだ5時間しか経っていない」
 ジョーカーの言葉を理解するのには時間がかかる。言っている意味が分からず、文斗の口は間抜けにもポカンとあいていた。自分は少なくとも4階以上の高さから飛び降りたのだ。ただで済むはずがないのにまだ2時間しか経っていないだなんてありえない。
 「屋上から飛び降りてそれなりに壊れた君はすぐに発見されたよ。第一発見者はかなり驚いたらしい。君の身体は再生している最中だったわけだから」
 「…は?」
 「こんなに運がいいことあるんだね。こんなタイミングでの能力開花!しかもナレノハテにもならずに上手く扱えてるよ!開花したばかりだから再生系の能力としては時間がかかったみたいだったけど、上手く扱えるようになれば」
 「い…嫌だ!!僕は超能力者になんてならない!」
 「うーん…でも、今後もナレノハテにならない為には薬は飲まないといけないし最果学園に来るのは必要不可欠だよ、それに君のお母さんも、息子をよろしくお願いしますって言ってたし」
 文斗が目を丸くする。たった5時間の間で、もう話が付いていることに絶句した。母を愛していたし、愛されているつもりだった。文斗の中にある正義の話すらできなかったが、それでも愛されてると思っていた。それなのに、あっさりと捨てられたのだ。
 「そんな…そんなの…」
 声を震わせる文斗にジョーカーは慰めるように言った。
 「君が能力者になったのは一目瞭然だった。君が少しでも長生きする為には最果学園に所属する者へ支給される薬が必要なんだ。それがなければいつナレノハテに変化してしまうか分からないからね。君を生かす為に、お母さんはその決断をしたんだよ。何もおかしなことじゃない」
 ジョーカーは微笑む。画面のように張り付いた笑顔が憎らしかったが、何も言葉が浮かばなかった。
 残念ながら、自分は無事なのだ。少なくとも大怪我をするはずの行為をしたのにも関わらず、どこにも痛みはない。
 「よろしく、根津文斗君。ナレノハテを抑えるには能力者の力がどうしても必要なんだ」
 ジョーカーはそう言うと、震える文斗の手にそっと自分の手を重ねた。
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