ブストサル 第二巻

かつたけい

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第二章 合宿

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      1
 JR佐原駅の駅舎はちょっと個性的。
 瓦ぶき屋根に白塗りの壁という、なんだか古風な外観だ。

 駅舎だけではない。駅前の郵便ポストも、赤い円柱形で実に古臭い。
 初めてこの地に来た人は、このポストに投函して本当に届くのか、不安になるに違いない。

 駅の南口前には、わらみなみ高校女子フットサル部の部員全員が集合している。

 みんな、上下とも黒いジャージ姿だ。
 背中には「千葉県立佐原南高校」と刺繍がしてある。

 それぞれの足元には、部活で見慣れたスポーツバッグだけでなく、スーツケースやリュックなどが置かれている。

 いまは、三月の終わり。
 春とはいえ、早朝はまだまだ寒い。
 でも、からっと晴れた青空と、太陽の柔らかな温かさが、肌に気持ちいい。

 オジイこと顧問のきたおか先生が点呼をとっている。先生、五十歳ちょっとのはずだけど、物腰や見た目が異様に年寄りくさいので、我々は陰でこっそりオジイと呼んでいるのだ。

 点呼終了。問題なし。

 もうそろそろ、成田方面の電車が来る頃だ。
 わたしたちは自動改札を通って、ぞろぞろと駅の中へと入っていく。

 ホームで待つこと約五分、電車が到着した。
 「これぞ成田線」という、青とクリームの、ツートンカラーの車両だ。

 扉が開いた。
 乗り込んでみると、中はガラガラだ。春休みだし、もっと混雑していると思っていたのだけど。

 我々の乗り込んだ車両には、他に乗客は数人しかいない。ほとんど貸し切りに近い。

 三分ほどの停車の後、電車は成田方面へと走り出した。

     2
「あたし、合宿なんて初めて」

 もとこのみは、四人掛けボックスシートを一人で占拠して、対面の座席に足を投げ出してくつろいでいる。もちろん靴は脱いでいるが。

「あ、いいなそれ」

 なつフサエも、このみの真似をして隣のボックスシートでくつろぎはじめる。子供か。
 まあ、貸し切りみたいなもんだからいいけどさ。

 さて、フサエがくつろぐといえば……やっぱりだ。
 バッグをがさごそ漁ったと思ったら、マックスコーヒーを取り出したよ。
 そんなに美味しいのか、それ? ……今度、飲んでみようかな。 

 根本このみがいった通り、この遠征の目的は、フットサルの合宿である。

 前々からやってみたいとは思っていたのだけど、なかなか機会を得られずに時間ばかり過ぎてしまった。
 長期休みの時でないと難しいので、この春休みがわたしにとっては最後のチャンス、と意を決して、顧問であるオジイに掛け合って、承諾を得たというわけだ。

 幸いなことに、週間天気予報は晴れマーク続き。

 フットサルの技術向上はもちろんだけど、それ以外にも、それぞれに有意義な合宿になってくれるといいな。

 遠征、合宿、といっても場所は近場で、佐原南高のある香取市の、西に隣接している成田市だ。成田空港からそう遠くないところにキャンプ場があり、そこで行なう。

「合宿って嫌な思い出があるんですよね、あたし」

 コンビニのおにぎりを頬張りながら、王子が唐突にもごもごと呟いた。

「なに?」

 ちらりと視線の合ってしまった手前、いちおう聞いてあげる。
 どうせ、ご飯がまずかったとか、寝坊して置いてかれたとか、そんなとこだろう。

「一昨年、ソフトボール部で合宿やったんですよ。ほ~んのちょっと寝坊して遅れたら、もう集合場所に誰もいなくて。電車で、一人で追い掛けたんですよ。寂しいやらむかつくやら。夜の食事ん時に大暴れしてやりましたよ」

 やっぱり。
 寂しいふりして大暴れして、単にストレス発散していただけにも思えるけど。

「王子のちょっと寝坊は、ちょっとどこじゃないからなあ」

 と、はまむしひさが背もたれの向こうから、顔を覗かせる。

「いやいや、たった三十分っすよ三十分」
「たったじゃないだろ! そんな迷惑なことされたら、あたしだっておいてくよ。まあでも、その苦い思い出があるおかげで、今日遅刻しなかったのかもしれないしな。王子がちゃんと時間までに来てるから、びっくりしたよ。絶対遅刻すると思ってたのに」
「成長してるんですよ裕子ちゃんも」

 自慢気に胸を張る王子。張ったところでペッタンはペッタンだけど。

「朝練いつも遅刻してくるくせに、今日たまたま早く来たからって偉そうに」
「うるさいなあ」

 二人の軽口、もうすっかり日常的光景だ。
 でも、こんなところでまでやりあわなくてもいいのに。せっかくの合宿、最初からそんなでどうすんだよ。

 その隣のボックスには、あぜけいきぬがさはるが座って雑談をしている。

「お父さん、よく許してくれたね」

 と、景子。

「最初はやっぱり猛反対されちゃったんですけどお。挙句の果ては、まあ、案の定というべきか、お父さんもついていくなんて始まっちゃって」

 春奈、いつもながら大袈裟な身振り手振りで、苦情も楽しげとしか映らない。
 そういうところが春奈の魅力だな。

「やっぱり、そうなっちゃったんだ」
「はい。でも、近場なんだからってことで、お母さんと二人で、なんとか説得しました。毎晩電話しろっていわれてますけどね。声の様子からちょっとでもおかしいと思ったら、すぐそっちに行くからな、なんて無茶苦茶いってますよ。ほんっと子離れ出来なくて、困った親です」

 春奈は、心底参ったような渋い顔。それが、なんとも楽しげに思えるのだけど。

 わたしには、春奈のお父さんのその気持ちは分からなくはないな。春奈って、小さな頃は本当に病弱で虚弱で、運動どころじゃなかったらしいから。
 でも確かに、ちょっと過保護すぎるかなとも思うけどね。

     3
 佐原駅から、揺られること三十分、電車は成田駅に到着した。

 駅前でバスを待つ。
 シャトル便はないので、通常の市営バスだ。

 閑散とした土地へ向かうため、一時間に一本と便は非常に少ない。でも、タイミングよく、次のバスはあと二十分ほどで来るようだ。

 長いような短いような二十分を過ごして、ようやくバスがやってきた。

 乗り込んでみると、電車同様にガラガラで、我々以外に乗客がほとんどいない。
 この停留所からバスに乗ろうとする者も、我々以外にはいないようだ。

 ぶるぶる低く振動させながらバスが発車する。

 一瞬で街中を抜けて、周囲一面田んぼといった眺めが、何分か続く。

 ふっ、と暗くなった。
 太陽の光を遮る、鬱蒼とした木々に覆われた道に入ったようだ。

 対向からもバスが来たらどうしよう、と不安になるような狭い道を、曲がりくねりながらゆっくりと進んでいく。

 路面状態が悪いのかタイヤがボロなのか分からないが、このバス、酔いそうなくらいにガタゴトと揺れる。

 酔いそうなではなく、本当にが酔ってしまった。
 わたしは、彼女を前のほうの座席へと連れていったが、あまり効果はないみたい。
 青白い顔で、ぐったりとしている佐治ケ江。
 時折激しい嘔吐感に襲われるようで、両手で口を押さえている。
 わたしは彼女の背中をさすったりと、介抱してやる。

「吐いちゃえ。少しは楽になるよ」

 せっかく、エチケット袋も用意したんだし。

「いえ……まだ、大丈夫です」
「死人みたいな顔してるくせに。本当にダメそうなら、いうんだよ」
「はい」

 なにがあろうと絶対に授業中にトイレ行けないタイプだな。内気な子にありがちだ。

 佐治ケ江の地獄はまだまだ続いた。
 バスが目的地に到着するまで、それからさらに三十分強の時間を必要としたからだ。

 三十分ほど揺られると、ようやく薄暗い木々が魔法のように突然消え去って、一気に視界が開けた。

 広大な森林地帯を切り開いて作ったのであろう空間が、目の前一杯に広がっている。

 草や芝、一面の緑。

 眺めもへったくれもない暗いだけの道を、延々とガタガタ揺られたところに、こんな奇麗な場所があるなんて。

 ここが、これから数日間を過ごすことになるキャンプ場だ。

「着いたああああ!」

 山野裕子が両腕突き上げて絶叫した。うぎゃおー、だの、むおー、だの、まったく意味の分からないことを、感情の赴くままに叫んでいる。

「王子、着いたくらいでいちいちうるさい! 他にもお客さん乗ってんだから」

 たけあきらに注意されてら。

 王子は立ち上がると、つーっとわたしたちの方へと近づいて来た。

「あのう、梨乃先輩か久樹先輩、オジ、じゃなくて北岡先生でもいいですけど、出来ればあたしのこと晶よりも先に注意していただけませんか。晶のいうこと、誠にもっともなんですが、あのクソジャガイモ顔にいわれるとなんだか腹立たしくてしょうがないんで」
「じゃあさあ、そういう注意されることすんなよ、最初から」

 わたしは、へなへなと全身を襲う猛烈な脱力感と戦っていた。
 たぶん、久樹も。
 こんなのと、数日間も一緒に生活出来るのだろうか。

     4
 また一人抜いた。
 今度は、王子を股抜きだ。

 王子が険しい表情を浮かべている。
 はまむしひさの障害物にすらならなかったことを、悔しがっているようだ。

 しかたがない、経験の差、技術の差がありすぎる。

 久樹は身長百五十センチ程度の小柄な体格で、それを欠点とするどころか逆に徹底的に生かすプレーをする。
 相手の死角に入り込んだり、体重が軽い故の俊敏さで勝負したり。「喉が渇いて死にそうな時に、コップに一口分の水。そんな時に、コップ一口分の水しかない、ではなくて、一口分もあるぞ、と、いつもそう前向き考えるようにしてるから」、とは、久樹がよくいう言葉だが、ここにも当てはまる。大きい身体がないぞ、ではなく、小さい身体があるのだ。
 いつもいつも前向きすぎて、わたしにはとても真似出来ないな。
 ……でも、わざわざそんなこと考えてるってことは、実はやっぱり色々と気にしているってことなのかな。身長のこと。

 調子に乗ってさらにもう一人を抜こうとする久樹だが、しかしらくやまおりの冷静かつ大胆な読みの前に、残念、カットされてしまった。

 ゴレイロのあぜけいは、久樹と一対一にならずに済んで、ほっと胸をなでおろしている。

「サジ、走れ!」

 織絵は、後方から一気に最前線へと、長い浮き球のパスを送った。

 ゆうは織絵の大声にびくりと肩を震わせると、慌てて走り出した。
 落下地点に、なんとかぎりぎり間に合い、ボールがタッチラインを割る直前、腿を上げてトラップ。
 しかし、うまく足元に収められず、もたもたしている間に、しのに奪われ、大きくクリアされてしまった。

 誰がどう見ても、緊張しているよな、佐治ケ江。
 乗り物酔いが醒めるまで、ついさっきまでずっと宿舎のベッドで横になっていたけど、それが原因ではないだろう。
 なんだか去年までの、やたらとおどおどとしてばかりいた頃に戻ってしまったかのようだ。

 周囲知った顔ではあるものの、合宿ということで普段と勝手が違うからだろうな。

 佐治ケ江優、心技体の技は一流なのに、心と体の、まあ弱いこと。世の中、うまくいかないものだよな。まあ、完璧過ぎても、嫉妬しちゃうけど。

 いま行っているのは、紅白戦。部員を二つに分けての、試合形式の練習だ。

 Aチーム FP 浜虫久樹、なつフサエ、真砂まさごしげしのもとこのみ ゴレイロ たけあきら

 Bチーム FP 楽山織絵、やまゆう(王子)、佐治ケ江優、きぬがさはるむら(わたし) ゴレイロ 畔木景子

 公式戦と同様に五対五の勝負なので、全員ではない。今は、このみとわたしの二人がピッチ外だ。

 天を見上げれば、青空が果てしなく広がっている。
 いつもは学校の体育館で練習しているから、なんだか新鮮な気分だ。

 十分置きくらいに、上空を飛行機がもの凄い音をたてて飛んでいく。
 まるで爆音だ。
 最初は気が散って仕方なかったが、すぐに慣れてしまった。

 このキャンプ場、確か去年の夏にオープンしたばかりなのだが、それ故にというべきか、設備が現代風に充実している。
 テニスコートや野球のグラウンドどころか、なんとこの通り人工芝の屋外フットサルコートまであるのだから。
 まあ、それが強化合宿の地としてこのキャンプ場を選んだ大きな理由だ。
 しかも近いし、いうことなしだ。

 楽山織絵と真砂茂美が両チームのベッキ、つまりディフェンダーなのだけど、どちらのベッキも非常に積極的かつ粘り強い守備で、この紅白戦そこにだけ注目してもなかなか見ごたえがある内容だ。

 現在Bチームが一点リードしている。
 衣笠春奈が、茂美の一瞬の隙をついて奪い、さらにゴレイロである晶との一対一を制し、ゴールに流し込んだのだ。

 しかし茂美も、それ以外はまったく集中を切らすことなく、まったくミスをすることなく、完璧に相手の攻撃を食い止めている。

 茂美は、技術はそれほど高くはないが、集中力や冷静さに優れている。
 前部長であるかね先輩がそう判断し、ベッキになることを勧めたのだ。
 先輩の判断は正しかったということだ。
 それに、技術力だって、入部から一年、黙々と練習を続けてきた成果で、かなり向上してきている。

 いまや不動のベッキである織絵だって、ぐんぐんと実力が伸び始めたのが一年生の終わり頃であったことを考えると、茂美には非常に期待が持てるというものだ。
 わたしの目指すフットサルは、まずなによりも守備をしっかりさせることからだから、優秀なベッキが二人もいることは心強い。

 まだ無得点のAチームではあるが、しかしやはり久樹は凄い。見ているだけで、他と格の違いを感じる。

 格が違かろうと、バカスカと点が入るわけでないところがフットサルやサッカーという競技だけど。

 でも、久樹が自分自分で好き勝手にやっていれば、既に何点か入っていたかも知れない。
 それではチーム力の向上にならないため、飛ばしたい自分をあえて抑えているのだ。
 本人がそういっているわけではないけど、でも、わたしには分かる。

 久樹は、判断は素早く的確だし、ボールを扱う技術も高いし、わたしとタイプの違うプレーヤーとはいえ単純に尊敬してしまう。
 性格もさっぱりしていて、本当にかっこいいと思う。
 背はちっちゃいけど。

 そんな久樹に勝るとも劣らない技術力を持つ佐治ケ江優だが、先にも述べた通り、今日はなんだか畏縮しているようで、さっきからミスを連発してばかりいる。
 全然走れていないし、蹴れば変な方向にボールを飛ばしている。
 それでますますあがってしまっている悪循環。
 あれだけ普段から戦術練習をしているのに、すっかりなにをすればいいのか分からなくなっている。
 まるで人込みの中で迷子の幼児が立ち尽くしているかのようだ。

 佐治ケ江は体力がまるでなく、メンタル面も非常に弱い。個人的には、そんな彼女が可愛らしくて好きなのだが、選手としては明らかな欠点だ。その欠点さえなければ、久樹と組ませて最強の攻撃力になるのにな。

 久樹は、織絵をかわしざま、シュートを放った。
 意表を突くタイミングで、なおかつかなり速度のあるシュートだ。
 ゴレイロがまったく反応出来なくても不思議ではないが、毎日練習していればある程度は動きが読めてくるというもので、畔木景子はその弾丸シュートを両腕で上手く跳ね上げると、落下してくるのを軽くジャンプしてキャッチした。

「畜生、やるな、景子」

 久樹は残念そうに手を振り下ろした。

 景子は爽やかな笑みを浮かべると、四秒ルールにかからないように、すぐさま手にしたボールを織絵へと転がした。

 織絵はワンタッチで佐治ケ江へ。
 篠亜由美が、ボールを奪おうと素早く体を寄せる。

 佐治ケ江は、すっと横に動いて、

「裕子さん」

 やや戻し気味の横パスが、久樹とフサエの間を奇麗に抜ける。

 走りこんだ王子が受けた。

 上手いパスだな。佐治ケ江は気弱なプレーばかりするれけど、やっぱり能力は高い。

 ボールを受けた王子はそのまま真っ直ぐドリブルで駆け上がり、なんだか分からない奇妙な雄叫びをあげながらシュート、ゴレイロである武田晶の手をすり抜けてBチームが二点目をあげた。

「よっしゃ。すげえ、いいシュート。凄い。あたし天才! 素晴らし過ぎる。なんつっても晶から得点するってのが気持ちいい~。サジぃ、いいパスありがとー!」

 爽やかな青空の下、点を決めておおはしゃぎの王子。佐治ケ江に抱きついて、迷惑そうなのも気にせず頬ずりをしている。

 しかし、ほんとに元気だな、こいつは。

     5
 成田合宿二日目。

 この日の朝より、本格的にフィジカルトレーニングを開始することになった。

 新鮮な環境で徹底的にチームワークを磨くことも重要だが、フィジカルトレーニングこそがこの合宿の一番の目的なのだ。

 とはいえ三泊四日の筋トレ程度で、そこまで強靭な身体が作れるわけもない。
 今後予定している、よりハードな練習メニュー、それについて行くことの出来る身体と精神力がついてくれればいい。
 そうした脳内体内のスイッチをオンにするための合宿だ。
 厳しい練習で、しっかりとした体力を身につけ、精神力を養ってこそ、プレーの一つ一つに技術や経験がより効率的に乗っかって来ると思うから。

 今日これまでこなしたメニューは、ざっと次の感じだ。
 軽めのジョギングとストレッチで体をあたためて、充分にほぐす。
 三十メートルダッシュを往復二十回。
 腹筋五十回。
 腕立て伏せ二十回。
 腕立て維持、三分を五回。
 ヒンズースクワット三十回。
 ワイドスタンススクワット五十回。
 その場腿上げダッシュ、三十秒を五回。
 それと、最初は予定になかったけど、タイヤ引き走。ゴムチューブを結びつけたタイヤが隣の野球グラウンドに置いてあったので、勝手に使わせて貰った。

 予想通り、真っ先にゆうがへたばった。いや、予想を遥かに上回る早さで、だ。

 最初のダッシュで、もう息があがってフラフラなものだから、続くトレーニングをろくにこなせていない。腕の筋力も腹筋も本当に貧弱で、真っ赤な顔で苦しそうにしているだけで一回も出来なかった。

 入部からこれまで一年間、怠けることなく真面目にトレーニングをしてきたというのに、スタミナも筋力も、ほとんど向上していない。
 ここまで来るともう、先天的な体質の問題かなにかだろうな。
 きぬがさはるよりも体力がないのだから。生後から虚弱児で、つい二、三年前まで親からも医者からも運動を禁止されていたという春奈よりも。

 あまりに対照的であるために佐治ケ江とついつい比較してしまうのだが、王子ことやまゆうの体力は実に凄まじいものがある。
 小学生の頃はいつも男の子と遊んでいて、しかもリーダー格だったらしい。
 その頃のあだ名は「山猿」(ちなみに中学時のあだ名は「兄貴」)らしいが、バカにするわけでなく純粋な褒め言葉として本当に山猿だと思う。
 その細い身体のどこにと思うほど、パワーがぎっしりと詰まっている。

 王子、昨夜は初日ということもあり部屋で相当遅くまで騒いでいたらしく、朝ここに集合した時には立ったままイビキかいているくらいだったのに、いざ練習が始まってみればまあ誰よりもよく動くこと動くこと。
 無駄にガンガン走るし。
 無駄に大声で叫ぶし。
 元気があるのはいいけど、うるさすぎだよ。
 佐治ケ江と長所を混ぜあって一人の人間を作ったら、恐ろしいまでに非の打ち所のない完璧な選手が出来ることだろう。もう一人の人間は完全な抜け殻になるけど。

     6
 さて、正午になったので午前の練習は終了だ。

 休憩時間は一時間半。
 グラウンドの端に、真っ二つにした大木を使って作られたテーブルや、切り株の椅子が並べてあり、そこで昼食をとった。

 なんだか、しゃれた高原地帯に来ているみたい。
 近場にこんな場所があるなんて不思議な気分だな。

 必然的に、他愛のない雑談に花も咲くというもので、食べ物を口に運ぶ間もないくらいみんなお喋りしていて、練習の時よりずっと賑やかだ。

 休憩時間だというのに、王子はやたらと動き回っていて、一人ボールを蹴ったり走ったりと、元気がいい、というか落ち着きがない。

「王子、肉体を休めることもトレーニングなんだよ」

 と、わたしは注意するが、

「あ、大丈夫っす」

 と、全然分かってくれない。
 でもまあ、王子なら本当に休憩なんか必要ないか。

 わたしら一般的な人類は、しっかり休憩して胃袋と心とを満たし、そして一時半から午後の練習を開始だ。

     7
 まずは二人組や三人組を作って、ボールを使った足元技術向上のための練習。

 そして、昨日に引き続いて紅白戦。
 メンバーの組み合わせを変えながら、十五分を三本。

 人数の関係上、ほとんど全員が四十五分フルに走り回ることになるので、終わった頃には佐治ケ江のみならず全員が死にそうなくらいにバテてしまっている。もちろん王子以外の全員だ。

 しかし王子、どんな心臓してるんだろうか。
 わたしもかなり体力あるはずなんだけど、王子の前には自分がいかに常識の枠を出ない一般人であるかを痛感させられる。

 わたしは中学の頃、陸上で中距離と長距離をやっていた。
 特に中距離には自信があって、実際、全国大会に出たこともある。
 この分野で勝負したならば、それはわたしが勝つだろうけど、ちょこちょこ動き回るような体力や気力、回復力、生命力では、王子に圧倒的に軍配が上がるだろう。

 まだ体力も回復しきっていないだろうということで、紅白戦後、ちょっとしたレクリエーションをすることに。まあ、スケジュールに組み込んでいることなので、全員が王子みたいな体力だったとしてもやっていたけど。

 名付けて、二人三脚ドリブル競争。

 どんなものかというと、もう、文字通りだ。
 二人三脚でドリブルをして、ゴールまでのタイムで競うのだ。

 目的は、技術的になにか得られるものがあるかも知れないというちょっとした期待と、部員たちの親睦のためだ。
 まあ、単なる座興だ。

 わたしとはまむしひさとで、コーンをペアで、あらかじめ考えてある通りに配置し、コースを作った。

「じゃ、あたしと久樹でちょっとやってみるよ」

 わたしは用意してきた紐を取り出して、自分の左足と久樹の右足とを結びつけた。

「みんな、いい成績じゃなくても気にしないでいいから。あたしらは、もう何度か練習してるからタイムいいだろうけどさ」

 と、久樹が余計なことをいう。
 確かにそうだけど、でもいらないプレッシャーかけるなよ。

 わたしたちは、スタートラインに立った。右がわたしで、左が久樹だ。

 あぜけいが笛を吹いた。スタートの合図だ。

 久樹がボールをちょんと蹴り出した。
 ペアになって並べられたコーンの間を、二人三脚で前へと進む。
 今度はわたしがボールを前へ蹴る。

 ここで大きく方向転換、九十度右へ曲がる。
 しかし……久樹がボールを強めに蹴ってしまい、転がるボールを慌てて追いかけようとしたものだから、お互いの足が引っ張られて、我々はもつれ合うように転んでしまった。

「ごめん!」

 謝る久樹。

「こっちこそ」

 たぶんわたし、悪くないと思うけど、レクリエーションで文句いってもしょうがないからな。

 素早く起き上がろうとする我々だが、身体をぶつけあって、再び無様に倒れてしまった。

 なんとか立ち上がって、ボールに駆け寄ったものの、その後が大変だった。
 焦りが焦りを呼んで、お互いに引っ張り合い、押し合い、足を踏みつけ合い……同時にボールを蹴ろうとして仲良く尻餅ついたり。

 練習の時には、ゆったりとやっていて、まったく失敗しなかったものだから、失敗への免疫がない。手本を見せなければならない立場なのに、と考えれば考えるほど、頭がパニックを起こしてしまう。

「そっち久樹でしょ!」
「無理だろ、梨乃が下手なんだよ!」

 結局……お互いを罵り合う始末に。

 みんな腹抱えて大笑いだ。
 特に王子。両足をパシパシと叩きながら、指差して、お腹かかえて、いまにも転がりそう。そこまでバカにしなくてもいいだろ。
 こっちは必死にやっているというのに、なんて薄情な連中なんだ。

 みっともなく喧嘩しながらも、少しずつ進み、なんとかかんとかゴールイン。

 二十組のコーンの間を通って時間計測するのだが、練習では最短一分で回れたのに、十分もかかってしまった。

「疲れたあ。久樹、カリカリしちゃってごめんね」


 紐をほどきながら、謝るわたし。

「自分の下手をたなにあげてカリカリこられてちゃ、こっちもいい迷惑だ」

 久樹、ぶすっとした顔。

「そういうこというか? 普通さあ、こっちが謝ったんだから、こっちこそごめんって謝るもんじゃない?」

 と責めると、急に久樹は表情を変化させ、笑いだした。

「冗談だって。こっちこそごめん」
「もう。久樹の意地悪」

 ……たぶん久樹、冗談の振りして本音をいってたと思う。
 たまに、子供っぽいところ見せるからな。

 しかし、本当に疲れた。脛のちょっと横のところや、踵のあたりなど、あちこちの表層筋肉がつりそうだ。
 普段使わない筋肉ばかり使ったからだな。
 これはこれで、勉強になるな。と、惨憺たる結果に落ち込む自分の気持ちを慰めてみる。

 わたしたちの見本が終了し、続いて本番だ。

 景子と春奈が足を結び、スタートラインに立つ。

「……さっきので、要領、分かった?」

 自信なさげに訊ねるわたし。

「充分に分かりましたっ。楽勝ですよお」

 春奈が小さくガッツポーズ。

 可愛いな、あの仕草、いつか真似しよ。
 と、自分の心に彼女の仕草をメモするわたし。

「楽勝ですヨ~」

 王子が春奈のポーズや言葉を真似している。
 誇張してるつもりなのかお尻をくいくいっと振ってる。春奈そんなことまでしてないだろ。

「王子がやってもぜんっぜん可愛くない。なごまないどころか、むしろ迷惑。やめて」

 わたしは冷たくいい捨てる。

「そこまでいわなくても」

 憮然とした表情を浮かべるツンツン頭の王子様。

 わたしはスタートラインの横へ行き、首からかけた笛を手に持った。もう片方の手には、ストップウオッチを持っている。

「転んだら痛そうだなあ」

 景子の呟き声。
 わたしたちのもつれ合う転び様が、目に焼きついているのだろう。

「大丈夫大丈夫。景子先輩、焦らずいきましょ~」

 春奈、両手ガッツポーズから、万歳みたく腕を上に広げる。

「いちいちブリッ子してねえで、ガーッと豪快に行けや! 豪快に。焦ってやるから面白いんだよ」

 王子が茶々を入れる。
 きっと、わたしが王子のブリッ子を可愛くないといったからだ。でも、だったら、その短髪やめろよ。顔だけ見れば可愛いんだからさ。

「それじゃ、いくよ」

 わたしは手にした笛を口にくわえ、吹いた。

 スタート。
 最初に、春奈がボールを蹴った。

 ゆっくり走りながら、今度は景子。また景子。

 方向転換。
 今度は春奈が蹴る。

 いい感じ。早くはないけれど、確実に進んで行く。

 一度だけ、もつれて転んでしまったが、無難にゴールした。

 結果、一分三十三秒。

 わたしは、やり場のなさに頭を掻くしかなかった。

「ええと、あたしらのことは奇麗に忘れて、いまのを手本にするように」

 次。フサエと織絵だ。

 スタートした瞬間の感想、「この二人、合わない」。
 結局それはゴールまでの全体の感想とまったく同じだった。

 ひょろひょろのフサエとがっしりの織絵、と体格の差は別に関係ないとは思うが、とにかく合わない。
 足の出し方が、二人、まったく違う。
 合わせる器用さもない。
 転んで、起きて、転んで、起きて、転んで、起きて、たまにボール蹴って、転んで。
 これは、最低だ。
 見てられない。
 わたしと久樹よりも酷いや。
 などと思っていたら、七分十秒。なんでだ……

 次、王子こと山野裕子と佐治ケ江優の、男女ペア。

「サジ、焦らずしっかりやろうぜ」
「……裕子さん、春奈さんにいってることと違う」

 小さな声でツッコミ入れる佐治ケ江。
 その表情から、緊張しているのがよく分かる。遊びだってのに。
 合宿の雰囲気にも少しは慣れてきたかなと思ってたけど、ちょっと違うことやらせるとこれだからな。
 佐治ケ江、性格の根本を直さないと、人生びくびくしているだけで終わっちゃうぞ。

 まあいいや。
 では、鍛えてこい!

 わたしは笛を吹いた。

 スタート。
 王子が蹴った。

 次いで、佐治ケ江。

 方向転換。

 王子、
 佐治ケ江、

 性格も体力も百八十度違う二人だが、この競技の相性はかなりいいな。
 ミスすることもなければ、タッチが大きくなり過ぎず小さくなり過ぎず、お互いが次にコントロールしやすいようにボールを蹴っている。
 一度転んだだけで、他はまったく乱れることなくスムーズにゴールに到着した。
 タイムは一分二十秒、景子春奈ペアより十秒以上も速かった。

「すげえ、一等賞!」

 王子が、飛び跳ねて喜んでいる。

「痛い! まだ、足が」

 まだ紐を解いていない。
 王子が飛び跳ねるたび、佐治ケ江が引っ張られて、悲鳴を上げている。

「あ、ごめんな」

 やっと気付いた王子。

「しかし凄いよな、サジは。すっごいやりやすかったあ」
「……王子こそ」

 あれ、「裕子さん」が、いつのまにか「王子」になっているよ。
 相変わらずの小さな声だけど。

「ナイスカップル賞だよな。サジ、王子のスネ毛がチクチクすっだろ」

 久樹がからかう。

「そうそう、あたしのスネ毛は刺さるからねー。って、生えてねえし! 久樹先輩、あたしのこのツルツルの美脚のどこにそんなもん生えてるってんですか、おい!」

 狂った猿のように、足をばんばんと踏み鳴らす王子。
 心臓には絶対に毛が生えてそうだけどな。

「痛い! 王子、痛いって。なんで縛ってるほうの足を上げるの」

 王子に振り回されて、また佐治ケ江が悲鳴を上げた。

 なんだか、結構しっくりくるものがあるな、この二人。
 久樹のいう意味とは違うけど、これはこれで本当に、最高のカップル誕生の瞬間かも。

     8
「誰、これ作ったの?」

 カレーのスプーンを握りしめたまま、王子が席を立ち、他の一年生たちを見回した。

 現在、宿舎の大部屋にて夕食の時間。
 キャンプ場の定番である、カレーライスだ。

「あ、ご、ごめんなさい!」

 おろおろとした態度で、ゆうが立ち上がった。
 今日の夕ご飯は一年生の担当なんだけど、そうか、これ、佐治ケ江が作ったのか。

 王子は、にっと笑みを浮かべた。

「なに謝ってんのよサジちゃ~ん、これ超美味いよ~。具もさあ、タマネギの溶け具合が絶妙で。人参やジャガイモがこんな美味しいと思えるカレー、はじめて食べるよ。具の切り方も、よく見りゃなんか芸術的というかいぶし銀というか」

 佐治ケ江は苦情じゃないと分かって、ほっとした表情を浮かべ、座りなおした。ほんとに気が小さいなあ。

 どれ、どんな味なんだ。と、わたしも一口含んでみる。

「あ、ほんと、おいしいね、これ」

 自然と言葉がもれていた。
 佐治ケ江のあらたな特技を発見だな。
 勉強は出来るし、フットサルは上手だし、作る料理は美味しいし、性格は真面目だし、優しいし、凄いよなあ。

「具を切ったのは、あたし」

 たけあきらが自分の顔を指さした。

「抜群に美味しいのに、切り方だけやけに下手くそと思ってたら、どうりで」

 王子、しかめっ面を隠しもせず、お皿の上の具をスプーンでいじり確かめる。

「芸術的って褒めてたくせに」

 晶は、ちょっとむっとした表情になった。
 もともと感情を顔に出さないタイプだから、ほんの微かな変化でしかないけど。

「そういう後だしジャンケンみたいなことすんなよな。そもそも、具の切り方のことなんか、最初から褒めてない。だいたいさあ、芸術なんてのは、実績ある奴がなんか作ればなんでも芸術的なんだよ。どうでもいい奴が、ただ下手くそに切っただけのなんて、芸術でもなんでもない。サジの便乗でちゃっかり褒めてもらおうとしてんじゃないよ。それよりなにより、ジャガイモみたいな顔してるくせに、共食いじゃんかよ。包丁で切るの、よく平気だったなあ。あたしだったら、ジャガイモ語で切ラナイデーなんていわれたら可哀想で無理だなあ」
「具を食うな! ルーだけ食べてろ!」

 晶が身を乗り出して、手にしたスプーンで王子の皿から具を奪おうとする。

 あの寡黙な、何事にも動じない晶をここまで怒らせるなんて、王子……ある意味、才能だ。

 王子は自分の皿を持ち上げて、カレーライスを晶の攻撃から守っている。

「やめろよ、味はサジの腕のおかげで最高に美味しいんだから。……分かったよ、晶も頑張った頑張った。えらい。文句なし。よっ、芸術家。素敵。ほんのちょっとだけいわせてもらえば、あと千倍くらい頑張ってくれると、もっとよかったかな」

 晶はちょっと肩を震わせたかと思うと、黙って、ゆっくりと腰を降ろした。
 なにをいっても返されて、余計に頭に来るだけだから、相手にしないようにしたのだろう。

「でもさあ、ほんとサジ料理上手だよねえ。カレーだけで判断しちゃうのもなんだけど」

 王子、やたらと佐治ケ江のカレーを褒めてるな。たぶん、間接的に晶のことをからかっているのだろう。

「……ありがとう」

 肩を小さくすぼめて、もじもじとしている佐治ケ江。

 王子は、その流れで、佐治ケ江と雑談をはじめた。
 佐治ケ江家の普段の料理の話、さらには佐治ケ江の普段の生活についてなど、いろいろと質問をしている。

 以前の佐治ケ江は、他人と打ち解けようとせず、周囲から浮いていた。
 若干それは緩和されてきたものの、でも、進んで他人と交わるほどでもない。
 反対に、王子は誰とでも打ち解けようとするタイプだから、これをきっかけに、佐治ケ江ともそうなろうとしているのだろう。

 久樹は頬杖つきながらそんな二人を見て、

「どっからどう見ても男女のカップルだよなー」

 と、はっきり聞こえるような声で呟いた。

「サジ、男の子だってよ~」

 王子はにやにやと笑みを浮かべながら、佐治ケ江の柔らかそうほっぺをつつく。

「こんな可愛いのに、失礼しちゃうよねー」
「男の子扱いされてんのは王子だろ。自分に付けられたそのあだ名で気付けよ」

 晶が、頬杖ついた不機嫌そうな顔で、ぼそりという。

 王子は、その言葉に反応して、ばっと立ち上がった。

「なにい? 久樹ぃ、よくもこらあ! この髪の毛ですか? 未来先取りのこの髪の毛が男ですか? この顔ですか? この綺麗で哀愁のある顔立ちが男ですか? そんなんゆうなら、パンツ脱いで見せたろかオラアア!」
「うるさいよバカ! おとなしく食ってろ!」

 久樹、自分でふっかけといて怒ってるよ。

「分かった、久樹先輩、この前カラオケで負けたことをまだ根に持ってんでしょ? きっとそうだあ」

 王子はさっとテーブルを回り込んで、両の人差し指で久樹のほっぺをつっつき始めた。

「違うよ! ……でも、確かにあれは相当に落ち込んだ。所詮、機械なんかにゃ、あたしの歌声のよさは分かんないんだよ。今度リベンジすっから逃げんなよ」

 去年の暮れに、王子と久樹と、付き合わされてわたしと景子とフサエとおりとで、成田のカラオケ店に行ったのだ。
 王子も久樹も、どちらも上手で甲乙つけがたく思えたのだけど、機械の採点はどの曲もことごとく王子がリードして圧勝だった。
 久樹はその雪辱に燃えているというわけだ。

 ちなみに、わたしも無理矢理に歌わされた。
 音痴だから、最低最悪な得点になってしまった。
 きっと、機械どころか人の耳にも不快極まりなかったのではないだろうか。
 もう、いくら誘われたって、二度とカラオケなんか行かない。

「いつでも受けて立ちますよ。あたしの歌は機械にも人にも響きますからね」

 王子、自信満々の笑みを浮かべている。

「ぜってえ負けねえ」

 表情に闘志を浮かべる久樹。
 火花が散った。
 バチバチ、バチバチ。

 二人とも、その熱意を少しは勉強に向ければいいのに。

     9
 寝室は、八畳ほどの空間に二段ベッドが四つ、まさにみっしり敷き詰められているといった感じに置かれており、もう寝ることしか出来ないような窮屈さだ。
 実際、寝るだけだから問題はないのだけど。
 窮屈なところが、また楽しかったりもするしね。

 この部屋で寝ているのは、わたしたち二年生だけで、一年生は隣の部屋だ。
 ごっちゃの部屋割りも考えたのだけど、一年生が気を使うかなと思って別々にしたのである。

 まあ、部屋割りがどうであれ王子は他人に気なんかつかわないだろうし、は神経衰弱になるくらい気をつかいまくるだろうけど。

 なんでうちの部って、極端なのが多いんだろう。

 わたしは、みんなと同じようにベッドに横になっている。
 みんなと違っているのは、わたしだけ眠れずに起きてしまっていること。

 何故か分からないけど、目が冴えてしまっている。まったく眠気がやって来ない。

 別に久樹のイビキのせいではない、とは思う。
 轟音にも負けずに、ほかの子たちはちゃんと寝ているのだから。

 昨夜はちゃんと眠れたんだけどな。
 その時も久樹のイビキは凄かったし、それどころか壁の向こうから王子の騒々しい声や、ドンドンと蹴飛ばすような音が聞こえてきていたというのに。

 今日の練習、疲れ足りなかったのだろうか。
 いやいや、そんなことはない、充分に走って動いて、普段以上に疲れているはずだ。

 王子が壁の向こうにいるはずなのに、今日はバカ笑いや壁蹴飛ばす音がまったく聞こえないから、それがどうにも気持ち悪くて眠れないのかな。その可能性はあるよな。王子、昨夜の夜更かしの眠気で、今夜はぐっすり眠っているのだろうか。

 しかし、眠くならないな。
 まあ、慣れてない場所に来ているのだから、眠れても眠れなくてもどちらでも不思議はないのだけど。

 なお、顧問の、オジイこときたおか先生は、家がこのすぐ近くなので、合宿にはろくに付き合わずに、ちょくちょくと家に帰っている。
 だから現在も自宅だ。
 こっちに来たと思ったら、傍らでずっと書類作成の仕事なんかしているし。
 まあ、部活のことに踏み込んで来ないから楽といえば楽なんだけどね。合宿を許可してくれただけでも感謝だ。

 わたしが寝ているベッドは、壁際の下段。真上にはなつフサエ。隣のベッドは、上段はあぜけい、下段には大イビキの浜虫久樹。

 枕もとの時計を見ると、ほぼ午前一時。

 明日も早いというのに、これで練習の時に眠いんじゃ困っちゃうな。
 早く寝たいけど、でも、このままじっとしてても眠れそうにない。少し気分を変えようと、わたしはベッドから出た。

「違うよ兄貴、それカルボナーラじゃない!」

 久樹の寝言。どんな夢見てんだよ。
 そしてまた大イビキ。

 それに比べて景子の寝息のまあ小さなこと。
 相当に耳を寄せないと、これっぽっちも聞こえない。

 フサエが、久樹ほどじゃないがイビキをたてはじめた。
 久樹とフサエ、まるで夏の田んぼ、カエルの合唱だ。

 そうか、フサエもイビキかくんだ。
 久樹のは知ってたけど。
 ……もしかして、わたしもだったりして。怖くて人に聞けない。
 知らず独り言いうからな、わたし。イビキだって、もしかしたら……

 わたしは、音を立てないように、こっそりと部屋を出る。まあ二人のイビキに多少の足音などかき消されてしまうだろうけど。

 そしてロビーを通り、玄関へ。

 靴を履き、外へと出た。
 見上げると、奇麗な星空が広がっている。

 春の真夜中、空気は非常にひんやりとしている。
 なんか羽織るもの持ってくればよかったな。

 呼吸の音すらこだましそうな、静まり返った空気の中、聞き慣れた、でも時刻を考えると不自然な音が聞こえてきた。

 誰かが、ボールを蹴ったり、ドリブルをしたりしているような、そんな音だ。おそらく間違いない。でも、こんな遅い時間に、誰だろう。

     10
 早足で、フットサルコートへと向かった。

 誰なのかは、すぐに分かった。
 山野裕子だ。一人でフットサルの四号球を蹴って、練習をしているのだ。

 いくら強化合宿で来ているからって、こんな時間にやることないのに。
 休息もトレーニングなんだって、何度いっても分からない奴だ。

 わたしは別に隠れて見ているわけではないが、王子はボールを蹴るのに夢中で気付かない。
 声をかけるタイミングを逸してしまい、しばらくその様子を見ていることになった。

 ターンしてドリブル。壁にパスしてドリブル。ドリブルからシュート。フェイント。ターン。ドリブル。シュート。夜の闇の中を、しなやかに、身軽に動いている。

 とにかく無駄な脂肪のない、細くすらっとした体つき。
 髪の毛は男の子みたいに短くて、でも男の子にしては女の子っぽすぎる顔で……ほんとに王子の名がぴったりだ。
 髪の毛伸ばして下品な口調を直せば、きっと男子にモテるのに。

 王子が、こちらに顔を向けた。ようやくわたしに気付いたようだ。

「熱心だね。でも、明日も早いんだから、ちゃんと眠らないと辛いよ」

 ようやく、王子に話しかけることが出来た。

「ちゃんと寝ても寝なくても、朝は眠いんで、おんなじです」

 そういいながら、王子はリフティングを始めた。
 爪先にボールを乗せて、ちょんちょんと蹴り上げている。
 でも、五回もたずに、地面に落としてしまう。
 足の裏でボールを引き寄せる勢いで、また爪先に乗せ、リフティングを続ける。

「頑張るなあ」
「あたし、体力には少し自信あるけど、頭悪くて物覚えよくないんで、こうやって、とにかくボール触って体に叩き込むしかないんですよ」
「それ、あたしと一緒だ」

 王子、最近どんどん上達してきているなとは思っていたけど、そうか、こういうことだったんだ。

「あたしも、疲れ足りないのか眠れないところなんで、ちょっと付き合いますか」
「お、いいっすね。でも明日に差し支えのない程度にしてくださいね」
「こんな時間に一人で練習している奴の台詞じゃないでしょ。じゃ、まずはリフティング勝負だ」
「ずるいっ。あたしがド下手なの知ってるくせに。でもいいや、やりましょう」

 ド下手だから、あえてやるんだよ。

 久樹や佐治ケ江ほどではないけども、リフティングはわたしの得意分野だ。
 当然、王子に負けるはずもない。
 勝負というより、王子に上達してもらいたいだけだ。
 感覚についてのアドバイスは難しくて自分で掴んでもらうしかないから、足の使い方や、体勢、力の入れ方などについて、なるべく視覚的に分かるようにコツを教えてあげる。

 でも、相変わらず、何度やっても変わらない。
 結局は経験だから、二言三言の助言で即上達するわけもないし、これはこれでいい。

 リフティングの次は、一対一のボールキープと奪取の練習だ。
 王子はとにかく敏捷性が高いので、これはわたしとよい勝負になった。
 経験の差で、勝負としてはわたしが勝ったけど。
 王子の身体の使い方には無駄が多く、これも色々とアドバイスをしてあげた。

 次、ゴールネットのクロスバーにぶらさげた大小複数の的にボールを当てるという、ゲームっぽいシュート練習。
 王子はシュート精度、パス精度など、キック力の正確性に難があるから、おそらくわたしの圧勝だろう。
 と思っていたが、それどころの話ではなかった。
 いや、わたしの圧勝には違いないのだが。

 お互い二十本打ち、わたしはそのうちの八割ほどは的に当てることに成功したのだが、王子は二十本のうちの一回たりとも当てることが出来なかったのだ。
 的と的の間を縫うように飛ばしたり、クロスバーの遥か上に飛ばしてしまったり、蹴り損ねて転がしてしまったり。
 ある意味、これは凄い。
 テレビでサッカー日本代表なんかを観ていて、よくあんなにポストにばかり当てるなあと思うことあるけど、その比ではない。

「疲れてきた。やめよっか。もう二時だし」

 気分もほぐれてきて、眠くなってきた。

「そうですね。じゃ、寝ましょうか」

 というと、王子はいきなり走り出した。

「先輩、おやすみなさい、あとよろしく!」
「はい、おやすみ。って、よろしくじゃない! 後片付け!」

 しかしすでに王子の姿はなく。
 わたし一人で、ボールやコーンの片づけをすることになった。
 王子が出して、二人で使ったんだから、わたしが片付けるというのも理屈かも知れないけど、でもやっぱり、二人で片付けるべきじゃないか?

 まあ、いいけどさ。
 王子の知らなかったところを知ることが出来たし。

 きっと、今日寝付けなかったのって、神様が、そんな王子をわたしに見せようとしたんだ。

     11
 後片付けを終えて宿舎に戻ったわたしは、まだ、久樹とフサエが、イビキの混線合唱を続けているのに驚いた。

 また、変な寝言いわないだろうな、久樹。
 そもそもさっきの、カルボナーラじゃないってなんだよ。じゃないんだったら、一体なんだったんだ。
 凄く気になる。明日、本人に聞いてみよ。

 わたしは思いのほか汗をかいてしまったので、別の部屋着に着替えると、そっとベッドに入り、薄い毛布をかけた。

 その直後からの記憶がない。すっと寝入ってしまったようだ。

 夢を見ることもなく、気付くともう明るくなっていた。

「梨乃、起きろ。梨乃。コラ! 部長が寝坊してどうすんだ!」

 久樹に叩き起こされた。

 そりゃ、久樹はぐっすり眠れて気持ちのよい目覚めだろうよ。

 壁の向こうから、ドンドンという音と、「王子!」という怒鳴り声。
 たぶん晶だろう。
 王子を叩き起こそうとしているのだが、まったく起きてくれないのだろう。

 大丈夫だよ、練習さえ始まってしまえば、誰より動くから。

 わたしはまどろみの中で、そんなことを思っていた。

     12
「織絵先輩!」

 王子が走りながら、片手を高くあげ、叫んだ。

 らくやまおりが最後方から力強いパスを送る。

 今日も見事なまでに快晴。地面に寝そべって見上げたら、青いキャンバスにふっと走る白昼の流れ星が見えたに違いない。

 落下地点に走り寄り、落ちたところを丁寧に足裏で押さえる王子。
 まだ前にはゴレイロだけでなくベッキの真砂まさごしげもいるため、ゴールに背を向けてポストプレーだ。

 近くにいた、アラのなつフサエが素早く詰め寄る。

 王子は、フェイントでフサエを抜く素振りを見せたが、次の瞬間、身体を反転させ、シュートを打っていた。

 ボールは真砂茂美の脇を抜けて、ゴールへまっしぐら。

 ゴレイロのあぜけいはぴくりと動きかけたが、その瞬間には、ボールは景子の脇をもすり抜けていた。
 だが、ゴールならず、ボールはポスト直撃で跳ね返った。

 王子と茂美がボールを拾おうと競り合う。
 
 ボールを掻き出そうと、景子も走る。

 先にボールに触れたのは王子である。
 常人離れした足の力で高く跳躍し、空中からヘディングシュート。

 景子は、まったく反応が出来なかった。

 今度こそ、ネットが揺れた。

「裕子ちゃん、スーパーゴーーーール!」

 絶叫する王子。
 よく自分で詰めて、競り合いにも勝ったなとは思うけど、スーパーではないと思う。

 ゴールを決められて、残念そうに天を仰ぐ景子。

 王子は奇声を発しながら、ボディビルダーのようなムキムキポーズでゴールパフォーマンス。

 今日は合宿四日目。最終日だ。

 なんだか、王子の気迫が凄い。
 これまで小出しにしてきて残っている体力を、この最終日に全部使い切ってしまおうとしているのだと思う。

 きぬがさはるのキックオフで試合再開。

 ボールを受けるフサエ。

 そして、フサエから、ゆうへと渡った。

 王子ともとこのみがさっと詰め寄って挟み撃ちにしようとするが、さすがは佐治ケ江、ボールをしっかりキープしたまま二人の間を簡単に抜け出した。
 よくボールタッチについて、足に吸い付くようななどと表現するけど、比喩でなくそんな感じに見える。
 どんなトレーニングをしたら、こんなに器用にボールをコントロール出来るようになるんだろう。

 あっさりと抜かれた王子だが、すぐさま、取り返そうと佐治ケ江の背中を追う。
 全速力だ。
 野獣のような脚力にものをいわせて、あっという間に背後から追い抜き、正面へと回り込んだ。
 王子、戦術的にはそこはベッキとアラに任せるところなのに。

 佐治ケ江の正面に回りこんだつもりが、王子の見ているのは彼女の背中。佐治ケ江が、ボールを取られないように瞬時に反転して背を向けたのだ。

 また回り込もうとする王子だが、佐治ケ江は足、背、腕、と身体を巧みに操って、ボールの所有権を簡単には渡さない。

 ボール扱いは佐治ケ江のほうが格段に上手だが、王子は体力にものをいわせて執拗に食らいつく。

 佐治ケ江は、フェイントをしかけ、真横へ小さくステップを踏む。楽々と王子をかわして、味方の真砂茂美へとパスを出した。

 そうだよな、別に王子と一対一の勝負につきあってやる義務はないのだから、当然の行動だ。

 佐治ケ江はいつの間にか、大きく肩で呼吸をしている。
 とにかくスタミナがないからな。いまのように王子にあんなにまとわりつかれたら、そうなるのも無理ないか。
 今日までの疲労だって蓄積しているだろうし。

 ボールは、茂美からきぬがさはるへ。

 それを織絵が奪った。

 織絵と、上がって来ていた茂美と、ベッキ同士の直接対決である。

 勝ったのは茂美だ。
 すぐさまパス。佐治ケ江へと転がした。

 佐治ケ江は、茂美からのパスを受けたが、その瞬間には、王子に真正面から密着されていた。

 王子、間違いなく佐治ケ江を力試しの標的にしているな。

 佐治ケ江はちょっと驚いた表情を浮かべながらも、反射的にボールを後ろに転がし、文字通り間一髪で王子の攻撃をかわした。

 しかし、王子は諦めず、なおも執拗に佐治ケ江からボールを奪おうとする。

 佐治ケ江は、爪先でボールを小さく蹴り上げた。

 その、宙へ逃げるのを、王子は狙っていたのかも知れない。

 佐治ケ江の足が再度ボールに触れるよりも早く、王子の足が横殴りに動き、ボールをかっさらっていた。

 それによりバランスを崩した佐治ケ江は、がくりとよろめいてしまう。
 ドリブルに入る王子の背中を、追うことが出来なかった。
 彼女は両膝に手をつくと、がくりと肩を落とした。
 マラソンを走り終えたばかりのランナーのように、表情は苦しげで、呼吸も荒い。

 王子の底知れずの体力が、ついに佐治ケ江の技術力を上回り、ボールを奪い取ったのだ。

 佐治ケ江に体力がないのは分かっているのだから、王子がちょっとずるい気もするけど、でもこれも立派な能力と能力の勝負。
 王子は、それに勝利したのだ。

 バテバテなくせになかなかボールを奪われなかった佐治ケ江の技術力は脱帽ものだけど、常識をメチャクチャに破壊してくれる王子も王子で、なんだか、凄いよな。
 名勝負、見させてもらった。

 さて、そろそろ紅白戦も終わりだ。
 そしたら後片付けをして、合宿も終了。

 みんなにとって、有意義な四日間になっただろうか。
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