ブストサル 第二巻

かつたけい

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第三章 一番大切なもの

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     1
「なんか、緊張するなあ」

 嫌ではないし、どんな人たちなんだろうという好奇心の方が強いけど、でも、初めてのことだから、やっぱり緊張する。

「大丈夫大丈夫、たいしたことねえって。脳味噌あんだかないんだか分かんない、なんにも考えてないような連中だからさ」

 そういうたかミットは、反対に、いつになくリラックスしているように見える。
 まあそりゃ、みんな自分の味方なんだから気分も楽だろうさ。
 行きたいといい出したのはわたしの方だから、文句もいえないんだけど。

 狭い道路を、わたしたち二人は肩を並べて歩いている。

 以前はかなり離れていた肩と肩の間は、最近、ちょっと縮まってきた。

 目的地は、高木ミットの自宅だ。

 わたしとミットの家は、とても距離が近い。
 だから、付き合い始めるようになる遥か以前から、わたしたちはやたらちょくちょくと道端で遭遇したりしていた。
 とはいうものの、住所からどこら辺にお互いの家があるのか見当がつくだけで、まだ家に行ったことがないどころか、見たことすらなかった。
 というわけで、初めてのミット宅訪問なのである。

 確か、この辺だと思うんだけど。

「ここだよ」

 ミットが急に足を止めた。

「覚悟がいるんだから、もうちょっと先にいってよね、もう」

 住宅街の中の、ごく普通の二階建て一軒家だ。

「ほら、行くぞ」

 ミットはわたしの手を掴むと、ぐいぐいと引っ張っていく。もう片方の手で、玄関のドアを開けた。

「お、ミットおかえり~」

 廊下の向こうの部屋から、ラガーマンのような大きな男の人が顔を覗かせた。
 体型はまったく違うけど、顔のパーツはかなりミットと共通点がある。
 きっとお兄さんだろう。
 ミットとわたしを見つめながら無表情に「ふーん」などといっていたかと思うと、突然ニヤニヤ笑いだし、

「おーい、みんな!」

 家がガタガタ揺れるほどの、もの凄い大きな声を上げた。
 わたしの住んでいるボロ家だったら、たぶん倒壊してた。

「集合!」

 数秒後、
 その叫び声に負けないくらいの、どどど、という地響きがしたかと思うと、ひょろっとした青年と、最初のラガーマンほとじゃないがごつい体型の男の人が姿をあらわした。

「お、お、ほんとにつれてきたんか、バカミット!」

 ひょろっな青年がいった。
 痩せているけど、結構声は野太い。

「みんな、おれの兄弟」

 ミットは彼らを指さした。
 続いて、わたしに手を向け兄弟たちに顔を向け、

「こいつが、お、おれのかの……かの……おれの、えっとなんだその…」

 わたしのことを紹介する段になって、突然にしどろもどろになるミット。
 まあ、予想はしていた。

「ミット君とお付き合いさせて頂いている、むらです」

 わたしも少し、というか相当に緊張していたのだけど、他人のみっともなくおろおろしている様を見ると逆に腹が据わるようで、意外なほどすらすらと言葉が出てきた。

「話はよく聞いてるよ梨乃ちゃん。こんな奴ミットでいいからくんいらないから」

 ラガーマンのお兄さんがいった。

「え、よく聞いてるって……」
「凄く可愛いくて、しっかりしてて、大好きだって」

 ぎゃああああ、と絶叫して妨害しようとするミット。

「そんなこといってねえ!」
「それじゃ、なんていってんの?」

 わたしはおかしさを心の中に隠しながら、真顔で聞いた。

「ゴリラっ!」

 ごまかすようにでかい声を出すミット。

 それ、わたしの小学生の頃のあだ名だ。
 首ちょっと短いのと、子供の頃は猫背気味だったから。
 こいつには小学生どころかつい最近まで、毎日のようにいわれていたのだけど。

     2
 立ち話もなんなので、とわたしはお兄さんたちによって居間へと案内された。
 六畳しかない居間にみんな集まっているので、もう、ぎゅうぎゅうだ。

 あらためて、ミットに家族を紹介された。

 ミット並みにひょろひょろっとしているのが長男、たかかずさん。

 玄関を開けて最初に会ったラガーマン体型の人が、次男のたかさん。
 ラグビーではなくアメフトをやっているそうだ。
 といっても、わたしにはどっちがラグビーだがアメフトだかよく分からないのだけど。

 孝司さんほどではないが、そこそこ大柄な三男のみつさん。
 大学でクリケットをやっているとのこと。
 なんですかそれ、と聞いてしまったものだから、競技の説明、特徴や魅力を延々と語られて、参った参った。

 で、兄弟の最後が四男のミットというわけだ。
 ミットは漢字で「三人」と書くのだけど、四男なのに三がつくのも変な感じだよな。

 話をしていると、玄関の扉が開く音がした。

「ただいまー」

 若い女の人の声だ。
 それに続いて、

「ただいまー」

 間髪入れず、ちいさな男の子の声。

 ばたばた音がしたかと思うと、この部屋に、四、五歳くらいの男の子が走り飛び込んできた。
 眼鏡をかけた若い女の人が続く。

 和雄さんが二人を指して、

「おれの嫁さんと、ガキ」返す手のひらをわたしに向けて、「梨乃ちゃん」
「ん? あーあー、ミッちゃんの」

 和雄さんの奥さんは、納得したように両手を打ち合わせ、笑顔を作った。
 彼女はとても痩せているけど、よく見るとお腹が少し出ている。赤ちゃん、いるんだな。

 奥さんはともさん、お子さんはしんろう君という名だ。

 ここに集まった人達と、いま出かけているミットのご両親を合わせた八人が、この家で暮らしている全員だ。
 さらに、あと何ヶ月かで、九人になるということか。
 大家族だな。
 兄弟多いとは聞いていたけど、こんなにたくさんで住んでいるなんて思いもしなかったよ。

 ごく平凡なサラリーマン家庭の一軒家のようだけど、部屋割はどうなっているのだろう。

 わたしの家よりは遥かに広いけれど、でもわたしは、お父さんと二人だけだからな。
 こっちのほうが、よっぽど窮屈なはずだ。

 みんな、言葉遣いは乱暴で声も大きくて、怖い感じだけど、でもちょっと話してみると、とても優しくて、とても親しみやすい。

 体育会系で、裏表がなくて、話していて嫌味がまったくなくて気持ちがいい。
 こんな気のおけない良い人たちに囲まれて、なんでミットみたいなひねくれ者が育つんだろうなあ。

 わたしも含めてここにいる全員、話題がまったくかみ合わないというのに、ノリだけで話が尽きず進んで、気付くともうすっかり夜になってしまっていた。

 ご両親も帰って来たものだから、もう、まさにテレビで見るような大家族。

 彼らに囲まれて、思いもよらず楽しい時間を過ごすことが出来た。
 わたしは一人娘だったし、小学生の頃にお母さんが死んでしまって、それからはずっと二人っきりの家族だったから。

 わたしなんかのために時間を割いてくれた皆さんに、感謝しないとな。

 ミットの家をお暇したのは、もう夜の八時半。

 近いけれど、時間が時間だし、とミットに送ってもらった。
 このくらいの時間には、よく一人でジョギングしているから、今日だけ夜道を気にしても仕方ないけど、まあ、これが恋人付き合いというものである。

 以上。今日の出来事。

 特にどうということはないけど、我々にとってささやかながら進展ということで、取り上げてみた。

     3
 長いような短いような春休みも終わりを遂げた。

 わたしも無事に進級し、ついにというべきか高校生活最後の学年を迎えることになった。

 クラス替えが行われ、たまたま一年二年と一緒だったけいと、今回は違う組に。
 その代わりに、なつフサエとらくやまおりが一緒になった。
 これはこれで、賑やかになりそうだ。

 進年度がスタートしたとなれば、当然、新入生が入って来る。
 と、なれば、期待と不安が高まるのが、新入部員のことだ。

 どんな子が入って来るのか。
 ちゃんと指導していくことが出来るのか。
 そもそも、入って来るのか。
 ゼロだったらどうしよう、と。

 でも、それは杞憂に終わった。

 なんと七人から、申し込みがあったのだ。

 今日は、一学期開始から三日目。
 体験入部生が入ってくる日だ。

 最近の全国的なサッカー人気と、うちにサッカー部がないこと、それが七人もの入部希望者が現れた理由じゃないかと思う。
 フットサルはまだまだマイナー、サッカー部があればかなりそっちに取られてしまうだろうからな。

 体験入部期間は二週間だ。残ってくれるように頑張らないと。

 頑張れといっても、なにを頑張ればいいのか想像もつかないけど。

 しごいても仕方ないから、とりあえずは、フットサルの楽しさを理解してもらうようにしようと考えている。

 わたしが入部した時は、新入部員は筋トレだけで全然ボールを蹴らせてもらえなかったけど、体験入部期間くらいは、ゲームをたくさんやって、楽しんでもらえるようにと考えている。

 最悪、もし残ってくれなかったとしても、フットサルは楽しいものと知ってくれればいいや。

 でも楽しませるばかりではなく、同時に厳しい練習もするけどね。
 よりフットサルを楽しむには、体力が必要だし。
 こんな苦しいこともするよと知っておいてくれないと、体験入部の意味ないし。

 と、いうわけで、入部希望の子たちが、体育館の壁際に立っている。

 いま一人来たから、
 ……六、七、と。よし、全員集まった。

 わたしは練習している二年三年に、集合をかけた。

 壁を背にして横並びの新入部員たちと、上級生たちとが向き合った。

「ついにあたしにも、かわいい後輩が出来るんだ~」

 両手を組んで片足後ろに跳ね上げて乙女チックに喜んでいる王子こと山野裕子。
 男子みたいな髪型しているので、なんだか気色悪い。

「初々しい~。キラキラ輝いて見えるよぉ~。……それにひきかえひさ先輩たちったらあ」

 王子のはしゃぎっぷりが止まらない。後輩が入ることがよほど嬉しいのだろう。

「はいはい、あたしらはおばちゃんですよ。初々しくなくてゴメンなさいねぇ、おじちゃ~ん」

 はまむしひさは熟女の代表にされてしまって、憮然とした表情だ。

「なんであたしおじちゃん? でもいいの。今日は気にしない」

 にまにまと気持ち悪い笑みを浮かべている裕子おじちゃん。

 本当に嬉しいんだな。
 影響されて、わたしまで幸せな気分になってしまいそうだよ。
 でも、ちょっとはしゃぎ過ぎだから、叱っとこう。

「王子、うるさいよ! いつまでも大きな声で騒いでんじゃない! これから新入部員に挨拶してもらうんだから」
「はい!」

 びしっと姿勢をただす王子。
 でも顔が、だらしない感じに笑ったままだ。

 なんだかおかしくなって、危うく吹き出してしまうとこだった。
 いかんいかん。こういうのは最初が肝心だからな、気をつけないと。

「フットサル部へようこそ。部長のむらです」

 わたしは横一列になっている一年生の、一番端の子を手のひらで差しながら、

「それじゃ早速だけど、そっちから順番に挨拶して」

 ええと、確か、名前はかじはな、だよな。

「梶尾花香といいます。フットサルをやるの初めてなので、ちょっと不安はありますが、精一杯頑張りたいと思います。よろしくご指導お願いします!」

 彼女は大きな声でそういうと、深く頭を下げた。
 上級生たち、拍手で歓迎だ。

 梶尾花香は、久樹よりは大きいけど、でもちょっと小柄な感じ。
 おさげ髪がとってもかわいらしい。
 元気もあって、明るくていい感じだ。
 中学の時にもずっと運動部だったらしいし、すぐ馴染むだろう。

「次!」

 わたしの声に、隣の子が口を開く。

なしもとさきです。以上」

 ぼそぼそとした、なんだか不機嫌そうな声。

 ふて腐れたようなその表情は、てっきり緊張からと思っていたのだけど、そうではないようだ。

 ちょっと態度に問題ありか。
 まあ、焦らず、指導していけばいいか。

「次!」
いくやまです」

 いくやまさと。微妙に頭を下げただけ、それきり黙ってしまった。

 長髪だけど、おでこ全開で、気の強そうな感じ。
 でも、気の強いのと無礼は違うぞ。

「生山さん、よろしくお願いしますくらいいいなよ」

 さすがにたまりかね、注意する。
 みんながこの流れに乗ってこんな挨拶などしてしまった日には、確実に先輩たちが舐められてしまう。
 入部取り消されても困るけど、無礼者の巣窟になってしまうくらいならそんな部はなくなったほうがいい。

 生山里子はわたしを一瞥すると、面倒くさそうに小さく口を動かし、

「じゃ、よろしくお願いします」

 ぷつっ、とわたしの脳内の血管が切れかかる。

「はぁぁぁぁ、一気に夢から醒めたわあ」

 王子がささやくように、でもみんなに聞こえるようなはっきりした声で、ぶつぶつと文句をいっている。
 生山里子本人の耳にも届いているだろうが、でも彼女はまったく意に介したふうもない。

「ごめんなさい!」

 梶尾花香が、生山里子の頭を両手で掴み、ぐっと下げさせた。

「この子、不器用なだけで、決して悪い子じゃないんです!」

 一同あっけにとられる中、なおもぐいぐいと頭を下げさせようとする梶尾花香。

 わたしはなんだかおかしくなってきてしまった。

「痛い! 髪の毛、痛い! 花香!」
「なら自分から頭下げなさい! はい、これからどうかよろしくお願いいたしますぅ~」

 梶尾花香が人形劇の吹き替えみたいな変な声を出す。

「あたし、そんな声してる?」

 なみだ目で、頭を押さえる生山里子。
 仲がいいんだな。この二人は。

 さて、生山里子の次だ。

づきといいます。フットサル、初めてです。よろしく、お願い、します」

 おどおどとした態度、こもったような小さな声、なんだか、入部したばかりのにそっくりだ。
 まあ、佐治ケ江は現在でもほとんど変わってないけど。

 他、この場に体験入部生は三人いた。
 名前も出さないのは、その三人は結局、すぐ辞めてしまったからだ。

 代わりに、何日か過ぎてから体験でやってきたともはらりんが、この部に決めてくれた。

 体験入部期間も終わって、正式な新入部員が決定した。

 梶尾花香、生山里子、梨本咲、友原鈴、九頭葉月、の五人である。

 全員、フットサルもサッカーも未経験。
 だから、はっきりいって下手くそだ。
 まっすぐにボールを蹴ることすら出来ない。

 誰でも最初はそう。
 数年前、始めたばかりの頃のわたしだってこんなだったのだから。

 ここから、どうわたしたちが伸ばしていくか、どう本人が頑張って伸びていくかだ。

     4
 さらに数週間が過ぎ、五月に入った。

 今日もいつもと同じように、放課後は部活練習だ。

 新入部員たちは、毎日の筋トレや、部での振舞いなどに、少しづつ慣れてきている。

 一年生のトレーニングは、基本は筋トレと持久力トレだけ。
 でも、少しだけ、ボールを使ったトレーニングも用意している。

 わたしたちが新入部員の頃には、四月五月はまったくボールを蹴ることは許されなかった。
 ボール拾い、ボール運びくらいしか、触る機会がなかった。
 その考えも理解は出来るものの、部長権限でちょっぴり規則を緩めた。
 当時のその新入部員の中で、ボールに触れないことに一番憤慨していたのが、このわたしだったから。

 いまはその、ボールを使った練習の真っ最中だ。

「そこは、こうすんだよ、葉月。こう身体を向けて、こう! ああ、里子、それはねえ……」

 と、王子が一年生の周りをまめまめしく動き回り、手取り足取り指導している。
 王子は、ここ最近、ずっとこんな調子だ。

 いち早く上級生であることを自覚するようになったというよりは、単に、以前から上級生になったらこうしようという願望があったのだろう。

「ああ、分かりました」
「分かった?」

 生山里子の言葉に、にんまりと笑みを浮かべる王子。

「はい。先輩もあまり上手くなさそうってことが。それじゃ、山野先輩から抜かしますね」

 里子はさして表情を変えることなく、単に考えを語っただけというふうに、淡々といった。

 にんまり顔のまま硬直する王子。

 何をいわれたのか理解するのに時間がかかっているのだろう。
 王子の脳味噌じゃ無理もない。傍から見ていたわたしも、一瞬、考えてしまったくらいだ。

 花香のいう通りに不器用なだけかも知れないけど、里子は本当に愛想がない。
 わざわざ悪口をいうつもりもないのだろうけど、少なくとも、好かれたい嫌われたくないといった感覚はこれっぽっちも持っていないらしい。

「なあに~~い……」

 みるみるうちに、王子の表情が変化する。
 そして、いきなり沸点に達した。

「抜けるもんなら抜いてみやがれ! 舐めんじゃねえぞ。ぜってえ負けねええ。ヒサキュー先輩、あたしに地獄の特訓をお願いします!」
「特訓はいいけど、すぐ勝負事に持ってくのやめなよ。上級生のくせに」

 毎度の王子の大人気ない態度に、久樹も脱力している様子だ。

「だってだって、あっちから先に! ……もう一年生なんか嫌だあ!」

 などといいながら、結局、翌日からまた一年生を構いまくるくせになあ。
 分け隔てなく、里子にも教えようとするくせに。

     5
「さっぱり分からん……」

 数学の問題集を前に、わたしはテーブルに肘をつき、頭をかかえた。

 ここはたかミットの部屋。
 正確には、兄であるたかさんみつさんと、ミットと、三人共同部屋だ。
 孝司さんたちは出かけているので、いまこの部屋にはわたしとミットの二人きり。

 しかし六畳間に三人だなんて、よく生活出来るよな。
 他の部屋に移動したり、外出したりと、あまりかちあわないで済むようなリズムが自然と身についているんだろうけど。

 十キロも二十キロもある鉄アレイなど、女のわたしが持ち上げようものなら一瞬にして肩を脱臼しそうな、そんな、まさに男のためのトレーニング道具が、ゴロゴロと転がっている。

 そんな男臭の強烈に漂うこの部屋で、いまわたしは、彼氏であるミットに勉強を教えて貰っているのである。

 悔しいことに、わたしより彼の方が遥かに頭がいいのだ。
 いつもとぼけたバカみたいなことばかりいってるくせに。

 以前のわたしは、成績も悪く、留年したくない一心で嫌々頑張っているだけだったが、最近、勉強そのものへの興味が湧いてきている。
 勉強が面白いと思えることも増えてきた。
 機会さえあればミットやけいにお願いして、このように教えてもらっているのだ。

 そのおかげで、最近のわたしの成績は急上昇中だ。
 いままでが悪すぎたというのもあるのだけど。

「ここはさ、ほら、さっきの問題の解法あるべ。あれを当てはめるんだよ」

 ミットは、問題文のすぐ下にシャープペンで線を引いた。

「ん……あ、そうかそうか。ここで、こうして、と。分かった。……解けた。完璧でしょ」
「正解。すぐ隣にいんのに、いちいちノート持ち上げて突きつけて見せてこなくていいって」
「嬉しいんだから、いいじゃんか。よし、十問解いたぞー。それじゃあ一休みだ~」

 わたしは、ばたんと後ろに倒れ、寝たまま大きく伸びをする。

 野球のグローブが転がっており、それに手が触れた。すぐ横に野球のボールもある。
 なんとなくグローブを取り、自分の手にはめてみる。当たり前だけど、ぶかぶかだ。
 ボールも手にしてみる。

「なんだこれ、硬っ! これ、本当に野球のボール?」

 わたしは小学生の頃によく利根川の河原で野球をやっていたけど、ボールはもっと柔らかかったはずだ。

「硬球なんだから硬いの当たり前だ」
「うえー、こんなんで野球なんて出来るのか~? 凶器だよ、これは」

 軽く頭にぶつけてみると、コツンと想像通りの音がした。
 とても軽いのに、凄まじく硬い。

「死ぬ。受け損なったら絶対死ぬ」
「至近距離で投げ合うわけじゃねえから大丈夫だよ。その点ではフットサルの方が怖いぞ。下手したら首やっちまう」
「しょっちゅうバチンってなるからね、確かに。……ねえ、フットサルは続けないの?」
「毎日やってんじゃん」

 といっても最近は、単に部活に出てるだけみたいになっているし。

「卒業したらだよ。大学行ったら」
「分かんね」

 ミットはここ最近、フットサル熱が冷めてきたように思える。
 付き合って距離が近づいたためにそれほど夢中でもなかったことが判明した、というわけではない。そうではなく、間違いなく傍から見ていて冷めてきているように見える。

 そろそろ受験勉強に真剣に取り組まないと、という思いも当然あるのだろうけど、それだけではないようだ。
 最近、時間さえあればよくグローブはめて野球ボールを投げているし。

 ミットという変わった名前だけど、お父さんの野球好きがこうじて付けられたものらしい。

 お父さんは野球選手にさせたくて、野球道具を買い揃え、少年チームに入団させようとした。
 そうした強制への反発からサッカーをはじめたんだと聞いたことがある。

 最近しょっちゅうボール投げで遊んでいることから、親からの強制が嫌だったというだけで、野球は野球で好きなんだろうか。

 久樹は、彼はわたしと接点持ちたくて同じ学校に入り、男女違うとはいえ同じ部活に入ったんじゃないか、なんていっている。
 さすがに本人に聞いたことはないけど、でも、もしもそうならば、もうフットサルに興味をなくしていてもおかしくはないのか。目的は果たしたわけだからな。
 ミットの性格を考えれば、計算づくというより自覚のない無意識下でのことだろうけど。

 でも、これまで頑張ってきたサッカーやフットサルを簡単にやめられるなんて、わたしにはまったく理解出来ないなあ。

 わたしがフットサルを始めたのは中学三年の途中からだから、自分はまだそれほどの競技経験はない。
 でも、出会ってこんなに衝撃を受けた、こんな相性のいいスポーツはない。
 辞めようと思っても簡単に辞められるものじゃない。

 でも、三年間やっていた陸上競技は簡単に辞めてしまったし、人それぞれか。

「別にお前はフットサル続けていいんだからな。つうか、やめんなよ」
「やめないよ。……あれ、あたしいまなにかいった?」
「いってたろ。やめるなんて理解出来ん、とかぶつぶつと」

 いけない。わたしの癖で、また思ってることが気付かないうちに口から出てしまったようだ。

「やば。あのさ、フットサル部に入部したくだりは喋ってなかった?」
「なにそれ?」

 よかった。ミットが恥ずかしい思いしちゃうからな。

 しかし、いまのミットの台詞、フットサル熱が冷めてきているのは間違いないようだな。
 やっぱり一抹の寂しさは拭えないな。いつかミックスでチーム作って一緒に出来たら面白いかな、など色々と想像していたのに。

 まあ人には人の事情や考えがあるわけで、強制も出来ないけどね。

 ふと、去年半年ほどフットサル部にいたたけふじことのことを思い出した。

 自分には向いていない、とフットサル部を退部し、英会話部に移ったのだ。

 そして彼女はその後、英会話のスピーチコンテストに出て、関東大会で優勝したらしい。

 人には人の道があるということだ。

     6
「おかえりなさい、さん」

 朝のジョギングから帰って来たわたしに、ヒデさんが声をかけてきた。

「ただいま」

 今日は快晴、空は澄み渡るほどに青い。
 しかし、家に入るとどんよりと暗く、空気はじとっとしている。

 二階のわたしの部屋以外、ほとんど陽が差し込まないためだ。
 生まれた時からここに住んでいるから、もうすっかり慣れっこだけど。

 居間に、二十インチの古いブラウン管テレビが置かれており、画面には「サンデーあおぞらスタジオ」の放送が映っている。
 無名ではないけど安く使えそうな芸人コンビが司会を務めている、なんの変哲もない朝の情報バラエティー番組だ。

 この番組と同様に、今日はなんの変哲もない普段通りの日曜日。

 ……に、なるはずだったのだが、おばさんのおかげで、人生の大事な転機になるような、重要な日になってしまった。
 
 今日はおばさんが、お父さんのお見合い相手をここに連れてくる日なのだ。

 一週間後と聞いていたのだが、それはおばさんがこちらにだけ伝え間違っていただけだった。昨夜、おばさんがそれに気付いて慌てて連絡してきたのである。

 お父さんは、相手の女性とは外で一度会っている。
 そこでお互いに、気が合わなくもないかなと、ならば少しお付き合いしましょうかねと、そんな運びになったのだそうだ。

「仕込み全部終わりました。とりあえず、冷やしてあります」

 お店の唯一の従業員であるヒデさんが、廊下から顔を覗かせた。
 重労働ながらもヒデさん一人で全部こなせるが、普段は分担している作業のため、念のために報告に来たのだ。

「おう、分かった。ヒデ、ちょっと上がってやすみなよ。全部やらしちまって、すまねえな」
「大丈夫ですよ。今日は大事な日なんですから、おやっさんはそっちに集中してください。じゃ、向こう戻ります」

 ヒデさんは、大柄な体格に似合わぬ静かな足音でお店へ戻って行った。

「この部屋に上がってもらうんでしょ。あたし、掃除機かけとくよ」
「おれがやるよ。子供は勉強でもしてなさい」
「なにいってんだか」

 一見普段通りのお父さんだけど、なんか細かいところが妙な感じ。変なとこ敬語だったり。きっと、緊張して、落ち着かないんだろうな。

 それから二時間ほど経ち、ついに、

「こんにちは~」

 お店の側から、おばさんの声が聞こえてきた。

「あ、どうも、こんにちは。おやっさ~ん、来ましたよ」

 続いてヒデさんの叫び声。

 お父さんが応じ、

「お、おう、上がって、もらって、くれって、ください」

 カチカチだよ、この人。

 廊下の雑巾掛けをしていたわたしは、バケツをお風呂場のほうへと持っていった。
 戻ってきて、お店の側に顔を出すと、そこにはお父さん、ヒデさん、それにおばさんと、はじめて見る女の人。

 髪の長い、この女の人が、お父さんのお見合い相手のようだ。

 おおきぬさんという名前だ。

 凄い美人、というわけではないが、整った、そしてなにより愛嬌のある顔立ちだ。
 年齢は聞かされていないけど、見た目は、三十くらいに思える。見た目通りだとすると、お父さんと十二、三も離れているのか。

 すらっとしているように見えるけど、よく見ると、がっちり骨太かな。
 わたしと似た体型かも。

「汚い家だけど、上がってちょうだい」

 と、おばさんが指図する。
 普通、他人の家にそうはいわないと思うが、ここはおばさんが幼少の頃に暮らした家でもあるのだ。

「それじゃあ……お邪魔します」

 大野絹江さんは、軽く頭を下げた。

「ど、どうぞどうぞ。狭くて汚いとこっすけど」

 お父さんの落ち着きのなさにターボエンジンがかかったようだ。

 彼女とわたしの目があった。

「あ、お、お嬢さん、ですよね。えっと、はじめまして。大野絹江といいます」

 お父さんの影響を受けたわけではないと思うけど、つっかえつっかえの彼女。

「あ、はは、はい、はじめまして。娘の、りり、梨乃といいます」

 わたしまで、つられてしまった。

「おい。なんでお前が緊張してんだよ」

 お父さんに、脇腹思い切り小突かれた。
 痛いな。自分の緊張を解くために、他人を殴るなよな。

「みんなもいってますけど、この通りの家なので、どうか、自由にくつろいでください」

 と、ここまでいえば上等だろう。
 娘としての義務は果たした。後は当人同士でうまくやるのじゃ。
 と、去りかけたところ、

「あ、は、はい、気を、つかっていた、いただいて、あ、ありがと、ございます」

 絹江さん、まだ緊張している。
 つっかえ具合がより激しくなってるよ。

 ヒデさんも、自分が余計なことをいってしまわないようにか、口をぎゅっと閉じてコチコチに固まっている。

 おばさん以外の全員が緊張してしまっていて、なんだか張り詰めたような雰囲気になってしまっている。

 それをなんとかしようと、お父さんがなにかうまいこといおうとするのだけど、もともとが口下手だし、どもってしまってさらにつっかえつっかえ。

 このなんともいえない空気が、どうにもおかしくなってしまって、耐え切れず、わたしは吹き出してしまった。

 それを受けてかどうかは分からないけど、ほとんど同時に絹江さんも笑い出していた。

 単純、というべきか、わたしたち二人はそれだけで一瞬にして打ち解けてしまったのである。

 いつまでも立ち話していてもしょうがない、とおばさんに促され、居間へと移動した。

 絹江さんは三十歳くらいに見えるが、三十六とのこと。
 お父さんと釣り合う年齢だ。
 離婚歴があり、子供はいないそうだ。

 わたしと絹江さんは、すっかり緊張が解けて普通に会話出来るようになっているというのに、お父さんはまだまだ硬いまま。
 そして、緊張しているが故に、喋り出すと止まらない。

「こいつ、四歳までおむつとれなかったんですよ
「ちょっと前まで、生意気に反抗期でねえ
「小学生の頃は、いじめっ子で、男の子を殴って泣かしてばかりいてね
「いたずら電話で救急車呼んじゃいましてね。嘘ともいえずに、頭が痛いって病院に運ばれちゃったことあるんですよ」

 などなど。

「なんであたしのことばっかりいうんだよ!」

 しかも、いわれたくないことばっかり。

 自分のことは話しにくいだろうから、わたしのことばかりになるのも仕方ないのか。
 でも、くっつくのは、あんたら二人なんだぞ。分かってんのか?

 まあいいや。

 あとは二人だけの時間にしてあげようと思い、わたしはおばさんと二階へと上がった。

 二人、うまくいくといいな。

     7
「行ってきまーす」

 と、家を出て数歩もしないうちに、思わず大きなあくびが出た。

 昨日、お父さんのお見合い相手であるおおきぬさんという女性が、お昼頃に遊びに来て、夕方に帰った。
 学校の課題と受験勉強のノルマをまったくやっていないことを思い出したわたしは、それから勉強開始。途中ジョギングして、それからまた勉強、お風呂、勉強と、普段以上に寝るのが遅くなってしまったのだ。

 うちを出て、狭い道路を二、三分歩くと、佐原駅と学校とを結ぶ県道に出る。
 坂道だ。
 上りきったところに、平坦な土地が広がっており、そこにわたしの通う佐原南高校がある。

 わたしはひたすら、鬱蒼と木々に覆われている坂道を上っていく。

 この道は通学路なのだが、しかし、今年になってから、ここを歩く生徒は激減した。
 通学時間帯の、バス大増便があったためだ。

 以前は、山道を三十分以上かけて登山した方がまし、と思うほどにバスの本数が少なかったのだ。
 少ないから凄まじく混雑するという悪循環だったし。

 まあ、家から学校まで徒歩十五分のわたしには、関係のない話だけど。

 最寄駅であるJR佐原駅は電車の本数が異常に少なく、一時間に一本か二本しかない。
 電車通学は不便過ぎて大変だし、徒歩圏内に高校があるし、と、そういうわけでわたしは現在通っている佐原南高校を受験したのだ。
 ただし当時のわたしには、授業レベルが高すぎて、入学してからが苦難の連続だったけど。

 彼氏のたかミットに勉強教えてもらうなどして、最近ようやく授業についていけるようになったけど。

 その高木ミットと一緒に登校することが、当然というべきか最近は多いのだけど、でも今日はわたし一人だ。

 ミットがフットサル部の早朝練習に参加しているためだ。
 フットサル熱が冷めたとはいえ、部活は最後までちゃんとやるそうだ。

 あとちょっとで引退だからな。
 男子だけじゃない、わたしたちだって引退だ。

 フットサル部、わたしたちがいなくなった後、どうなっていくんだろう。

 たまに、引退した先輩が練習の様子を見に来ることがあって、鬱陶しいなと思っていたけど、いまはその気持ち分かる。
 自分たちが育ててきた部が、順調に育っているか、変な方向に進んでいないか、気になるのは当然だろう。

 次期部長、誰にお願いしようかな。

 技術力ならの右に出る者はいないけど、チームをまとめる能力は別だからな。
 あの引っ込み思案な性格では、押し付けても、苦痛なだけだろう。

 しの……性格が軽すぎる。
 でも、とりあえず、候補といえば候補かな。
 お喋りだけど、自覚さえ持ってくれれば、良い方向に行くかも。
 肝心の、フットサルの技術がさほどないのが痛いところだけど。

 真砂まさごしげ、あまりに無口。部長になっても、多分一言も喋らない。論外。

 たけあきら……受けてくれなさそう。いや、どうだろう。とりあえず、候補。

 残るはきぬがさはると、

 やまゆうか……

 みんな一長一短、いや二長二短といった感じで、悩むなあ。

 でもこの中の誰かには、部長になってもらわないとならないし。

「梨乃、おはよ」

 後ろから、慣れ知った声。
 振り向くと、浜虫久樹が小走りに近づいて来た。

 わたしと肩を並べた。
 並べたといっても、高さは十センチ以上も差があるけど。

「おはよう、久樹」
「彼氏君は?」
「朝練」

 久樹は電車通学。
 だから駅からバスを使ってもおかしくないのだが、しかしバス増便前も増便後も変わらずに自分の足で駅から学校まで歩いている。
 坂道を延々登るので、体力づくりになるからだ。
 それと、バス定期券を買っているふりをして、自分のお財布に入れてしまっているらしい。
 まあ、そういうことでもしないと、あとはバイトでもしなければやっていけないからな。わたしのような無趣味人間ならともかく。

「久樹、あのさあ、次の部長のことを考えてたんだけど、誰が適任だろう」

 わたしは尋ねた。
 久樹はちょっとだけ悩んで、

「消去法から、亜由美か春奈かなあ。ダークホース的に、王子」
「やっぱりそうなるか。でも……」
「亜由美は軽いし、春奈は去年の途中からの入部だから、ぽっと出で部の長になっていいのかって、なんか引っかかるものがあるんだろ」
「そうそう。まさにその通りなんだよ。かといって、王子というのも……」
「まあね。でも、分からないよ。亜由美は、茂美に補佐させれば良い部長になるかも知れない。春奈も、もうすっかりとけ込んでいるし、あの影での努力は誰も認めるところだから、部長になっても異存のある人はいないんじゃないかな。とにかくさ、まだ早いよ。五月だし。後輩への接し方やらなにやら色々と、もっとよく見てからでもいいんじゃないかな」
「そうだね。久樹のいう通り、気長に考えるか」

 時が、勝手にどんどんと候補を絞り込んでくれるだろう。

 確かに、亜由美だって、春奈だって、とてもいい部長になるかも知れないし。

 そもそも、わたしがそんなに良い部長か?
 他人にだけ都合の良いことを期待してもしょうがないよな。わたしだって、みんなに協力してもらいながら、なんとかやってきただけだし。

 森林のようなところを抜け、一気に視界が開けた。
 前方に、学校の校舎が見えて来た。

 築何十年も経つ、古い校舎。
 その姿が、少しずつ、大きくなってくる。

 この辺りまで来ると急坂はもうなく、うねうねと、緩やかな道が続く。

 子供の頃、ここらでよく遊んでいたのだけど、まさかこの学校に自分が入ることになるとは思ってもいなかったな。
 天才秀才の通う高校だと思っていたし。
 実際、昔は本当にそうだったらしい。
 まあ現在だって、そこまでじゃないにせよ、そこそこレベルの高い学校ではあるのだけど。

 緩やかなうねうね坂も終わり、もう学校は目と鼻の先、校門まであとほんの少し、というところで、背後にバスのエンジン音。
 市営バスが停留所「わらみなみ高校前」に到着したのだ。

 なんとなく振り返ってみると、

「あ、王子だ」

 ちょうど山野裕子が、バスから降りて来るところだった。

「ほんとだ。今日は珍しく余裕持って来たな。大地震でもおこるんじゃないの」

 感心してるのか小ばかにしているのか、よく分からない久樹。

 バスがどんなに増便しようとも、電車は相変わらず一時間に一、二本しかない。
 だからつまるところ、電車通学の者が遅刻するかしないかは、電車にちゃんと乗れるかどうかにかかっている。

 今日は余裕を持って登校、と久樹はいったが、一本遅い電車に乗ろうものならたちまち遅刻の危機だから、これが普通なんだけどね。

 でもその普通の電車に乗るというのが王子にとってはとても大変なことなのか、とっても眠たそうだ。
 普段から、朝は妙に眠そうにしているけど、今日は特に酷い。
 夢を見ながら歩いてるんじゃないだろうか。

 黙って見てても仕方ない。わたしが呼びかけて挨拶をしようと手を上げた、まさにその時である。
 王子は自分の足元を見て、はっ、と目を見開き、傍目で分かるくらいの驚いた表情を浮かべた。

 完全に眠気は吹っ飛んだようで、きょろきょろと首や視線を動かして、周囲の様子を確認している。

 なんなんだ、一体。
 どうしたんだ、王子。

 久樹が、ぷっと吹き出した。

 わたしもすぐに、その理由が分かった。
 王子のはいている靴が、右と左で違うのだ。

 片方は通学用の黒い革靴で、もう片方が白いスニーカーだ。

 わたしも、吹き出してしまった。

「朝ぎりぎりで、慌ててるからだ!」
「家から駅まで、どうせ走ったんだろ。だったら、気付かないわけないよな普通」

 わたしと久樹は笑いをこらえるのに必死で、痛そうにお腹を押さえた。

 裕子はバッグとカバンを地面に引きずるような高さに持って、足元を隠すようにずりずりと、ゆっくり歩きはじめた。

 もうこらえきれない。わたしと久樹は、腹を抱えて大爆笑だ。当人には悪いけれど、笑いを抑えきれるはずがない。

 王子がずりずり歩きで、こっちへと歩いてくる。

 わたしたちは慌てて、人混みに紛れて王子の視界に入らないように隠れた。
 見ていたことを知られたら、さすがに気の毒だからな。

     8
 どんよりとしたぶ厚い曇が、空を完全に覆っている。
 昨夜までは、今日は快晴という予報だったのに、大外れもいいところだ。

 でも、そんな暗い空模様など吹き飛ばせとばかりに、ここは若者たちで賑わっている。

 千葉市内の海近くにある、雑誌でよく取り上げられる有名なデートスポットだ。

 そんな小洒落たところに、いまわたしは、高木ミットと二人で遊びに来ている。
 身分不相応というならいえ。

「ほんと、カップルばかりだよなあ。うじゃうじゃいるぜ」

 もうここに来てから何時間も経つというのに、ミットはまだそんなことをいっている。

 彼のいう通り、周囲どこを見てもカップルばっかり。
 そして、新参者ながら、わたしたちもそのカップルの一つなのだ。こういう場所に来てみて、あらためてそう強く実感した。

 がやがやと賑わいの中、わたしとミットは、手をぎゅっと繋いで歩いている。

 二人とも、最近ようやく恋人関係というものに慣れてきて、ギクシャクとした感じが取れてきた。

 この通り、手だって躊躇せず繋げるようになってきたしね。
 とはいえ、まだまだ知ってる人が誰もいない時限定だけど。

 織絵のように、ああまで大胆にはなれないよ。

 ……この前、路上キスしてるところ見ちゃったからね。他人事だというのにドキドキしちゃって、あの日は夜ろくに眠れなかった。

 今日は、別になにか目的があって来たわけではない。
 ショッピングをしようにも、二人とも小遣い少ないバイトもしてない高校生、そんなお金ない。来たお土産に、なにかちょこっとしたもの程度は買うつもりだけど。

 あてもなく、お洒落な街並みを散策したり、デパートの中を歩いているだけである。

 それだけでも充分に楽しい。
 心地よい。

 この心地のよさというのは、なんだろう、付き合いはじめて日も浅いからこそのものなのか、それともわたしとミットって意外にも相性がいいのだろうか。
 分からないけど、でも、こういう気分を味わえて、ミットとこうした関係になれてよかったんだな。
 このドキドキする感覚、ワクワクする感覚、願わくば一生続いて欲しいなと思うけど、誰しも、そのうちに慣れてしまうものなのかな。
 なら、現在のこの新鮮で純情な気持ち、大切な思い出にしなきゃな。
 写真や日記にとっておくなんて、絶対に出来ないものだから。

 ミットは、ジーンズにシャツといった簡素な恰好。でも、スタイルいいから堂々と歩いているととてもお洒落に見える。

 わたしも、よく分からないけど服にスカートに、帽子までかぶって相当のおしゃれをしてる。

 よく分からないというのは、わたしは服のことは全然分からず、全て、はると東京に遊びに行った際に、選んでもらったものだから。

 わたしにはお洒落のセンスがまったくないから、どう映るのか全然分からない。
 でも、春奈のセンスは絶対的に信頼している。
 きっと、わたしが一番よく見える服を選んでくれているはず。

 この場所には正午頃に到着したのだけど、お昼食べて、散策して、たこ焼き食べて、ソフトクリーム食べて、路上パフォーマンスなど見ていたら、あっという間に夕暮れになってしまった。

 ぽつり、ぽつりと、灯りがつきはじめる。

 景色を広く見渡せるような場所を見つけて、近くにあるベンチに座った。

 空の色は、どんどんその暗さを増していく。
 時間がたつにつれ、暗がりの中に、イルミネーションの灯りが幻想的に浮き上がっていく。

「きれいだね」

 わたしはそういった。
 気のきいた台詞でもなんでもないが、こんなところで無理に頑張って独創性のある言葉を吐く必要もないだろう。

「そうだな」

 ミットも、なんということのない言葉を返してくる。

 そして、しばらく沈黙が続く。

 ほんの数ヶ月前までバカだアホだと汚い言葉で罵りあってばかりいた二人である。
 こんなお洒落な場所に来ても、恋人同士のかわすような会話が自然には出来ず、変になにか喋ろうとしても、ぶつ切りで、全然繋がらない。

 でも、それはそれでいいんじゃないか。
 そう思うようになっていた。

 飾らなくても、黙っていても、それが少しも気まずくない。そんな関係って、素敵だなと思うから。

 とはいうものの、わたしはまだまだだ。黙っていることが、どうにも気まずい。

 わざわざ、ぺらぺらと喋れる技術を身につけようとは思わないけど。

 まあ、そんなことは、きっと時が全部解決してくれるだろう。

 イルミネーションを見ながら、いくつか、たどたどしい会話をした。

 たどたどしいながらも、小学校中学校の思い出話は結構盛り上がった。
 そういう方面での共通の話題なら、尽きることないくらいにたくさんあるからだ。

 いつしか、完全に夜になっていた。

「そろそろ、帰るか」

 ミットは立ち上がった。

 その言葉に、時計台の時計を見ると、もう七時半。
 これから帰ると、夜十時近くになってしまうな。

 そんなにとてつもなく遅い時間とも思わないけど、お父さんが心配してしまう。
 ミットと付き合っていることはまだ話していないので、きっと、女の子だけで遊びに行っていると思っているだろうから。

「そうだね。帰ろうか」

 わたしも立ち上がる。
 ずっとおんなじ姿勢で座っていたから、お尻が痛いや。

 向き合う、わたしとミット。

 わたしは、びっくりして、心の中で短い悲鳴を上げた。ふん、と変な呼気がもれたかも知れない。
 何故びっくりしたかというと、ミットに、そっと抱きしめられたのだ。

「梨乃」

 ミットの顔が、すぐ、そばにあった。

「名前で呼ぶなんて、珍しいね」
「じゃあ、ゴリ」
「バーカ」

 ミットの鼻を、人差し指でつついた。
 平静を装っているけれど、わたし、すごく、ドキドキしている。
 きっといま、幸せなんだろうな、わたし。
 感覚が麻痺してしまって、そう他人事のように考えていた。

「好きだよ」

 いってしまえば世界が変わる。
 そう思いながらも、どうにも恥ずかしくて口に出せなかった言葉。でも、なんでかな、わたしいま、無意識に、ミットの耳元でそうささやいていた。

「おれも」

 ミットは、わたしの体を抱く腕に力を込めた。

 イルミネーションがきらきら光ってて、
 夢の世界にいるみたい。

 ミットの顔が、いったん、ちょっとだけ離れる。
 わたしたちは見つめ合った。

 ミットが近づいて来るのか、わたしが近づいているのか、頭がぽーっとして、そんなことすらも分からない状態になっていた。

 息遣い。どっちのだ?
 いいや、どっちでも。

 わたしは、軽く目を閉じた。
 そして、

 世界、変わった。
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