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第七話 ある男の失恋
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「別れよう、ロコ」
男が同居人に告げたのは、子爵家の人間が訪ねて来てから半月後のことだった。
彼らは男の恋人ロコが昔付き合っていたピラールの家族で、ピラールの死を告げに来た。
同時にロコがピラールの子どもを身籠っていないかも確認していった。
「……どうして? この間子爵家の人達が来たから? アンタのお仕事先に迷惑かけちゃった?」
「いや」
震える声で尋ねてくるロコに、男は首を横に振って答える。
男は船乗りだ。かつて勤めていた商会は雇い人の扱いが酷く、天候が悪くても船員が足りなくても、わずかな利益のために出港を強行するようなところだった。
あのままだったら、男はいつか嵐の海で帰らぬ人となっていただろう。
しかし、その商会は数ヶ月前に帝国のアロンソ商会に買収された。
男もそのままアロンソ商会に雇い入れてもらえた。
今は余裕がある上に十分な給与をもらえるようになっている。
アロンソ商会は雇い人の生活には気を配ってくれるが、私的なことにまでは口出ししない理想的な雇い主だ。
子爵家の人間との邂逅にもなにも言われていない。
向こうも気を遣って仕事中ではなく休みの日に来てくれた。
ロコは大きな瞳いっぱいに涙を溜めて男を見つめる。
演技ではない。
彼女は自分の魅力をわかっているけれど、自分の気持ちを曲げてまでは相手に媚びない。そこが魅力だし、逆に欠点でもあった。
「アンタもアタシが、ピラールに似た子を産むためにアンタに近づいたと考えたの? アタシが子爵家を乗っ取ろうとしてたって思った?」
「いいや、ロコはそんなことを考えるような女じゃない。でも……」
心臓を切り裂かれるような想いに苛まれながら、男は言葉を続ける。
「あの夜、ロコが俺を選んだのは前の彼氏に似てたからだろう?」
男がロコと付き合い始めたのは、子爵家の人間が訪ねてくる三ヶ月前。
港近くの酒場で飲んでいたら、看板娘のロコが泣いていた。
話しかけたのは男ではなかった。女扱いの上手い色男だ。どうしたんだい、と聞く色男に彼女は答えた。
『隣町で働いてたアタシの彼氏、病で死んじゃったの。一緒に住んでた家も出てきて、アタシ行くところがないのよ』
明るく陽気で華やかなロコは人気者だった。
その場にいた船乗りはみんな諸手を上げて彼女を招いた。
だけど、ロコは男を選んだ。女扱いの上手い金髪の色男でも、逞しい赤毛の船長でもなく、船乗り達の後ろでひとり酒を飲んでいた黒い髪に暗い色の青い瞳の男を選んだのだ。
正直悪い気はしなかった。
男も前からロコに好意を持っていた。
積極的に声をかける性格でなかったのと、ロコに彼氏がいるという話を聞いていたので看板娘と常連客以上の関係を望んだことはなかったが、ロコの彼氏がいなくなって自分を選んでくれたのなら拒む理由はない。
そんな風に始まった同居の日々で、男はずっと違和感を押し殺してきた。
彼氏が亡くなったからといって、すぐに忘れられるわけがない。
ロコが自分に彼氏の姿を重ねるのは仕方がないことだと、男は必死に気づかない振りを続けてきた。夜に抱き合って自分ではない名前を呼ばれたときも、ずっと。
「それでも良いと思ってた。いつかロコは俺自身を見てくれると。でもあの人達が来て、無理だと思った。ロコは前の彼氏を忘れられない。なにがあっても、どんなに時間が過ぎても、ロコの一番は前の彼氏なんだ。……違うか?」
ロコは俯いた。
彼女は自分の気持ちを曲げてまでは相手に媚びない。
それが魅力で欠点で、男が好きで嫌いなところだった。こんなときくらい嘘を演じてくれても良いのに、と思いながら男は言う。
「ここの家賃は再来月分まで支払ってるから、それ以降も住むつもりだったら自分で大家さんに交渉してくれ」
「アンタは?」
「アロンソ商会が用意してくれる宿舎に移ろうと思う」
宿舎は独身用と家族用があった。
ロコと家族用に住もうと考えたとき、男は疑問を感じたのだ。
……俺はいつまで前の彼氏の身代わりなんだろう、と。
「図々しいけど言葉に甘える。……ありがとう、元気でね」
「ロコもな」
別れを告げたのは男だったが、失恋したのは男のほうだ。
ロコはこれからも前の彼氏を想って生きていく。
それが彼女にとって真実の愛であり運命の恋であったから。
男はその後アロンソ商会で真面目に働き、明るく陽気で華やかだったりはしないけれど、男自身を見てくれる女性と結婚した。
自分によく似た息子にも恵まれ、男は幸せに暮らした。
もちろん男の妻も息子も幸せだった。男はふたりに、ここにいないだれかを重ねたりはしなかったから。
男が同居人に告げたのは、子爵家の人間が訪ねて来てから半月後のことだった。
彼らは男の恋人ロコが昔付き合っていたピラールの家族で、ピラールの死を告げに来た。
同時にロコがピラールの子どもを身籠っていないかも確認していった。
「……どうして? この間子爵家の人達が来たから? アンタのお仕事先に迷惑かけちゃった?」
「いや」
震える声で尋ねてくるロコに、男は首を横に振って答える。
男は船乗りだ。かつて勤めていた商会は雇い人の扱いが酷く、天候が悪くても船員が足りなくても、わずかな利益のために出港を強行するようなところだった。
あのままだったら、男はいつか嵐の海で帰らぬ人となっていただろう。
しかし、その商会は数ヶ月前に帝国のアロンソ商会に買収された。
男もそのままアロンソ商会に雇い入れてもらえた。
今は余裕がある上に十分な給与をもらえるようになっている。
アロンソ商会は雇い人の生活には気を配ってくれるが、私的なことにまでは口出ししない理想的な雇い主だ。
子爵家の人間との邂逅にもなにも言われていない。
向こうも気を遣って仕事中ではなく休みの日に来てくれた。
ロコは大きな瞳いっぱいに涙を溜めて男を見つめる。
演技ではない。
彼女は自分の魅力をわかっているけれど、自分の気持ちを曲げてまでは相手に媚びない。そこが魅力だし、逆に欠点でもあった。
「アンタもアタシが、ピラールに似た子を産むためにアンタに近づいたと考えたの? アタシが子爵家を乗っ取ろうとしてたって思った?」
「いいや、ロコはそんなことを考えるような女じゃない。でも……」
心臓を切り裂かれるような想いに苛まれながら、男は言葉を続ける。
「あの夜、ロコが俺を選んだのは前の彼氏に似てたからだろう?」
男がロコと付き合い始めたのは、子爵家の人間が訪ねてくる三ヶ月前。
港近くの酒場で飲んでいたら、看板娘のロコが泣いていた。
話しかけたのは男ではなかった。女扱いの上手い色男だ。どうしたんだい、と聞く色男に彼女は答えた。
『隣町で働いてたアタシの彼氏、病で死んじゃったの。一緒に住んでた家も出てきて、アタシ行くところがないのよ』
明るく陽気で華やかなロコは人気者だった。
その場にいた船乗りはみんな諸手を上げて彼女を招いた。
だけど、ロコは男を選んだ。女扱いの上手い金髪の色男でも、逞しい赤毛の船長でもなく、船乗り達の後ろでひとり酒を飲んでいた黒い髪に暗い色の青い瞳の男を選んだのだ。
正直悪い気はしなかった。
男も前からロコに好意を持っていた。
積極的に声をかける性格でなかったのと、ロコに彼氏がいるという話を聞いていたので看板娘と常連客以上の関係を望んだことはなかったが、ロコの彼氏がいなくなって自分を選んでくれたのなら拒む理由はない。
そんな風に始まった同居の日々で、男はずっと違和感を押し殺してきた。
彼氏が亡くなったからといって、すぐに忘れられるわけがない。
ロコが自分に彼氏の姿を重ねるのは仕方がないことだと、男は必死に気づかない振りを続けてきた。夜に抱き合って自分ではない名前を呼ばれたときも、ずっと。
「それでも良いと思ってた。いつかロコは俺自身を見てくれると。でもあの人達が来て、無理だと思った。ロコは前の彼氏を忘れられない。なにがあっても、どんなに時間が過ぎても、ロコの一番は前の彼氏なんだ。……違うか?」
ロコは俯いた。
彼女は自分の気持ちを曲げてまでは相手に媚びない。
それが魅力で欠点で、男が好きで嫌いなところだった。こんなときくらい嘘を演じてくれても良いのに、と思いながら男は言う。
「ここの家賃は再来月分まで支払ってるから、それ以降も住むつもりだったら自分で大家さんに交渉してくれ」
「アンタは?」
「アロンソ商会が用意してくれる宿舎に移ろうと思う」
宿舎は独身用と家族用があった。
ロコと家族用に住もうと考えたとき、男は疑問を感じたのだ。
……俺はいつまで前の彼氏の身代わりなんだろう、と。
「図々しいけど言葉に甘える。……ありがとう、元気でね」
「ロコもな」
別れを告げたのは男だったが、失恋したのは男のほうだ。
ロコはこれからも前の彼氏を想って生きていく。
それが彼女にとって真実の愛であり運命の恋であったから。
男はその後アロンソ商会で真面目に働き、明るく陽気で華やかだったりはしないけれど、男自身を見てくれる女性と結婚した。
自分によく似た息子にも恵まれ、男は幸せに暮らした。
もちろん男の妻も息子も幸せだった。男はふたりに、ここにいないだれかを重ねたりはしなかったから。
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