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最終話 そして、この道を
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「サラとフアンは乳母のところで寝ていますし、俺達もそろそろ休みませんか?」
「はい」
私は刺しゅうをしていた手を止めて、夫のホセの言葉に頷きました。
刺しゅうしていたのはハンカチで、雛菊と紫色の猫の意匠です。
最近はこの意匠が好きなのです。雛菊は前と同じですが、前の意匠よりも大きく自信に満ちた花になっているような気がします。
今、私達はアロンソ商会が所有する船に乗っています。
貨物船ではなく客船です。
娘のサラと息子のフアンを連れて王国へ向かっているのです。
王国で待つのは兄夫婦と私の三人の甥っ子達、そしてピラール様のご両親です。
ピラール様亡き後、ご両親はロコさんが身籠っていないかを確認してから、遠縁の方を養子に取りました。
将来はその方に子爵家を譲るのだとお聞きしています。
ロコさんはピラール様の子どもを身籠っていなかったのだそうです。
どうしてでしょうか。
私の中の十年間の記憶が幻だったのかもしれませんし、ほかにも理由があるのかもしれません。
ピラール様がお亡くなりになったと聞いたとき、やはり看病だけはしたほうが良かったのではないかと悩む私にホセは言いました。
十年間の記憶があっても、まったく同じようには出来ないし、人生は小さなきっかけで変わるものなのだと。
ロコさんの子どももそうだったのかもしれません。
夫の言葉とお腹に芽生えていた愛しいサラの存在が、ピラール様への過剰な罪悪感を取り払ってくれました。
私にくださったピラール様の最後のお手紙が、とても優しくて思いやりの籠った文章だったこともあります。
あの方はあの方でご自身の人生を精いっぱいに生き抜かれたのです。
「……帝国にはお婆様がいないからと、サラは子爵夫人にお会いするのをとても楽しみにしているようですよ」
「会うことを許してくださってありがとうございます」
サラとフアンがピラール様のご両親とお会いするのは、今回が初めてです。
不幸な結末を迎えてしまいましたが、あのおふたりは私にとって、八年間愛し慈しんでくださった大切な義父母なのです。
「あの方々が悪いわけではありませんからね。船医を勧めたときにお会いして、人となりもわかっています。……それより俺は、貴女の甥っ子のほうが心配ですね」
サラ達が兄一家と会うのは三度目です。
この前会ったときは子ども達五人で、港を走り回ってウミネコを追いかけていましたっけ。
ホセの言う通り、猫のように鳴く鳥は本当にいました。翼の生えた猫ではなかったのが、ちょっとだけ残念です。
「あの子達がなにかしましたか? 三人とも良い子ですよ」
「みんな男の子じゃないですか! サラに恋するかもしれないし、サラが恋するかもしれません!」
「今から娘の恋路が心配なんですか?」
「心配ですよ。俺が貴女に恋をしたのも、あの子達くらいのころでしたからね」
優しいキスをした後で、ホセは私を抱き上げました。
「船内で激しい行為はどうかと思っていましたが、そろそろ王国に着きますし三人目を作りませんか、マルガリータ。身籠った体で旅するのが心配なら、子どもが生まれるまで王国に留まっても良いですよ」
「アロンソ伯爵が他国に入り浸っていて良いのですか?」
「帝国には父がいます。……まあ、サラとフアン恋しさに父まで王国にやって来そうですけれどね」
ベッドに降ろされて、もう一度キスをされました。
ホセは優しくて悪戯で、いつも私は甘く翻弄されてしまいます。
そして最後の彼が必死な顔で私の名前を呼ぶ姿に、愛されていることを感じて幸せな気持ちになるのです。以前彼が言ったように、これが夫婦の営みで、もうぼんやりとしか思い出せない記憶の中のものは違っていたのでしょう。
「……俺以外のことを考えていませんか?」
「ごめんなさい、少しだけ」
「キスしてくれたら許してあげます」
私が十年前に戻ったあの日、あんなに情熱的に口説いてくれたのは、あのときの私が今にも消えそうだったからだと言います。
語った十年間のことが本当だとしたら、絶対にピラール様のところへは行かせられないと思ったのだそうです。
──ずっと前から好きだった、結婚したいとまで思っている女性が目の前で死にそうな顔をしていたんですよ? 貴女の笑顔を見るまでは一歩だって退けませんでした。
後で聞いた彼の言葉を思い出しながら、私は夫にキスをしました。
彼の仕事に打ち込む真剣な横顔が好きです。
仕事に行きたくないと、数日置きに泣きついてくる情けない姿も好きです。
十年前、莫迦げた話を真面目に聞いて癒してくれた優しい貴方が大好きです。
「愛していますわ、ホセ」
あのときわからなかった私の幸せは、今でははっきりわかっています。
私の幸せは夫のホセと娘のサラ、息子のフアンと生きることです。
ホセの幸せもそうだと良いのですが。
「愛していますよ、マルガリータ」
時間が戻ったのがなぜなのか、だれのおかげなのかはわかりません。
でも、だれかはわかりませんが、ありがとうございました。
今度の私は間違えませんでしたよね?
真実の愛でなくても、運命の恋でなくても、私はホセを愛し彼も私を愛しています。
目の前にいる愛する人を大切にし、愛されている自分のことも大切にしています。
きっとそれが幸せへと続く道だったのでしょう。
「はい」
私は刺しゅうをしていた手を止めて、夫のホセの言葉に頷きました。
刺しゅうしていたのはハンカチで、雛菊と紫色の猫の意匠です。
最近はこの意匠が好きなのです。雛菊は前と同じですが、前の意匠よりも大きく自信に満ちた花になっているような気がします。
今、私達はアロンソ商会が所有する船に乗っています。
貨物船ではなく客船です。
娘のサラと息子のフアンを連れて王国へ向かっているのです。
王国で待つのは兄夫婦と私の三人の甥っ子達、そしてピラール様のご両親です。
ピラール様亡き後、ご両親はロコさんが身籠っていないかを確認してから、遠縁の方を養子に取りました。
将来はその方に子爵家を譲るのだとお聞きしています。
ロコさんはピラール様の子どもを身籠っていなかったのだそうです。
どうしてでしょうか。
私の中の十年間の記憶が幻だったのかもしれませんし、ほかにも理由があるのかもしれません。
ピラール様がお亡くなりになったと聞いたとき、やはり看病だけはしたほうが良かったのではないかと悩む私にホセは言いました。
十年間の記憶があっても、まったく同じようには出来ないし、人生は小さなきっかけで変わるものなのだと。
ロコさんの子どももそうだったのかもしれません。
夫の言葉とお腹に芽生えていた愛しいサラの存在が、ピラール様への過剰な罪悪感を取り払ってくれました。
私にくださったピラール様の最後のお手紙が、とても優しくて思いやりの籠った文章だったこともあります。
あの方はあの方でご自身の人生を精いっぱいに生き抜かれたのです。
「……帝国にはお婆様がいないからと、サラは子爵夫人にお会いするのをとても楽しみにしているようですよ」
「会うことを許してくださってありがとうございます」
サラとフアンがピラール様のご両親とお会いするのは、今回が初めてです。
不幸な結末を迎えてしまいましたが、あのおふたりは私にとって、八年間愛し慈しんでくださった大切な義父母なのです。
「あの方々が悪いわけではありませんからね。船医を勧めたときにお会いして、人となりもわかっています。……それより俺は、貴女の甥っ子のほうが心配ですね」
サラ達が兄一家と会うのは三度目です。
この前会ったときは子ども達五人で、港を走り回ってウミネコを追いかけていましたっけ。
ホセの言う通り、猫のように鳴く鳥は本当にいました。翼の生えた猫ではなかったのが、ちょっとだけ残念です。
「あの子達がなにかしましたか? 三人とも良い子ですよ」
「みんな男の子じゃないですか! サラに恋するかもしれないし、サラが恋するかもしれません!」
「今から娘の恋路が心配なんですか?」
「心配ですよ。俺が貴女に恋をしたのも、あの子達くらいのころでしたからね」
優しいキスをした後で、ホセは私を抱き上げました。
「船内で激しい行為はどうかと思っていましたが、そろそろ王国に着きますし三人目を作りませんか、マルガリータ。身籠った体で旅するのが心配なら、子どもが生まれるまで王国に留まっても良いですよ」
「アロンソ伯爵が他国に入り浸っていて良いのですか?」
「帝国には父がいます。……まあ、サラとフアン恋しさに父まで王国にやって来そうですけれどね」
ベッドに降ろされて、もう一度キスをされました。
ホセは優しくて悪戯で、いつも私は甘く翻弄されてしまいます。
そして最後の彼が必死な顔で私の名前を呼ぶ姿に、愛されていることを感じて幸せな気持ちになるのです。以前彼が言ったように、これが夫婦の営みで、もうぼんやりとしか思い出せない記憶の中のものは違っていたのでしょう。
「……俺以外のことを考えていませんか?」
「ごめんなさい、少しだけ」
「キスしてくれたら許してあげます」
私が十年前に戻ったあの日、あんなに情熱的に口説いてくれたのは、あのときの私が今にも消えそうだったからだと言います。
語った十年間のことが本当だとしたら、絶対にピラール様のところへは行かせられないと思ったのだそうです。
──ずっと前から好きだった、結婚したいとまで思っている女性が目の前で死にそうな顔をしていたんですよ? 貴女の笑顔を見るまでは一歩だって退けませんでした。
後で聞いた彼の言葉を思い出しながら、私は夫にキスをしました。
彼の仕事に打ち込む真剣な横顔が好きです。
仕事に行きたくないと、数日置きに泣きついてくる情けない姿も好きです。
十年前、莫迦げた話を真面目に聞いて癒してくれた優しい貴方が大好きです。
「愛していますわ、ホセ」
あのときわからなかった私の幸せは、今でははっきりわかっています。
私の幸せは夫のホセと娘のサラ、息子のフアンと生きることです。
ホセの幸せもそうだと良いのですが。
「愛していますよ、マルガリータ」
時間が戻ったのがなぜなのか、だれのおかげなのかはわかりません。
でも、だれかはわかりませんが、ありがとうございました。
今度の私は間違えませんでしたよね?
真実の愛でなくても、運命の恋でなくても、私はホセを愛し彼も私を愛しています。
目の前にいる愛する人を大切にし、愛されている自分のことも大切にしています。
きっとそれが幸せへと続く道だったのでしょう。
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