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前編 魔女の家
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「こんなところに……」
王子アレハンドロは、凶暴な魔獣蔓延る魔の森の奥に建つ小さな家に言葉を失った。
魔の森は奥へ進めば進むほど魔獣が強くなる。
王国で最も魔力が強いと言われている王族の一員である自分と鍛え抜かれた王国魔術師団が一丸となって進んでなお苦戦したのに、この家の住人は近隣の魔獣達にどう対応しているのだろうか。小さな家も手入れの行き届いた狭い庭も、庭を囲む低い塀にも魔獣の襲撃による傷痕はない。
この家には魔女が住んでいるらしい。
聖女がいなくなって結界の塔の効力が衰え、王国は未曽有の不作に苦しめられている。
食べ物を求めて魔の森へ入り、入り口付近で魔獣に襲われた家族が魔女に助けられてこの家へ招かれたのだ。彼らが住んでいた村も魔女によって救われた。
魔女の容姿は黒い髪に赤い瞳──アレハンドロの元婚約者でグティエレス公爵令嬢のカルメンに酷似していた。
カルメンは三年前、アレハンドロに婚約を破棄されて罪人となった。
罪状は聖女の詐称とひとつ年下の異母妹ベネノへの虐待だ。カルメンが魔女と罵られて罰を受けた後、アレハンドロはかねてから関係のあったベネノを新しい婚約者とし、聖女とした。
そのベネノは今はいない。どこへ行ったのかもわからない。
彼女は新しい聖女として結界の塔へ行き、王国全体に祝福を与える神聖水晶に初めて魔力を注いだ日から行方不明になっていた。
神聖水晶に奪われる魔力の多さに怯え、護衛の魔術騎士と駆け落ちしたのだ。
ある意味仕方がないことだったろう。
カルメンは月に一度神聖水晶に魔力を注ぐだけで王国全体に豊作をもたらし魔獣の襲撃を防ぐ祝福を稼働させていたが、ベネノは壊滅的に魔力量が足りなかった。
ベネノがカルメンと同じことをしようとしたら、一日中神聖水晶に魔力を注ぎ続けなくてはいけない。毎日、一日中、永遠に──聖女ではなく生け贄だ。
「……魔女よ。いや、カルメンなのだろう? 私だ、アレハンドロだ。私が間違っていた。ベネノは聖女の器ではなかった。グティエレス公爵の娘であるかどうかも怪しい」
王族は建国王の妃であった始まりの聖女の血を引いている。だから魔力が強いのだ。
王家から分かれたグティエレス公爵家にもその血は受け継がれていた。
本家のひとり娘である母と分家の入り婿である父の間に生まれたカルメンは、だれよりも色濃く聖女の血を受け継いでいた。早逝した母親が生きているときは親娘ふたりで、母親の死後は自分ひとりで、今は王国魔術師団一万人が毎日、半日交代で魔力を注いでいる神聖水晶に魔力を注いでいたのだ。
「私が悪かった、謝ろう。王国へ戻って来て欲しい。王宮魔術師団一万人が魔力を注いでも祝福の効果は君の十分の一にも満たない。王国全土が不作に苦しんでいる」
魔獣蔓延る魔の森に囲まれた王国の大地は、魔獣の吐き出す毒素によって荒れ果てていた。
結界の塔の祝福なしには豊作は望めず、祝福の発動には神聖水晶に注がれる聖女の魔力が必要だった。他者の魔力ではとても賄えない。
側妃の息子のアレハンドロは一般人よりは強い魔力を持つものの、鍛え抜かれた王国魔術師団の精鋭とは大して変わらない。ましてやだれよりも色濃く聖女の血を引くカルメンとは比較すること自体が烏滸がましい程度だった。
「罪のない民を救って欲しい。そして、出来ることならもう一度私と……」
アレハンドロの声に答えたかのように、小さな家の扉が開いた。
彼女が現れる。
黒い髪に赤い瞳、楽しげな笑みを浮かべた彼女は手に盆を持っていた。ポットとみっつのコップ、それから皿いっぱいの焼き菓子が盆に載っている。狭い庭の中央に置かれたテーブルと椅子で、お茶会でも始めるつもりなのだろうか。
(ああ、知っている……)
アレハンドロは皿の上の焼き菓子の味を知っていた。
カルメンの母親が亡くなってベネノとその母親がグティエレス公爵家に現れるまでは、王都にある公爵邸の中庭でカルメンの作ってくれた焼き菓子でお茶を楽しむのが好きだった。
あのころは正妃の産んだ第二王子ダニエルとも仲が良かった。
(母上があんなことを言わなければ、私はきっと今も……)
アレハンドロは楽し気にテーブルを整えていくカルメンの笑顔に魅入られた。
彼女の笑顔を見るのは久しぶりだ。アレハンドロがベネノに心を移してから、カルメンは笑顔を見せなくなった。
実家の公爵邸では連れ込んだ愛人親娘を溺愛する父親に冷遇され、社交界では愛人親娘を虐待していると悪評を流され、妃教育に訪れる王宮では正妃の死後教育係になった側妃にいびられていたのだ、笑えなくなるのは当然のことだ。
「カルメン……っ!」
彼女は笑っていたけれど、アレハンドロに視線は寄越さない。
まだ怒っているのだ。怒られるのは当たり前だった。
アレハンドロが名前を呼んでも、まるで聞こえないかのようにこちらを向かない。わずかな反応も見られなかった。
「殿下、この家には結界が張られています。その結界によって魔獣の襲撃を防ぎ、外からの干渉を無効化しているのでしょう。おそらくカルメン様に殿下の声は聞こえていらっしゃいません」
王国魔術師団の団長がアレハンドロに告げる。
彼は最後までカルメンの無実を訴えていた。
神聖水晶が必要とする魔力量を知る彼は、彼女以上に聖女に相応しい人間がいないことをわかっていたのだ。
「そうか。声だけでも聞こえるように結界に穴を開けることは出来ないか?」
「私どもの魔力では無理です。ですが、殿下であれば……」
「私の魔力などカルメンどころかダニエルの足元にも及ばぬ」
「……量ではなく相性の問題です。カルメン様と殿下は同じ聖女様の末裔であらせられます。結界に穴を開けるというよりも、結界越しに気づいていただくのです」
見えない結界に触れるだけで良いと言われて、アレハンドロは低い柵の上に手を伸ばした。
確かになにか柔らかい魔力の膜のようなものがある。
カルメンがアレハンドロのほうへ顔を向けた。昔と同じ眩しいほどの笑顔が──歪んで消えた。
王子アレハンドロは、凶暴な魔獣蔓延る魔の森の奥に建つ小さな家に言葉を失った。
魔の森は奥へ進めば進むほど魔獣が強くなる。
王国で最も魔力が強いと言われている王族の一員である自分と鍛え抜かれた王国魔術師団が一丸となって進んでなお苦戦したのに、この家の住人は近隣の魔獣達にどう対応しているのだろうか。小さな家も手入れの行き届いた狭い庭も、庭を囲む低い塀にも魔獣の襲撃による傷痕はない。
この家には魔女が住んでいるらしい。
聖女がいなくなって結界の塔の効力が衰え、王国は未曽有の不作に苦しめられている。
食べ物を求めて魔の森へ入り、入り口付近で魔獣に襲われた家族が魔女に助けられてこの家へ招かれたのだ。彼らが住んでいた村も魔女によって救われた。
魔女の容姿は黒い髪に赤い瞳──アレハンドロの元婚約者でグティエレス公爵令嬢のカルメンに酷似していた。
カルメンは三年前、アレハンドロに婚約を破棄されて罪人となった。
罪状は聖女の詐称とひとつ年下の異母妹ベネノへの虐待だ。カルメンが魔女と罵られて罰を受けた後、アレハンドロはかねてから関係のあったベネノを新しい婚約者とし、聖女とした。
そのベネノは今はいない。どこへ行ったのかもわからない。
彼女は新しい聖女として結界の塔へ行き、王国全体に祝福を与える神聖水晶に初めて魔力を注いだ日から行方不明になっていた。
神聖水晶に奪われる魔力の多さに怯え、護衛の魔術騎士と駆け落ちしたのだ。
ある意味仕方がないことだったろう。
カルメンは月に一度神聖水晶に魔力を注ぐだけで王国全体に豊作をもたらし魔獣の襲撃を防ぐ祝福を稼働させていたが、ベネノは壊滅的に魔力量が足りなかった。
ベネノがカルメンと同じことをしようとしたら、一日中神聖水晶に魔力を注ぎ続けなくてはいけない。毎日、一日中、永遠に──聖女ではなく生け贄だ。
「……魔女よ。いや、カルメンなのだろう? 私だ、アレハンドロだ。私が間違っていた。ベネノは聖女の器ではなかった。グティエレス公爵の娘であるかどうかも怪しい」
王族は建国王の妃であった始まりの聖女の血を引いている。だから魔力が強いのだ。
王家から分かれたグティエレス公爵家にもその血は受け継がれていた。
本家のひとり娘である母と分家の入り婿である父の間に生まれたカルメンは、だれよりも色濃く聖女の血を受け継いでいた。早逝した母親が生きているときは親娘ふたりで、母親の死後は自分ひとりで、今は王国魔術師団一万人が毎日、半日交代で魔力を注いでいる神聖水晶に魔力を注いでいたのだ。
「私が悪かった、謝ろう。王国へ戻って来て欲しい。王宮魔術師団一万人が魔力を注いでも祝福の効果は君の十分の一にも満たない。王国全土が不作に苦しんでいる」
魔獣蔓延る魔の森に囲まれた王国の大地は、魔獣の吐き出す毒素によって荒れ果てていた。
結界の塔の祝福なしには豊作は望めず、祝福の発動には神聖水晶に注がれる聖女の魔力が必要だった。他者の魔力ではとても賄えない。
側妃の息子のアレハンドロは一般人よりは強い魔力を持つものの、鍛え抜かれた王国魔術師団の精鋭とは大して変わらない。ましてやだれよりも色濃く聖女の血を引くカルメンとは比較すること自体が烏滸がましい程度だった。
「罪のない民を救って欲しい。そして、出来ることならもう一度私と……」
アレハンドロの声に答えたかのように、小さな家の扉が開いた。
彼女が現れる。
黒い髪に赤い瞳、楽しげな笑みを浮かべた彼女は手に盆を持っていた。ポットとみっつのコップ、それから皿いっぱいの焼き菓子が盆に載っている。狭い庭の中央に置かれたテーブルと椅子で、お茶会でも始めるつもりなのだろうか。
(ああ、知っている……)
アレハンドロは皿の上の焼き菓子の味を知っていた。
カルメンの母親が亡くなってベネノとその母親がグティエレス公爵家に現れるまでは、王都にある公爵邸の中庭でカルメンの作ってくれた焼き菓子でお茶を楽しむのが好きだった。
あのころは正妃の産んだ第二王子ダニエルとも仲が良かった。
(母上があんなことを言わなければ、私はきっと今も……)
アレハンドロは楽し気にテーブルを整えていくカルメンの笑顔に魅入られた。
彼女の笑顔を見るのは久しぶりだ。アレハンドロがベネノに心を移してから、カルメンは笑顔を見せなくなった。
実家の公爵邸では連れ込んだ愛人親娘を溺愛する父親に冷遇され、社交界では愛人親娘を虐待していると悪評を流され、妃教育に訪れる王宮では正妃の死後教育係になった側妃にいびられていたのだ、笑えなくなるのは当然のことだ。
「カルメン……っ!」
彼女は笑っていたけれど、アレハンドロに視線は寄越さない。
まだ怒っているのだ。怒られるのは当たり前だった。
アレハンドロが名前を呼んでも、まるで聞こえないかのようにこちらを向かない。わずかな反応も見られなかった。
「殿下、この家には結界が張られています。その結界によって魔獣の襲撃を防ぎ、外からの干渉を無効化しているのでしょう。おそらくカルメン様に殿下の声は聞こえていらっしゃいません」
王国魔術師団の団長がアレハンドロに告げる。
彼は最後までカルメンの無実を訴えていた。
神聖水晶が必要とする魔力量を知る彼は、彼女以上に聖女に相応しい人間がいないことをわかっていたのだ。
「そうか。声だけでも聞こえるように結界に穴を開けることは出来ないか?」
「私どもの魔力では無理です。ですが、殿下であれば……」
「私の魔力などカルメンどころかダニエルの足元にも及ばぬ」
「……量ではなく相性の問題です。カルメン様と殿下は同じ聖女様の末裔であらせられます。結界に穴を開けるというよりも、結界越しに気づいていただくのです」
見えない結界に触れるだけで良いと言われて、アレハンドロは低い柵の上に手を伸ばした。
確かになにか柔らかい魔力の膜のようなものがある。
カルメンがアレハンドロのほうへ顔を向けた。昔と同じ眩しいほどの笑顔が──歪んで消えた。
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