だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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姫君には鍵をかけて

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       Ⅴ

 浩平が言っていた。
 あれは、任務のためならなんだってするタイプだ―――と。
「………くっ…そ………」
 潤んだ瞳は、今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙を湛えていた。ブロウのいらないほどの長いまつげも、確かに淡く濡れていた。
 だが、それにうろたえ、ひるんだほんの一瞬のことだった。
(ごめんなさいね、ムシュウ・ラフルール。悪く思わないで―――)
「………あ…ンの……ウソ泣き女~ッ」
 もうろうと口走りながら飛び起きた祐介は、次の瞬間、強烈なめまいに襲われて頭を抱えた。
「有栖川さん、まだ起きてはいけませんわ」
 耳障りのしない心地いい声とともに、しなやかな手が彼の体を支えて静かに横たえた。
 薄く目を開けると、京極冴子の端整な顔がそこにあった。
「……女史、おれ……」
麻酔剤エーテル嗅がスプレーされたんですわ。覚えてらっしゃる?」
「…ああ…」
 祐介は力なく腕で顔をおおった。
 エントランスで不意に涙ぐんだ美女の顔を覗き込んだ途端、いきなりエーテル臭のするクロロホルムの溶剤を吹きつけられたのだ。
「そんで、おれ、ブラックアウトして…」
「ドアマンが気付いて、すぐにこちらへ運び込んだんです」
 辺りを見回すと、そこはホテルの医務室ではなく、最上階のゲストルームだった。
「…ちょーカッコわりーな、おれ…」
 溜め息混じりの彼の呟きに、冴子はふと微笑んだ。
「お怪我けががなくて、何よりでしたわ」
 そのやさしい微笑みが、せめてもの救いであった。
 祐介は再び体を起こした。
「有栖川さん…」
「大丈夫、もうなんともないよ。で、あの女は?」
 すると、冴子は黙ったまま伏し目がちに首を振った。
「そっか。いつまでもそばでウロウロしてるわけねーもんな」
「それに、鏑木さんの行方も…。あれ以来、連絡がまったく取れなくて。有栖川さんでしたら、こういうとき鏑木さんがどこにいらっしゃるか、ご存じなのではありません?」
「そう言われてもなぁ…」
 祐介はベッドの上で頭を掻いた。
 有能な彼女のことである。もうほとんどの心当たりはすでに調べ尽くしているだろう。それ以上のこととなると、さすがの祐介にも見当がつかなかった。
「おれの知ってることなんて、たかが知れてるし…」
 そんな困ったような顔をした彼を、冴子のほうは意外そうに見つめていた。
 彼らの間には、調査では知り得ない特別なつながりがあると感じていたし、実際数多くのデータがそれを物語っている。だから二人は互いの秘密を必ず共有しているものと、なかば当然のように思っていたのだ。
「有栖川さんでも、鏑木さんのことでご存じないことがおありなんですのね」
「ん~…まあ、ね。別に四六時中一緒にいるわけじゃないし、あいつ、わりと一匹狼アウトローっぽいとこあるから」
 祐介の口振りはまるで他人事のようだった。
 以前、浩平がそうだった。親密な関わりを持っているはずなのに、彼らは互いにさほど相手を気にかけない。女の冴子の目には、それがひどく不可解で、冷淡に映っていた。
 冴子が顔を曇らせると、祐介はひらひらと手を振って笑った。
「あいつなら心配いらねーって。明日になれば、またヤーさんみたいなオーラ出しながら戻ってくるよ」
「―――有栖川さんは、気になりませんの? 今頃、鏑木さんがどこでどうなさっているのか…」
「どうして?」
「ですから、それは…」
 もどかしげに顔を上げた冴子は、祐介の表情を見てはっと息を呑んだ。
 祐介は片手で頬杖をつきながら、窓に浮かぶ夜景を遠い目をして眺めていた。余裕をうかがわせる、整然とした顔つきだった。
 そして、彼は薄く笑うと、自信に満ちた口調でおもむろにこう言った。
「大丈夫だよ、あいつは。売られたケンカには手加減しない主義だから」
 この―――絶対の信頼は、どこから来るのだろう。
 見えない相手への揺るぎない信頼である。恐らく、友情などという言葉で簡単に片付けられるようなものではない。
 冴子は、祐介の横顔に見入っていた。
 本当にきれいな顔だった。その顔を見ているうちに、頭の中で突然、何かがはじけた。
 二人が互いを気にかけないのは、それが他人事だからではなく、その必要がないからなのではないだろうか。
(…ああ、そう……そうなんだわ)
 彼らは、確信している・ ・ ・ ・ ・ ・のだ。
(男の方って―――)
 冴子はふと溜め息をつき、それからゆったりと微笑んだ。
「……謎が、一つ解けましたわ」
 祐介が怪訝けげんそうに彼女を見返した。冴子はそっと目を細めた。
「でも、やっぱりまだ謎だらけミステリアス。…そこが、お二人の魅力なんですけど」
「ホレ直した?」
「ええ」
 祐介の臆面もないせりふに、冴子はふふっと笑った。

 浩平はその頃、落ち着いた雰囲気の洒落しゃれたカクテルバーで一人グラスを傾けていた。
 煙草ダンヒルを挟んだ指で気だるげにグラスをもてあそんでいると、背後から身なりのいい長身の紳士が現われた。
 上質の背広をダンディに着こなした銀髪の白人男性である。その優雅な物腰と、気品のある顔立ちに周囲から溜め息が洩れた。
 彼は静かにカウンターにいる浩平の右側へ回り、一つ向こうの席に腰を降ろした。
 浩平は、ふっと鼻で笑った。
「―――何かYes?」
 銀髪の紳士がいぶかしそうに振り向き、英語で訊ねた。どうやら相手の気分を害したようだが、浩平は構わずククッと喉を鳴らした。
「いや、スーツより軍服のほうが似合いそうだからな」
「失礼だが、酔っておられるようだ」
「そういう血統の面構つらがまえだと言ってるんだ」
 浩平の言葉に、紳士の整った顔からさっと血の気が引いた。
「…アーリア人にそういう偏見イメージを持つのは、アメリカ人だけではないようだな」
ナチスのかぎ十字ハーケンクロイツか? くだらんな」
「侮辱だ、撤回したまえ」
「気にさわったら、失敬」
 浩平は嘲笑を浮かべたまま、グラスを持った手で彼の肩口を指した。
「そんな物騒なものをぶらさげていると、日本の警察はうるさいぞ」
 紳士の目つきが、途端に冷ややかになった。
 空気をてつかせるようなアイスブルーの瞳だった。
 だが、浩平は平然とグラスを口に運んだ。
「やめておけ。こんなところでそいつを使えば、損をするのはそっちだ。いくら消音器サイレンサーを付けていてもな」
 彼は煙草をくわえ、ふと薄く笑った。
標的ターゲットの右手約1メートル。38口径なら確実な射程距離だ。教科書マニュアルどおりだな、優等生エリート
 その嘲りを含んだ皮肉っぽい口調にも、相手は眉一つ動かさなかった。
 紫煙に煙ったグラスの中で、氷の塊が微かな音を立てた。
「―――バーボンか。てっきりスコッチウイスキー派かと思っていたが…」
「知りたいのは、おれの好みじゃないだろう」
 そう言って浩平は退屈そうに目を伏せた。
「無駄話に付き合う気はない。用がないなら失せろ、酒がまずくなる。それとも、貴様は男の尻を追い回すのが趣味か」
「…人の神経を逆撫さかなでるのがうまい男だな」
 紳士は注文オーダーを取りにきたバーテンダーを目で制し、無表情で浩平を見返した。
「私を怒らせて平常心を失わせ、判断力を鈍らせるつもりか。―――冷静だな。巧みに相手の動揺を誘い、隙をうかがうその機転……たいした度胸だ」
 間接照明に彩られ、セピア色に霞んだ店内にジャズピアノが奏でる囁くようなバラードが流れている。
 灰皿の上でくすぶっていた細い煙が、男たちの間をたゆたった。
「……いつ気付いた?」
「さあな。だが、気配をさせずに背後から近づかれるのは好きじゃない」
 浩平が飄々ひょうひょうと肩を竦めると、銀髪の紳士はすうっと目を細めた。
「やはり…ただの民間人ではないようだな」
「買いかぶるな、おれは一介の小市民だ」
 面倒臭そうに言い捨てた浩平は、短くなった煙草をもみ消した。
 紳士は、静かに目を伏せた。
SDECEスデスのジル・クレールから預かったものを渡してもらおう。あれはもともと我々のものだ」
「なんの話だ?」
「調べはついている。一介の小市民・ ・ ・ ・ ・ ・を相手に、こちらも手荒な真似はしたくない。…できればな」
 浩平は口元を歪めながら、新しい煙草に火をつけた。
「おれは何も預かってなどいない」
「とぼけても無駄だ。昼間、あの女と接触していたことはわかっている。場合によっては日本政府に打診して、重大な犯罪に加担したと通告することもできる。無論―――闇に葬ることもな…」
 脅迫めいた、冷酷な口調だった。
 端整な顔をしているだけに、やけに迫力があり、その紳士然とした態度や、家柄の良さそうな風貌が、徹底して血筋から容姿までも重視したというかつてナチ親衛隊S S彷彿ほうふつさせるほどであった。
「自分の身が可愛ければ、我々の要求に素直に従うことだ」
「断わる、と言ったら?」
「…勇敢だな。試してみるか?」
 その恐ろしく冷淡な応えに、浩平は小さく肩を竦めた。
「よほど大事なものらしいな」
「―――小市民を名乗っていたいなら、知らないほうが身のためだ」
「…ご大層なことだな」
 天井に向かって紫煙を吐き出した浩平は、唇に不敵な笑みを浮かべた。
「だが、不本意に巻き込まれたうえに命まで狙われるからには、おれにも権利を主張するぐらいの資格はありそうだ」
 紳士の眼光が一瞬、鋭くなった。
「それほどのリスクをおかす価値が貴様にあるとは思えんな。命が惜しければ、関わらずにおくことだ」
 浩平は顎を上げ、尊大な態度でふんと鼻を鳴らした。
「おれは、誰の指図も受けん」
 銀髪の紳士はわずかに眉を寄せ、苛立いらだった表情を見せた。
「…自分の言っていることがわかっているのか? 国家犯罪に関わることになるのだぞ⁉」
「スリルを楽しむつもりなら、ほかに遊びゲームはいくらでもある」
「―――どうあっても、痛い目を見たいらしいな」
 氷河を思わせるアイスブルーの瞳が、凍りつくような冷たい光を放った。
「これが最後の忠告・ ・だ。従わなければ命取りになるぞ」
「運が悪ければな」
 紳士の端麗な顔が険しくこわばっていた。
 グラスをあけた浩平は、黒いサングラスの奥から悠然と相手を見据えた。
「言ったはずだぞ、おれは何も預かってなどいない。あれは、あの女に押しつけられた・ ・ ・ ・ ・ ・ ・んだ。苦情はあの女に言ってくれ」
 浩平は灰皿に煙草の灰を落とすと、片手を挙げてウエイターを呼んだ。
「こちらの紳士にコニャックを」
 くわえ煙草で立ち上がった彼は、肩越しに銀髪の紳士を返り見た。
「面白い話を聞かせてもらった。その酒は話の代金だ」
 浩平は不遜な笑みを浮かべ、そのまま振り返らずに店を出ていった。
 談笑する客たちの密やかなさざめきの中、その背を黙って見送っていた紳士の表情が再び冷徹さを取り戻した。
 彼は無表情で上着の内ポケットから携帯電話を取り出すと、短い呼び出しコールで応対に出た相手に、明確なドイツ語・ ・ ・ ・でこう言った。
「…私だ。リトル・プリンセスを奪還する」
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