だから今夜は眠れない

東雲紫雨

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姫君には鍵をかけて

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       Ⅷ

 電話口の声は、動揺しているのか、微かに震えていた。
『一体どうするつもりなんだ⁉ リトル・プリンセスにもしものことがあれば、もう、これは我々だけの問題じゃなくなる。国家間の信頼を揺るがすことになるんだぞ! 君は、今の自分の立場がわかっているのか?』
わめかないでよ、ウィラード。私だって何も考えていないわけじゃないわ」
『これは君のミスだぞ、ジル。あんな正体もわからない民間人を利用しようとしたりするから……。何が威信だ、君のうまい台詞せりふなど信じなければよかった』
「落ち着いて。まだ、リトル・プリンセスが向こうの手に落ちた様子はないわ。あの日本人は今のところ、向こうの味方というわけでもなさそうよ」
『だが、こちらの味方とも思えない』
 憤りを隠せない声色だった。
 高台にめたプジョーのボンネットに寄りかかっていた彼女は、苛立たしげに眉を寄せながら豊かな栗色の髪を掻き揚げた。
「どちらにせよ、私たちも民間人なんかに出し抜かれたままで済ます気はないわ。リトル・プリンセスは必ず見つけだしてみせる。何しろ彼女は…」
「―――その話、もっと詳しく聞きたいもんだな」
 不意に背後から、腰骨に響くような渋い声を浴びせられ、彼女は敏感に体を震わせて反射的に振り返った。
「…あ…なた…」
 気配すら感じなかった。
Helloアロー? アロー、ジル?』
 電話口から何度も呼びかける声がする。
 相手は無言で彼女の携帯電話に手を伸ばすと、やおらそのスイッチを切った。そして、それを力の抜けた指から取り上げ、おもむろに土手の草叢くさむらへ放り込んだ。
「これで当分、邪魔は入らない」
「ど、どうして…」
野暮やぼなことを聞くな? おれの気を引きたがっていたのはそっちだろう、マドモアゼルお嬢ちゃん
 彼はせせら笑いながら煙草に火をつけた。
 その、人を小馬鹿にしきった態度と仕草に、彼女は思わずカッとなった。どこかで、不覚を取った気まずさも手伝っていた。
「よくもぬけぬけとっ! あの子は…あの子はどこなの⁉」
 すると、彼は例のごとく飄々ひょうひょうと紫煙を吐き出し、冷ややかに言った。
「間違えるな、質問しているのはこっちだ」
「なんですって⁉」
 彼女が噛みつくと、相手は様子を一変させ、あの刺すような鋭い視線を容赦なくサングラスの奥から注いできた。
「勝手に人を巻き込んでおいて、ずいぶん虫のいい言い草だな。おれが居場所を知らせにのこのこ出向いてきた、とでも思ったのか? ―――自惚うぬぼれるな」
 再び厳しく射竦められ、うまく呼吸いきをすることができなくなる。
 相手は、そんな彼女にかまわず淡々と煙草を口に運んだ。
「退屈凌ぎにはなったが、おかげでこっちはお尋ね者だ。いい加減、おれの忍耐も限界だぞ」
 彼女は息苦しそうにあえいだ。圧倒的な格の違いをまざまざと見せ付けられているような気がしたのだ。
「……私に……どうしろ、と……?」
「どうしろ、だと? それはそっちが決めることだ。おれは強請ゆすりたかりにきたわけじゃない」
 その迫力も威圧感も、やはり素人しろうと離れしている。うなだれた彼女は、不貞腐ふてくされたように頬を膨らませた。
「―――わかったわ。話すわよ、話せばいいんでしょう」
 しなやかな栗色の髪がたなびき、その風が紫煙を彼の背後に押し流していく。
 顔にまとわる髪を指に絡めながら何気なく目を上げた彼女は、そのときになって初めて、相手が自分より風下に立っていたことに気付いた。虚をかれて動転し、すっかり忘れていたが、これは基本中の基本である。
 悔しいが、どうやら相手には一日いちじつちょうがあるようだった。
 彼女は覚悟を決めて口を開いた。
「…あの子は―――プリンセスなのよ。ローゼンシュタイン公国シュタルトバルト大公家の第二王女、アン・マリー内親王殿下」
 その声に、吐息と微妙な感情が混じった。
「去年、王妃が亡くなったのはご存じ? 表向きは不幸な事故・ ・ ・ ・ ・。でも、王妃はとても慎重な方だった…。あんな通い慣れた道で運転を誤るなんて、到底考えられないわ」
暗殺された・ ・ ・ ・ ・という証拠でもあるのか」
 不意に割って入った低く響く渋い美声が、彼女の高ぶりかけた気を静めた。
「証拠は闇の中よ。お抱えの整備士が事故の翌月、死体になったわ。ロイヤルファミリー王   室の自家用車に、整備不良があると思う? 彼は、その責任を追及された末の自殺と片付けられ、真相は永遠に封印された。…小さな国ですものね。巧妙に隠匿いんとくされれば、私たちもお手上げよ」
 美貌にふと、自嘲気味の笑みが浮かんだ。
「もちろん、根拠もなく当て推量で疑っているわけじゃないわ。あの国には、疑惑の核心に限りなく近い人物がいるの」
 風になびく髪を軽く押さえ、彼女は遠くを見つめながら一息に言った。
「―――その人物の名は、フリードリヒ・ラーフェンス公。国王ルードヴィヒ4世のいとこにあたる人よ」
 黒いサングラスの下は、相変わらず無表情だった。彼は、腹立たしいほど淡々と煙草をくゆらせている。
 何を考えているのか皆目わからなかった。
 彼女は、微かに首を振りながら続けた。
「……憎しみと、嫉妬に凝り固まったような男よ。元女優だった王妃は、映画祭の歓迎会レセプションに招かれて、最初にフリードリヒ公に紹介されたの。ところが、その後ルードヴィヒ大公に見初みそめられて恋に落ち、彼の妻となった。屈辱的だったと思うわ。何せ大公が持っているものはすべて、もとはといえば、公が手にするはずだったんですもの」
 彼女の話は、それから半世紀以上の時間ときをさかのぼった。
 ローゼンシュタイン公国のラーフェンス家はもともと公国直系の大公家で、先の国王はフリードリヒ公の祖父であった。
 だが、大戦中ナチスの侵略を避けるためにその政策を支持したことで、戦後、国際社会からの非難を恐れた議会がラーフェンス公の王位を剥奪、家名は降格された。そして王位は傍系のシュタルトバルト家に継承され、国王の弟で現在の大公の祖父シュタルトバルト公が即位したのである。
 激動の時代には、ともすればその波に呑み込まれてしまうような大陸の狭間にあって、国を守るためにあえて汚名を甘受した先の国王には、国民も議会も同情的だった。
「元の国王も前国王も、そして現在の大公も、ラーフェンス公には常に最大の敬意を払ってきたわ。でも―――フリードリヒ公にはおもしろくなかった。彼はシュタルトバルト家を呪っていた。…大公が、外国からやってきた美しい妻をめとってからは特にね」
「可愛さ余って、というヤツか」
「そう。…だから、すべてを奪い取ることにしたのよ。宮殿も玉座も、公国そのものも」
 彼女は美しい顔を惜し気もなくしかめ、形のいい唇をきつく噛んだ。
「私は、王妃が暗殺されたのは、公の陰謀に気付いたためじゃないかと思っているの。彼は王妃に未練があって、しつこく言い寄っていたというし。実際、王妃が亡くなってから大公の身辺が不穏になったわ。だから、王妃のように手遅れになる前に、大公には静養を理由に、スイスの別荘へ移っていただいた。子供たちのうち、上の三人は寄宿舎ギムナジウムに入っているから警護しやすい。…問題は、一番下のアン・マリーだった」
 唇から、ふうっと大きな溜め息が洩れた。
「王宮には残しておけない。子供を人質に譲位を迫ることも考えられたわ。そこで、現地に駐在していたウィラード・デュペリという外交官に彼女を託して、国外へ脱出させたの」
 彼女は髪を掻き揚げ、再び遠い目をした。
「別荘にも、スイスのフランス大使館にも、すでに監視の目が光っていたわ。ヨーロッパは危険だった…。だから、わざわざ公国と縁の薄い国を選んだのよ。でも、しばらくするとこっちの動きをぎつけたのね、向こうも領事館に息のかかった人間を次々に送り込んできて…」
 力なくうつむいた彼女は、湿っぽいかすれた声で絞りだすように言った。
「―――大使館も安全とは言えなくなったわ。それならいっそ、彼女を密かにかくまっているより、人目にさらしてしまったほうが、向こうも手が出しにくいと思って…。あなたには迷惑をかけたけど、私だってあの子を守りたかったのよ……!」
 小刻みに肩を震わせ、両手で顔を覆う。
 だが、相手は平然と煙草をくゆらせながら、クッと喉を鳴らした。
「おれに色仕掛けは通用しないぞ」
 まるで子供扱いだった。
 不満げに顔を上げた彼女は、ふてぶてしく居直って腕組みをした。
「暗殺に陰謀にお家騒動か。…とんだ茶番だ。フランス情報局S D E C Eもご苦労なことだな」
「茶番、ですって⁉」
「茶番が気に入らなければ、いいところ三文芝居だ」
 指の間から、紫煙とともに冷ややかな侮蔑ぶべつがこぼれた。
「失礼ね、こっちだって命懸けで…」
「笑わせるな。おれは尻拭いの片棒を担がされるのは御免だ」
「なん……ですって……?」
 彼はあざけるようにふっと鼻で笑った。
「―――王妃のように・ ・ ・ ・ ・ ・、手遅れになる前に…か。ご立派だな」
 その皮肉っぽい言葉に、こわばっていた彼女の顔がさっと青ざめた。
「…もっと気に食わないことを言ってやろうか? 要するに―――SDECEは失敗したんだ・ ・ ・ ・ ・ ・。守りきれなかったんだろう? フランス人自国民だった、あの王妃を」
 その瞬間、彼女は相手の頬を激しくひっぱたいていた。
 涙が、勝手にあふれてきた。
 偽りではない本物の涙だった。胸の奥深くから何か熱くたぎるどす黒いものがせきを切って込み上げてくるようだった。
 それは、やり場のない怒りであった。
 相手は顔色一つ変えず、何事もなかったように煙草をくわえた。
「―――王女を、王妃の身代わりにするつもりか?」
「………Nonいいえ………‼」
 彼女は勝気な目で相手を睨みつけながら、手のひらで涙をぬぐった。その手は、まだ彼を叩いたショックでしびれていた。
「…どうして…よけなかったの…?」
 彼ほどの人物ならこの程度、容易にかわせたはずである。
 いぶかる彼女に相手は淡々と応えた。
「殴られて当然のことを言ったからな」
「謝らないわよ…⁉」
 負け惜しみのように思われるのはしゃくだったが、やはり相手の口元には薄い笑みが浮かんでいた。
「ご勝手に」
 そう言って相手はきびすを返した。
「―――待って!」
 咄嗟とっさに呼び止めると、彼は肩越しにこちらを返り見た。
「あの子は……彼女は無事なの⁉」
「ああ」
「ムシュウ、あなたは……味方なの……?」
「おれは誰の味方でもない」
「でも、敵ではないのでしょう?」
「それは、そっち次第だ」
 そのまま、彼は煙草を挟んでいる手を軽く挙げた。
「おれを敵に回したくなければ、おれに付きまとうな。―――いいな?」
 そして彼女は三度みたび、その広い背中を見送ることになった。

 浩平の話を聞き終えた祐介は、ふうんと鼻を鳴らした。
「それで、仔猫ちゃんプシィ・キャットに派手にひっかかれてきたわけか」
 日の当たる屋外のカフェテリアでウエイトレスにコーヒーを頼んだ浩平は、祐介の揶揄ひやかしをものともせず煙草ダンヒルに火をつけた。
「でも、これでだいたいのことはわかったな」
「お家騒動の顛末てんまつと、フランス人が関わっている理由はな」
「ほかになんかあるのかよ」
「いや。…だが、あの女がすべて喋った・ ・ ・ ・ ・ ・とは思えない」
「どーゆうことよ?」
 そこへ、ウエイトレスが頬をらした浩平によく冷えたタオルを持ってきた。オーダーは再び届けにくるつもりなのだろう。際立きわだつ居住まいの彼らを間近で見るアイデアとしては、そつがない。
 立ち去る彼女に祐介が気前よく手を振っていると、浩平が言った。
「王女を人質たてに、国王に譲位を迫る…てのがどうもな。それだけにしては、公国サイドの動きがやけに物々しすぎる」
「まーね。ちょっと外に出ただけで1ダースはぶらさがってきちゃったし」
 祐介は楽しそうにクックッと笑った。
「とりあえず折半せっぱんしようぜ。きのーから逃げ回ってばっかでストレスたまっちゃって」
「気楽だな、おまえは」
「それだけが取り柄と えだ」
 浩平に、ニヤリと不敵な笑みを見せた祐介は、傍らで無心にパフェを頬張っている少女の顔についた生クリームをすくい取った。
「おれは、このおチビちゃん・ ・ ・ ・ ・ ・につく。おまえは?」
「―――乗りかかった船だしな」
「んじゃ、決まり。おれたち、騎士ナイトだな」
「幸せなヤツ…」
 浮かれる祐介を呆れ顔で眺めながら、浩平は運ばれてきたコーヒーを口に運んだ。
 道ゆく人が、くつろぐ彼らを振り返る。
 それは、嵐の前の静けさだった。
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