見知らぬ君がつく優しい嘘

ゆみ

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名ばかりの婚約者

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 気が急いているのか、見られているせいなのか先程からペーパーナイフの先が定まらず思うように封を切ることができない。
 ちらっと目を上げると真っすぐな視線はやはりまだこちらの様子をうかがっていた。向こうにも手元が震えていることくらい、とっくにバレているに違いない。しかし侯爵家からの使者と名乗ったその男は相変わらず無表情のままだった。

 手紙には余計な文言は一切なかった。几帳面に並んだ文字がシルヴィに淡々と用件を告げているのみだ。
 それでもその文言を確かめるように三度読み返すと、シルヴィはようやくほっと小さなため息をついた。

「……よかった。」

 婚約者であるレオはアングラード侯爵家の後継者だ。シルヴィとの婚約がまとまったのは丁度一年ほど前のことだったが、その後すぐに北の隣国との紛争地帯へ旅立ってしまったので、結局二人が顔を合わせる事はなかった。

「良かった……とは?」

 静かに問う声に、便箋をたたもうとしていた手を止めるとシルヴィは視線を上げた。
 男は相変わらずこちらを見据えたまま、まるでまばたきすらしていないように思えた。先程からシルヴィの一挙手一投足を見逃すまいと監視でもしているようだった。
 レオからシルヴィの様子をしっかりと確認してくるようにとでも念押しをされてきたのだろうか?
 シルヴィには一度も会った事のないレオが自分に関心があるとは到底思えなかった。ひょっとして、手紙を読んで取り乱す事でも期待されていたのか?であれば残念ながらその期待には添えなかったことになる。

「紛争地にいる婚約者から便りが届いたと聞いて私が真っ先に思い浮かべたのが何だったのか──お分かりでしょう?」

 ここにきてはじめて使者は困惑の表情を浮かべると、返事の代わりに自らの左腕にそっと手をあてた。左腕の袖から見えるのは真新しい包帯──この男も北から戻って来たばかりなのかもしれない。もしかしたらレオの傍にずっと付き従っていたのだろうか。

 北の隣国との紛争地帯から帰還中の部隊はここ数日訪れた少し早めの寒波のせいで足止めを食らっていた。積雪に見舞われた道中で事故が起き、負傷者が出たようだとの報せはすでにこの街にも伝わってきていた。死者までは出ていないということだったが未だ詳細はわからないままだ。

 シルヴィはテーブルの上にレオからの手紙をそっと置くと、意を決した。知らず握った拳に力がこもる。

「手紙を書くことができるくらいですし、レオ様ご自身はご無事なのですね?」
「……えぇ。」
「そうですか。でしたら何も問題ありません。手紙の件、承知致しましたとお伝えください。」
「え?」

 使者は面食らったように数回瞬きをするとシルヴィの真意を探ろうとしたが、すでに彼女の顔は窓の方を向いていた。

 開け放った応接室の窓から少し冷たい風が入り込んでくる。シルヴィは顔にかかった髪を無造作にかき上げると窓の外に広がる庭園に視線を泳がせた。
 この使者が訪ねて来るまで、シルヴィは庭師と共にそこで花の手入れをしていた。今はもう庭師はどこか他の場所に移動してしまったのか、姿は見えない。

 婚約してから一年。便りの一つもなかった婚約者からの最初で最後の手紙──それは婚約解消を告げるものだった。

「……もっといろいろ聞かれるかと、ある程度覚悟を決めて来たのですが。」

 男が言い訳をするようにそう呟いたのが聞こえた。そう言いながら当の本人も僅かながら笑みを浮かべているように見える。いわゆる苦笑いだろう。

「そうでしたか。ご期待に添えませんでしたね。」
「えぇ、本当に。失礼を承知で申し上げますと、貴方は今まさに婚約解消を一方的に告げられた方のようにはとても見えません。少しだけ安心しました。」

 シルヴィは使者のその言葉にテーブルの上の手紙を一瞥した。

「手紙の内容までご存知でしたか。」
「はい。」

 使者は躊躇う様子もなく頷いた。窓から吹き込んだ風が男の栗色の髪を揺らした。シルヴィよりも少し年上というところだろうか?長旅の末この手紙を伯爵家まで運んで来たにしては随分と身綺麗な格好をした使者だった。
 男はまだシルヴィからの言葉を待っているかのようにこちらを見ている。その様子が従順な犬のように見え、少しだけ可愛らしく思えてきた。

「貴方はずっとレオ様のお側についていらしたのですか?」
「そうですね、他の者よりは長いと思います。ですから何でも聞いてくださって構いませんよ。」
「では、私が名ばかりの婚約者であったこともご存知でしょう?」
「まぁ……。」
「私は貴方と違ってレオ様のことは何も知りません。お会いしたことすらないんですから。そういう約束でしたし。」

 今度は男の方が驚いたようだった。シルヴィの言葉に不思議そうに首を傾げながら小さく頬を掻いた。

「そこまでは知りませんでした。会ってはいけないという約束だったのですか?」
「いえ、そうではなくて。成人されるまでという期間限定での婚約──」

 そこまで口にして、シルヴィはふと自分が喋りすぎていることに気がついた。いくら相手が侯爵家からの使者でレオに近い者だとはいえ、自分がこれ以上説明する必要はないだろう。
 シルヴィは小さく咳払いをすると、両手で意味もなく腕を擦った。

「──とにかく、もう終わった話ですし。レオ様が無事に帰還されるのならばそれですべてが元通り、です。」
「元通り──でしょうか?」

 それきり二人の間には沈黙が落ちた。『何が』元通りになるのか……こちらからそれを聞くべきだったのか、シルヴィには最後まで分からなかった。


 レオからシルヴィ宛に名入りの指輪が届いたのは、その翌朝の事だった。
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