四角いリングに恋をして

根本宗一郎

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一章

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 あてがわれた部屋は凡そ六畳一間の、二人の人間が過ごすには非常に狭い部屋だった。二人が寝る為に設置された二段ベットが部屋の大半を占めており、しかもガラス窓には暗幕が垂下げられ外が見られないようにもなっている。時計等は壁に掛けられておらず、ましてやテレビ等は置かれていない。極めて殺風景な風景である。「そこは絶対に開けるなよ」と言って社長はガラス窓を指してから部屋を出て行った。社長とは埼玉県さいたま市浦和区にある浦和アカデミックプロレスの社長兼エースレスラーであるストロング西川の事だ。何を隠そう、ここは浦和アカデミックプロレスの練習生や所属レスラー専用の寮なのである。場所はさいたま市浦和区の田園地帯の中である。寮の隣にはリングが設営されてある練習場の倉庫がある他には田んぼしか見当たらない。六月になったばかりと云う季節もあるのだろうが、聞こえてくるのはガマガエルの鳴き声だけである。翌日から自身の泣き声も加わる事等露知らず沢本達也は「何だかとんでもない所に来ちまったな~」と思った。早くも後悔の二文字が頭に浮かんできそうである。
するとそんな事を考えている達也に隣にいる190cmはあろうかと云う長身の男が「岡田晴夫です。日本体育大学のレスリング部出身です。今年で二十三歳になります」と告げてきた。岡田は182cmある達也から見ても見上げるような偉丈夫である。その「日本体育大学レスリング部出身」と云う言葉にビビりながらも達也は「よろしくお願いします」と大きな声で返した。体育会系の人間には取り合えず大きな声で挨拶をしておけば、トラブルにはならないと云う予備知識があった為だろうか。こうしてしっかり挨拶さえしておけば今日の所は他に何も聞かれる事もないだろうと踏んだのである。初対面の岡田はそのガタイの良さ故に少し怖かったのだった。達也は挨拶を返す事が出来て正直ほっとした気分だったが、岡田は追い打ちを掛けてきた。「沢本君だっけ。見たところ俺より年下のようだけど、何歳なの?もしかして今年高校を卒業したばかり?」と聞いてきたからである。それに達也は「いきなりタメ口かよ、年下である事がバレたからなのかな?」と狼狽したものの、本当の事を今言う事はプライドが許さなかったので、仕方なしに「そうです」と嘘を付いた。実際は達也は高校中退者で、先月の末に十八歳を迎えたばかりだったのである。

 達也が高校を中退したのは昨年の夏休みの事だった。詰り高校二年生で中退した形だった。中退した理由は色々あったが一番大きな理由は勉強についていけなくなった事だった。達也は一応文系を選択していたものの、英語も国語も日本史も世界史も赤点を続出させ目も当てられないような悲惨な成績を取ってしまっていた。高一から高二には何とか進級出来たものの高二から高三にはその成績の悪さからどういっても進級する事が出来なかったのである。高校は一応進学校だったから偏差値も高い学校で、達也のように一般入試を経ずに推薦入試で入学した生徒は入学後に成績が振るわないケースが多々あるが、漏れなく達也はそのケースに当てはまってしまったと言えるだろう。おまけに部活動にも入っておらず帰宅部だった事もあり、早々に学校生活に見切りを付けてしまった形だった。そして中退した後の生活は自堕落を極めてしまった。達也はオンラインゲーム等はしなかったが、パソコンでネットサーフィンをする事は好きで深夜までやり込んでしまう質であったので、直ぐに昼夜逆転の生活となり家に引きこもりがちにもなってしまったのである。なので達也はこのまま何十年も引きこもって中年になってしまう恐れもあったが、ここで僥倖にも一つの光明が差したのだった。
 それはプロレスだった。達也はネットサーフィンをしている中でYOUTUBEを観ていた際に昭和の新日本プロレスや全日本プロレスの試合を偶々見つけてしまったのである。達也はそれまでプロレスの試合をテレビ等で観た事がなかった。しかしそれは当然の話で平成四年生まれの達也はゴールデンタイムにプロレス中継が流れていた時代には生きていなかったからである。達也が先ず夢中になったプロレスラーは有名なアントニオ猪木を別格とすればタイガーマスクだった。初代は新日本プロレスに二代目は全日本プロレスにいたのだったが、達也が魅せられたのは二代目の方だった。確かに身軽な四次元殺法は初代の方が上回っていたと思ったが、ヘビー級にもかかわらず重量感溢れるファイトも出来るし、空中殺法(初代にはどうしても劣ってしまうが)も駆使出来る二代目タイガーマスクの方に達也は魅力を感じていた。だがその二代目のタイガーマスクの覆面を被っていたプロレスラーは残念ながら達也が高校を中退する直前にリングで事故死していたので、達也はそれを知った時酷くがっかりしたものだった。

 そうして遅ればせながらプロレスファンとなった達也は自然と部屋を出て外へと行くようになっていた。それは本屋でプロレス雑誌を立ち読みする為である。そこで達也は週刊プロレスや紙のプロレス等を読み込むのであった。そのうち立ち読みだけでは飽き足らなくなった達也はプロレス雑誌を購入しようとしてアルバイトに精を出し始めた。高校を中退した以上両親は達也に働く事を促しており、お小遣い等くれなくなっていたからである。交通誘導の棒振り、引っ越しのアルバイト等々学歴不問で就けるような肉体労働系のアルバイトが中心だったが、長く続いたのは地元の読売新聞の新聞配達でこの浦和アカデミックプロレスの練習生となるまで凡そ半年間程そこで働いたものだった。稼いだお金は全てプロレス雑誌やプロレス観戦のチケット等へと消えてゆき、沸々とプロレスラーになってみたい等と身の程知らずな考えにもなっていくのである。

 数あるプロレス団体の中で何故この浦和アカデミックプロレスを選んだのかと言えば、理由は大きく二つあるが一つは自宅がある東京都東村山市から近すぎず遠すぎずの程よい距離にあった事が挙げられる。要は万が一練習生の生活がキツくて夜逃げしたとなってもその噂が地元までたどり着かないような絶妙な距離だったのである。高校を中退したとは言え彼のメンタリティはかなりの見栄坊に出来ている為それは重要な点であった。もう一つは入団テストが他団体と比べて遥かに楽であり、合格し易そうだった点が挙げられる。達也としても新日本プロレスや全日本プロレス等のメジャー団体に入団したかったが、そうした団体はアマチュアスポーツの実績が考慮される上に入団テストの内容が例えばヒンズースクワット二千回と云ったようなかなり厳しいものだと知って早々に諦めた形だった。その点浦和アカデミックプロレスの入団テストの内容はヒンズースクワット五十回に腕立て伏せと腹筋と背筋共に三十回と云うような生易しいものであったし、未成年の場合はその若さを重要視されて難なく入団出来ると云ったような噂をインターネットの2ちゃんねるの掲示板で知ったので達也はあっさりとこの団体の入団テストを受けたのだった。中学生の頃は水泳部に入部していた為それなりに筋トレをしていたが、高校に入学して以降は帰宅部となってしまっていた事もあり、入団テストに向けて身体を鍛える事はそれなりに骨が折れたものの結局入団テストでは既定の回数をこなす事が出来たので無事に合格する事が出来たのである。そしてその日同じテストを受けたのが先の岡田晴夫で、岡田も当然のように既定の回数をやり遂げて晴れて二人は同期となったのである。

 翌日午前六時頃に二人は起床した。因みに達也は二段ベットの上で寝ていたが、これは達也が岡田に「上で寝たい」と言って懇願した末に決まった事だった。一人っ子であり両親に溺愛されていた達也は小学五年生の頃から一人部屋をあてがわれていたがそこは和室であり、従ってベット等設えようもなく彼はずっと布団で寝起きをしていた故にベット、それも二段ベットで寝る事は夢のまた夢であった為、どうせなら二段ベットの上で寝てみたいと以前から思っていたのだった。しかし達也のこの決断は後々強い後悔となって達也を苛んでいく事となる。  
そもそもこの浦和アカデミックプロレスは社長兼エースであるストロング西川を含めて七人のレスラーが所属していた。はっきり言ってプロレス団体として見た場合には比較的小さな団体であり、その中には未成年の女子レスラーも含まれていた。まずセミファイナルの位置を占めるのは中堅レスラーであるサバイバル原口とミスター・ホーだ。サバイバル原口は今年二十五歳になるジュニアヘビー級のレスラーで昨年には新日本プロレスのベスト・オブ・ザ・ハイパージュニアに出場し見事準優勝の成績を飾っている。今年もそのベスト・オブ・ザ・ハイパージュニアに出場が決まっており、優勝を目指して日々特訓中の、人気実力共にエースであるストロング西川に追随している急成長株だ。もう一人のセミファイナルの位置にいるミスター・ホーはベトナム人レスラーで今年二十八歳になるのだと云う。因みにリングネームのホーと云うのはミスター・ホーの出身地であるベトナムの大都市のホーチミンから取られたらしい。いずれはベトナムでプロレス団体を興したいと云う野心を抱いて日本にプロレス留学をしに来たのだ、とか。そしてその二人の次にプロレス歴が長いのが覆面レスラーのカンフーマスクだった。カンフーマスクと云う名の通り覆面のデザインは有名なウルティモ・ドラゴンと獣神サンダー・ライガーを融合させて、中国風の色彩を濃く施したものだった。達也は週プロの記事等でカンフーマスクを知って以来てっきり中国人が覆面を被っているものだと思っていたが、実際に浦和アカデミックプロレスに入ってみると周囲の人間はカンフーマスクの事を「坂本さん」と呼んでいるので、どうやら日本人のようである。後の残りは新人レスラー三人で、中卒で浦和アカデミックプロレスに入団し昨年末にプロデビューした達也と同い年の柴田優に、大相撲を野球賭博問題で廃業した元十両力士の相模川と浦和アカデミックプロレス唯一の女子レスラーである十七歳のプリティ大山(プリティなどと名乗っていたが、正直あまり可愛い娘ではなかった。丸顔に平べったい目と短い鼻が付いており、ぱっと見豚を想起させる顔付であった。だから蔭では皆プリティ大山の事をピッグ大山と呼んでいた)だった。最も相模川の場合は元十両力士の経歴が評価された為に練習生期間は僅か一ヵ月で、且つデビュー戦はメインイベントと云う厚待遇であったので厳然たる新人レスラーは柴田勝とプリティ大山の二人だけだったとも言えるだろう。

 起床した二人は台所で簡単な朝食(食パン二枚だけである)を済ませた後にリングが設置されてある倉庫の中の練習場へと向かった。掃除をする為にである。取り合えずリングの中をロープも含めて埃一つない程に雑巾で拭き掃除をするのである。しかしこの段階で既に達也は嫌気と飽きが頭をよぎり出していた。自分の部屋でさえ普段掃除等しない達也にはそれは飽きてしまうに十分な程退屈な作業であったからである。やがて一時間程で掃除を終えたら次は先輩レスラーの朝食作りが待っていた。具体的に言うとちゃんこ鍋を作るのである。作り方を教えてくれるのは元十両力士の相模川である。今回は相模川が所属していた二所ノ関部屋直伝の肉団子の水炊き鍋だった。大雑把に切った白菜や大根と共につみれのような形にこねた肉団子を鍋に投入して煮詰めるのである。達也はちゃんこ鍋はおろか味噌汁さえ自分では作った事がない青年であった為、相模川から教えられる水炊き鍋の要領を直ぐには理解出来ず、肉団子も程よい大きさにこねる事が出来なかったので相模川の不興を買った。「兄ちゃん、新弟子とは言え俺がいた部屋でそんな頓珍漢なちゃんこしか作れないようじゃ直ぐにぶつかり稽古だぜ」等と笑いながら相模川は言ったが、達也はその相模川の語気と「ぶつかり稽古」と云う恐ろしそうな内容に怖気づいて全く笑えないのだった。その点同じ作業に従事していた岡田は大きな身体を屈めて器用に大根を切り刻むし、肉団子も相模川が要求するような程よい大きさにこねていたので相模川にとっては何ら問題はないようであった。

 やがて最終的に相模川がちゃんこ鍋の仕上げをして朝食は出来上がった。これをカンフーマスクを除いた所属レスラーが食すのである。そしてその間新弟子である達也と岡田は突っ立たまま先輩レスラーがちゃんこ鍋を食べ終わるのを待つのだ。はっきり言って先輩レスラーは神、練習生は奴隷と云うような酷い扱いである。しばらくすると六人の先輩レスラーが台所の食卓に揃いちゃんこ鍋をつまみ出した。達也も岡田も起床してから食パン二枚を食べただけであるので、先輩レスラーがちゃんこ鍋を食べている様子を見ながら突っ立っているのは半ば拷問のようなものだった。すると達也の近くにいた同い年の新人レスラーである柴田優が「新弟子、来い」と呼びかけてくる。どうやら岡田ではなく達也を呼んでいるようだった。達也は命令通りに近付くと柴田は茶碗におかわりのご飯を盛り付けてくるように要求してきた。達也は「てめぇで、自分で盛り付けろよ」と内心思ったものの新弟子と云う立場上逆らう事は許されないので素直に従い茶碗にご飯を盛り付けたのだった。それでそれを柴田に手渡すとてっきり柴田から「ありがとう」等と言われるものだと思い込んでいたが、柴田は「下手な盛り付け方だな」等と無礼な事を言って来、また名前を聞かれたので自己紹介をすれば、「お前のリングネームはヘタクソモリツケマシーン沢本で決まりだな」等と意味の分からない事も言ってくる。その瞬間達也は「絶対にこの団体で柴田を相手にプロデビューをして完膚なきまでに柴田を叩きのめしてやろう」と誓うのだった。

 先輩レスラーがちゃんこを食べ終えてからは残り物のちゃんこ鍋を岡田と二人で食べて腹を満たした。残り物とは言えちゃんこ鍋を食えた事は空腹だった事もあってこの上なく幸福な気分にさせられた。それからは食器と鍋をこれもまた岡田と二人で洗った後では、いよいよ倉庫のリングで練習が始まった。まずはヒンズースクワットである。それをストロング西川が見守る中達也と岡田は五百回をこなす事を命じられた。ただ他の先輩レスラー達は二千回である。二人共新人と云う事で幾分優しい特別メニューとなったのだった。けれども前日まで自宅で怠けた生活を送っていた達也にはそれは酷く負荷が掛かる運動だった。入団テストが行われた日から寮に入寮する日まで約二週間があったものの彼はヒンズースクワットを五百回も続けてこなせるまで鍛え込んでいなかったからである。達也はその期間に身体を鍛えなかった事を後悔した。やがて百五十回を連続で行い終えたところで達也は足の裏に焼けつくような痛みを覚え始めた。まるで高熱の鉄板の上に裸足で立たされているような、そんな痛みである。

 そして三百回を越え始めると今度は両方の太股がやや痙攣し始めた。それに伴って腰を下ろす速度も自然と遅くなっていく。とここで目の前で竹刀を片手に突っ立っているストロング西川が「オラァ、沢本!なんだそのヒンズースクワットはぁ!もっと気合入れろ!」と活を入れた。要するにペースが遅くなっているからもっと速くしろとの事である。そんな達也は横で同じようにヒンズースクワットをこなしている岡田のペースはどうなっているのか?と不思議に思い盗み見てみれば、岡田は息を特別切らす事もなく当初のペースでヒンズースクワットをしているではないか。「やはり日体大のレスリング部出身と云うのは伊達じゃないって訳か」と達也は見上げた思いだった。結局三十分程掛かって五百回をこなし終えると顔中汗まみれでTシャツも一面シャワーを浴びせかけられたぐらいにびしょ濡れで両脚は立っているのがやっとな程ダメージを負っている。

 ところが当然練習はここでは終わる事はなく次はベンチプレスへと移っていく。先ず台に仰向けになってバーベルを上げるのは岡田だった。両側に重りを付けてくれるのはサバイバル原口で「百キロは上げられるか?」と岡田に尋ねれば、岡田はそれに対し「出来ます」と威勢よく答えるとその返事通り難なく百キロのバーベルを天井に向かって持ち上げ、またその際の岡田の表情には何ら苦悶がなかった故サバイバル原口は「どうだ?あと二十キロは上げられるか?」と促したのである。そこには半ば弄ぶような含みがあった。だが岡田はこれにも動ずる事はなく「出来ます」とだけ答えてサバイバル原口にニ十キロの重りを付けてもらい、見事それを上げ切った上に最終的に岡田はこの日百三十五キロまでバーベルを上げたのだった。達也はこの偉丈夫の怪力に思わず驚嘆してしまった。代わって今度は達也の番となったが、当然達也が百三十五キロも上げられないと見たサバイバル原口は「何キロなら上げられそうだ?」とぶっきら棒に尋ねてきた。これに達也は本当は「六十キロ」と言いたいところだったが見栄を張って「七十キロ」と答えるとサバイバル原口は「何だ。お前は八十キロも上げられないのか、七十キロなら絶対に上がるだろ。もし上がらなかったら罰ゲームだぞ」と脅してくるではないか。その時のサバイバル原口のニヤっとニヒルに笑った表情が不気味で達也は一気に緊張してしまい、それで彼は台に仰向けになって七十キロのバーベルを上げようとしてみたが、案の定上げられずにサバイバル原口の不興を買う始末で結局罰ゲームとして腕立て伏せを五十回連続して行う事を命じられたので、達也は途中からは半泣きの状態となってまで腕立て伏せを行わなければならなかったのである。自分の非力さにがっくりすると共に十八歳になっているのにも拘わらず、泣いてしまった事実に加えて岡田とのポテンシャルの差にも打ちのめされ、達也は一層情けなくなるのだった。

 顔面に滴った涙と汗が混ざった液体をタオルで拭き終えた後はリングに上がって受け身の練習に移った。ルーティンは前転、前受け身、倒立受け身、側転、後ろ受け身の順である。ただ達也は体重が八十キロもなかった為すんなりと倒立受け身(一度倒立してから受け身を取る)が出来たが、既に百キロ越えのヘビー級の肉体を完成させている岡田には倒立受け身は至難であるらしく、倒立をしようとしているのだろうが結局両脚が天高く伸び上がらずに前転しているだけなのでサバイバル原口からは「腕を踏ん張って両足をしっかりと伸ばせ」と執拗に注意されていた。これに少しの安堵と余裕を感じた達也だったが、それは束の間の事で最後の後ろ受け身を取る番になると立ったままの状態から勢いよく後ろに背中から倒れ込むその受け身が怖くて出来ずにまたサバイバル原口の不興を達也は買ってしまった。「両脚の膝を曲げてから後ろに倒れるんじゃない。ピンと脚を伸ばしたままの状態で後ろに倒れるんだ」と注意されるのだったが、何度やっても達也は膝を一旦曲げた状態で後ろに倒れ込んでしまうのである。簡単な話でそうした方が倒れ込む落差が低下する為に怖くなくなるからだ。その点ここでも岡田は達也とは異なり立ったままの状態で両脚が天井に向けて一直線に抜けるような形で勢いよく後ろに倒れ込んで受け身をすんなりと取る等高い順応性を見せている。それにサバイバル原口は「君は確か岡田と言ったか。岡田君は身長も高いし、基礎体力も付いていて頼もしいな。後は倒立受け身さえ出来れば今のところ文句なしだ。我が団体のホープかも知れないな」と早くも太鼓判を捺す始末である。

 一通り受け身の練習を終えると今度はリングの上でスパーリングを行う段階となった。しかしこのスパーリングは所謂アマレスに寝技や関節技を組み合わせた「シュートレスリング」と呼ばれるものであった為、履歴書の経歴に「アマチュアの格闘技経験なし」と記載した達也は見学するようにとサバイバル原口に言いつけられた。団体としては達也を格闘技の素人と見做し、いきなり実戦形式の練習には参加させたくなかったのだろう。ネット社会の今、練習生がプロレス団体で怪我をした場合にそのプロレス団体の悪評をインターネットで拡散する事は容易くなっていた為、それを浦和アカデミックプロレスは恐れたのかもしれない。前日には達也と岡田が所持していた携帯電話さえ入寮の際にストロング西川に没収されてしまったぐらいなのだから。それで先ずリングに上がってスパーリングを行ったのはストロング西川とサバイバル原口だった。彼らが約五分間スパーリングを手本として見せるのである。それをリングの周りで達也、岡田、柴田、相模川、ミスター・ホー、プリティ大山が見守る形だった。始まってみると攻勢に出たのはストロング西川でサバイバル原口をテイクダウンさせた後に寝技や関節技に移行しようとしている。それをサバイバル原口はガードポジションを取って極めさせないように悪戦苦闘していた。ただそれも限界はあるようでストロング西川との体重差が十キロ近くもあるとどうしてもストロング西川の身体が簡単にサバイバル原口の身体に覆い被さってマウントポジションを取ってしまうのである。やがてサバイバル原口のガードポジションが崩れた一瞬を見逃さなかったストロング西川は電光石火の如くサバイバル原口の右腕を掴み取り、自身の身体を大きく捻らせて腕ひしぎ逆十時固めを極めてタップを奪ったのだった。そしてまた立ち上がった二人は再度スパーリングを始めたが相変わらずストロング西川が圧倒していたし、間もなく五分間に設定してあったタイマーも鳴ったのでそこで終了となった。

 この一部始終を見て気圧されたのは達也だった。だがそんな達也を尻目に岡田がいきなり「次は僕が相手をしてもらってもよろしいでしょうか?」と言ったのである。これを聞いてストロング西川は「良い心掛けだな。でも言い出したからには簡単に極められたら承知しないぞ」とギロリと岡田を睨み付けながら零し、サバイバル原口に岡田の相手をするように指示して、向かい合った二人は一度握手をしてからストロング西川がレフリー役となりスパーリングが始まったのだった。岡田の生意気と取られても仕方ない発言もあり、どことなく緊張感が漂いながらスパーリングは進行したが、攻防は始終膠着状態に落ち着いた。二人共交互にマウントポジションを取る為に、決定打としての関節技や寝技がなかなか決まらないのである。しかもお互いスタミナがある為にどちらかがばてて隙を見せると云ったような展開が見られない。これにイライラしたのか、ストロング西川が「原口!さっさと極めろやぁ!」と怒声を浴びせてから竹刀でリングのマットを思いっきり叩いた。おそらくストロング西川としては社長と云う立場上、新人が売り出し中の看板レスラーに勝つような事があっては浦和アカデミックプロレスの沽券に関わるとでも思ったのだろう。非常にストロング西川は激しい怒りを見せているのである。

 ただ結局のところサバイバル原口が残り三十秒と云う段階で岡田の事を三角締めで締め落としたのだったが、ストロング西川の怒りは収まらずスパーリングを終えて息を切らしかけてしゃがんでいるサバイバル原口の背中を竹刀で激しくぶっ叩いたのだった。そして「原口、てめぇは去年のベスト・オブ・ハイパー・ジュニアで準優勝したからって調子に乗るんじゃねぇぞ。こんな新人を簡単に極められないようじゃ、実質前座レスラーと一緒だ。ちょっと人気が出たからってセメントの練習を怠るんじゃねぇ」と言い、素早くジャージの上着を脱ぐとTシャツ姿になって「来い」と岡田に申し付けるのだった。どうやらこれからストロング西川が岡田とスパーリングをするようである。一方の岡田はサバイバル原口とのスパーリングを終えて一息付きたそうな様子だったが、仕方ないと云った表情をしてそれに素直に従った。それで始まってみるとやはりストロング西川が終始岡田の身体を抑え込み圧倒していった。しかも様々な関節技を駆使してタップを奪ってからもお互いが立った状態に戻る事もなく、ストロング西川はあの手この手を使って岡田からタップを奪い続けていった。これは所謂プロレス界伝統の「かわいがり」と呼ばれるしごきの一種である。「かわいがり」はしごく相手が一方的にしごかれる相手を攻め続けて、恐怖心を与えるものなのである。はっきり言って一歩間違えればいじめと同様の練習なのである。そのうちストロング西川はばて始めている岡田の鼻や口を手で塞ぎ呼吸困難にさせた。堪らない岡田はまるで陸地で跳ね回る鮭のように激しく動いたが、ストロング西川は全く容赦する事なく攻め続けていく。遂に岡田は大きなうめき声を上げ始めた。やがてようやく五分間が経った事を告げるタイマーが鳴り響くとストロング西川は岡田の身体から密着させていた自身の身体を素早く引き離した。当の岡田はまるで敗残兵のように息も絶え絶えと云った様子で跪いている。ストロング西川はそんな岡田に対して一言「岡田、お前はアマレスの世界じゃそれなりに実績を残したようだが、プロレスでは通用しねぇからアマレスの事は全て忘れろ。一から出直す覚悟で今日から技を磨くんだ」と言って激励した。

 その後は各自スパーリングを続けたり、ヒンズースクワットや腕立て伏せ等の基礎体力を行ったり、スタミナを付ける為に道場の周りの田んぼ道をランニングしに行ったりする者に分かれた。取り合えず達也と岡田は水を飲んだりして少し休憩した後バーベルを上げる練習に移ったが、達也は何だかモヤモヤした思いを拭い去る事が出来なかった。それは先程の岡田とストロング西川のスパーリングの事だった。ストロング西川の方には岡田の相手に態々サバイバル原口を最初に当てたのはそれにより岡田のスタミナを奪ってから次に自分が岡田とスパーリングをする上で有利になりやすいようにすると云う狡い魂胆があったのではないか?と疑り深かったし、岡田に関してはストロング西川とのスパーリングでも実は全くばてていないのにも拘わらず、ストロング西川や団体に忖度して敢えて何度もタップを取らせるような醜態を演じたのではないか?と達也には思えてならないのだった。しかしその事を両者に確認する訳にもいかないので達也はしばらくバーベルを上げる事で忘れる事にした。
 
 そのようにしてバーベルを上げる練習を二時間程続けてから、達也と岡田は夕食のちゃんこ鍋作りの作業へと入った。因みに浦和アカデミックプロレスでは昼食は食べずに朝夕の二食の食生活となっていた。昼食を食べないのは昼食を食べてしまうとその時間に練習が出来なくなるからである。ただこの食生活に全く慣れていない達也はこの段階で猛烈に腹が減り始めていた。夕食のちゃんこ鍋に関しても教えてくれるのは相模川で今日は豚肉や諸々の野菜を鍋に放り込んでの味噌炊きである。達也は朝と同様豚肉や野菜を切り刻むのに四苦八苦しつつ相模川の指示に従って味噌炊きの手順を覚えていった。やがて味噌炊きが完成するとその匂いを嗅ぎつけた先輩レスラー達が練習を切り上げて台所へと入ってきた。それを受けて相模川がちゃんこ鍋を台所の机に置き、達也と岡田が八人分のお椀をセッティングする。八人分としたのは夕食は朝食の時とは異なり、練習生である達也や岡田もストロング西川や他の所属レスラーと共に食卓を囲む事を許されたからである。ただカンフーマスクは朝食と同様に姿を見せなかった。

 そしてストロング西川が「いただきます!」と大声で言うと皆もそれに和して「いただきます」と言ってから其々味噌炊きちゃんこを好きな量だけ取ってお椀に盛り付けた。生まれて初めて食べる味噌炊きちゃんこの味は達也にとっては堪らないものだった。だしと赤味噌でしっかりと煮込まれた豚肉や野菜は口の中で嚙むごとに旨味を抽出させているようである。また相撲部屋特有の濃い味付けもあってか白飯も進んだ。しかしのんびりとちゃんこを食べているだけと云う訳にはいかなかった。達也と岡田は練習生と云う立場上先輩レスラーがご飯をお代わりする際には自ら率先して炊飯ジャーからご飯を盛り付けなくてはならなかったからだ。達也は一々食事を中断して頻繁に白飯をお代わりする相模川に代わってご飯を盛り付け続けた。一方で達也と岡田にも白飯のお代わりは許されていた、と云うよりも義務として課されていた。具体的に示すと夕食ではどんぶり飯で最低三回はお代わりをしろ、と云うのである。因みにこれはストロング西川からの命令であった。特に達也の場合は十八歳と云う年齢もあって岡田とは異なり肉体が成長段階にあった為体重も七十五キロしかなかった事から早急に増量する事が期待されていた。取り合えず九十キロにまで増やせ、と云うのである。それ故達也は何が何でも白飯を最低三回はお代わりしなければならないのだった。

 そうして何とかノルマのお代わりを済ませた後は酒盛りが始まった。達也と岡田はこれもまた練習生と云う立場から500mlの缶ビール一本だけで許されたものの、生まれて初めてビールを飲んだ達也は思わず不味くて吐きそうになる事を堪えるのに精一杯だった。一方で岡田は既に成人しているし、大学時代に飲み慣れている事もあってか「グイッ」と一気に飲み干してしまっていた。圧倒的なのはストロング西川と相模川で次々に瓶ビールを空にしていく。それに負けじとサバイバル原口や柴田やプリティ大山が缶チューハイを乾杯して飲んでいた。故に机の上に空き瓶や空き缶がどんどん溜まっていくので、仕方なく達也と岡田が率先してそれらをゴミ箱へと片付けているとストロング西川が「おめぇら、プロレスラーは力だけじゃなくて酒も強くなきゃ一流じゃねぇからな。これからはレスリングだけでなく酒でもどんどんしごいていくから覚悟しとけよぉ」とやや呂律が回らない口調で告げてくる。岡田がそれを聞いてどう思ったのかは分からないが、達也は内心「とんでもない所に来てしまったのかも」と早くも浦和アカデミックプロレスに入団した事を後悔し始めた。

 その後手短に入浴を済ませた岡田と達也はあてがわれた部屋へと入っていった。時刻は既に午後十一時を過ぎている。達也は「上を選ぶんじゃなかった」と思いながら筋肉痛の両脚で梯子を昇ってベットへと横たわった。早々に達也は上のベットを選択した事を間違いであったと痛感するのである。けれどもそれは後の祭りといったやつでこの日からしばらく達也は筋肉痛の両脚を引きずって階段を上らなければなくなる等かなり難渋するのだtった。すると部屋の電気のリモコンを持っていた岡田が下から「消しますか?」と声を掛けて来た。要はもう寝るか?と云うのである。達也は眠たかったので「お願いします」と返し、「僕の方が年下なので全然タメ口で構わないですよ」と断った。そして視界から一気に光が消えた。早速真っ暗闇の中で達也は目蓋を閉じたものの、あれだけ眠たかったはずなのにも拘わらずまんじりともしなかった。生まれて初めてプロレス団体の練習に参加したせいか妙な緊張感が付きまとっている為に頭が覚醒して来ているのである。そんな状態に少しイライラしてきた達也は何とはなしに「すいません。岡田さん、起きてますか?」と下の岡田に声を掛けてみた。直ぐに「あ、うん」と岡田は返答してくれる。そこで達也は根掘り葉掘り岡田に気になった事を尋ねる事にした。「やっぱりここの練習は日体大のレスリング部よりは楽ですか?」「いやいや、ここの練習の方が大学のレスリング部よりも数倍ハードだよ」「でもサバイバル原口さんとのスパーリングは拮抗してましたよね?大学のレスリング部のアマレスラーよりは弱かったんじゃないですか?」「全然そんな事はないよ。スパーリングをやってて明らかにサバイバル原口さんが力を抜いているのが分かったもん。手加減してくれてたんだよ」「そうなんですか」「そうだよ」「でもその後社長とスパーリングをしてましたけど、あれは社長や団体の顔を立てる為にわざと負けたんですか?」「何を言っているんだよ。あれは完敗だったよ。本当に手も足も出なかった」岡田はやや語気を荒げてそう言った。「そうでしたか。それは疑ってすいません。あの時は本当は岡田さんは社長に勝てるのにわざと負けたように見えたんです」達也は本心からそう言った。「そうか・・・・。それは嬉しいけど、俺はそんなに強くないんだよ」「そうなんですか。でも日体大のレスリング部に四年間も在籍していたぐらいだからよっぽどタフなんだと思いますよ」

 達也はここに至って急に眠たくなってきた。岡田の素直な告白を聞いた事もあり緊張の糸がやっと切れてきたのだろう。「いやいや。高校でもアマレスをやってたし、その延長線で続いただけだよ。同期の強かった奴らは自衛隊や実業団に入ったぐらいだし・・・・」「そうなんですか」「俺も本当は航空自衛隊に入ってパイロットになりたかったんだけど、身長が190cm以上あるから入れなかったんだよね。身長規定に引っ掛かってしまってさ」「そうなんですか」達也は最早ウトウトしすぎて「そうなんですか」としか言えなくなっていた。本当は色々と航空自衛隊の事について深掘りして聞きたいのにも拘わらずそれ以外の言葉が全く出てこないのである。「沢本君はそもそもなんでこの浦和アカデミックプロレスに入ったの?」「・・・・」限界を迎えた達也は夢の世界へと旅立った。
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