転職に失敗したおっさん、異世界転生し事務職無双する

ほぼ全裸体のハシラジマ

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おじさん、異世界に転生する

油の海と紙の山 前編

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 村は相変わらず、黒い湖だった。
 驚きはもうない。鼻は慣れないけど、心はもう次の段取りを見ている。
 ここは暮らせない。移転前提。その結論だけは、到着の時点で固まっていた。

「師匠、風向きは北東。避難所はあっちが安全です」
 リンネが手早く指さす。
「看板、立入禁止、赤で。油の上には絶対に入らない。ハンナさん、お願いします」
「任されたよ!」
 ハンナおばちゃんの声が飛ぶ。

ロープが張られ、杭が打たれ、動線が一気に整った。
ゴブリン三人は……看板に『文化注意』と書いた。文字は元気。意味は謎。

「危険に直してね」
「危険文化!」「了解文化!」「筆文化!」
 ファルコ・フライハイルは携帯板にさらさらと書き足す。
 常住不能判定/除害未定/生活再建移転。
 ――独り言は専門用語で短く。けれど口に出すときは、分かりやすく。


「みんな、聞いてください」
 広場(だった場所)に人が集まる。
 顔はすすけ、目は赤い。
「ここで暮らすのは、もう難しい。引っ越し先を用意して、次の生活に移りましょう。食べるもの、寝る場所、仕事の段取り――国と協会が責任を持ちます。今日はまず、身体を休めること。それから誰が何を失ったかを紙に残す。順番は、命→寝床→明日のごはん。補償は逃げません。だから、今は落ち着いて」
 沈んだ空気が、ほんの少しだけ緩む。

「師匠、名簿、始めます」
「頼む。世帯ごとに代表を」
 最初に手を挙げたのは、泥だらけの農夫。
「うちの畑、全損です」
「見ました。畝の数・品目・面積、全部メモします。被害は数字で残す。そこから出るお金は紙が通り道。だから、今は書いて、渡してください」

 次いで、小柄なホビットの夫婦。
「うちの家、踏みつぶされましてね……」
「確認済みです。家の再建は移転先で。家財は、拾えるものを拾い、足りないものは現物か代金で補います」
「ところで、工具箱が……」
「ううん……。見当たらなかったので代わりの工具は協会備品から貸与。新品の手配も急ぎます」
 一瞬、ジョジョたちが振り回してたなぁなどと脳裏をよぎる。
 見なかったことにしよう。


 草原の外れから、牛の声。
「逃げ牛、三頭発見!」
 リンネが走る。
「耳票の家名を確認して返却します。塩、持っていきます」
「塩文化ー!」

 若い冒険者たちは、ちょっと離れて固まっていた。
「危なかったんだぞ! あのデカブツ、こっち来たらどうすんだよ!」
「君たち、無事でよかった。お茶出すから、座ろう」
 ファルコは短く受け止める。
「目撃証言を紙に書いてくれる? 見た順番だけでいい。危険手当は出せないけど、記録は役に立つ。あと、悪いけど火事場漁りは禁止。係の子が見てるからね」
「ぐ……はい」
 斜面の方から腕章の若者が駆けてくる。
「丘の側面、大穴! 崩れやすいです!」
 ファルコは即答した。
「危険線を二重。景観は評価不要、崩落リスクだけ記録。立入は許可制。呼び名は旧坑道跡。村の人は地竜の巣って呼ぶかもしれないけど、公文書は中立語で書く」
「地下の巣はどうするんだい?」
 ハンナおばちゃんが目を細める。

「封鎖。協会の保安封印で入口だけ塞ぐ。調査は後回し。今は人命と生活。……それから、帝国の関所前での爆発について、事故としての報告書を出す。ハンナさん、帝国の知り合いにこちらは敵意なし。被害と経過を開示するって伝えてもらえますか」

「いいとも。向こう、おばちゃんに借りがあるからね。話は通るよ」
 段取りが一段落したころ、砂塵を割って早馬が到着した。封蝋は協会。差出人は――


 室長殿
 
 全権委任。現地で最善を。万一を想定し帝国窓口は調整中。
  追って書式を送る。――シエル・ラッセル


「……うん。丸投げって、こう書くんだな」
 ファルコが封をたたむ。
「つまり、ケツ持ちは協会ってことだ。やりやすくは、なった」
「師匠、胃薬、持ってきます?」
「後ででいい。今は紙だ」

 紙は命綱。
 ここを雑にすると、明日、誰も助けられない。
   ファルコは机を借り、ペンを走らせた。

 ――初動まとめ(住民向け)

  ・今日は命・寝床・ごはん。補償は逃げない。
  ・立入禁止の中へ入らない。油は燃える・滑る・臭う。
  ・牛は耳票で持ち主を確認し、返却簿に記入。
  ・家の壊れ方、畑の品目と広さ、図で描く。写真の代わり。
  ・引っ越し先候補は明日、下見隊が見に行く。水場と道と風を優先。
  ・困ったら、赤腕章の係か、リンネに声をかけて。


 ――役所向け・要約

  ・事案は機械竜の暴走→着火爆破で鎮圧。
  ・帝国側の被害なし。事故として共有。
  ・住民の常住は困難。集団移転を前提に支援を要請。
  ・危険物(未精製石油)については現地保全で対応。回収・処理は後段計画。
  ・旧坑道跡(地下工房)は保安封鎖。二次探査は要許可。

「切っても切れないのか。法とか税制とか」
 事務屋10年といえども経理は苦手分野。
 ため息をつきながら書簡を手に取る。
「ジール=バルナークかい?」
 ハンナおばちゃんが覗き込む。
「財務と法。来てもらう。日当は高めに書く。断られない額で」
「いい判断だねぇ」

 そこへ、リンネが帳面を抱えて戻る。
「世帯名簿、仮。八十七世帯。うち、住居喪失が四十六。畑はほぼ全部。……それと、若い冒険者の一人、悪夢で手が震えると言ってました。お茶と毛布で落ち着きました」

「助かる。精神の傷も記録。補償の枠には入らないかもしれないけど、忘れないことが大事だ」
 夕刻、炊き出しの鍋が湯気を上げる。
 風上に並ぶ子どもたち。スープをすする音。笑い声がちょっとだけ戻る。
 その横で、ゴブリン三兄弟が「文化鍬」で泥をすくっては、バケツに入れている。
 「それ、文化鍬じゃなくてスコップね。ありがとう、助かるよ」
 「スコップ文化!」

 日が落ちると、紙の束はさらに厚くなった。

  被害届A(家)/被害届B(畑)/家畜返却簿/立入許可票/危険線図/炊き出し台帳/早馬控。
  リンネは黙々と袋綴じにし、ハンナおばちゃんは焚き火の横で危険・入るなの札を量産する。字がでかい。迫力がある。

「師匠」
 リンネが湯気の立つ湯飲みを差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」

 湯飲みが列をなし、また戻る。作業は止まらない。
「はい、次」
 ふと、ファルコは丘の黒い影を見る。
 地竜が突き破った側面の大穴。夜の闇に口を開ける新しい迷所。
 あそこをどう扱うかは、明日の議題。今日の議題は、紙の上にある。

 ――移転候補地。
 王国側の予備地、旧街道沿いの高台。水と風と日当たり。地味でいい。安全で、飢えない場所。
 落書きみたいな地図に、ファルコは丸をつけた。

「おばちゃん、明日、下見隊を出します。ハンナさんは現場統括。リンネは名簿と記録の続き。ゴブリンは文化を標準語に直す班」
「了解だよ」
「了解です」
「標準文化!」

 夜更け。

 書類は積まれ、焚き火は小さく、星は静か。

 黒い湖は月を映さない。
 
 でも、机の上の白い紙が、火の色でほんのり金色に染まっていた。
  紙は冷たい。けれど、ここでは灯りになる。
 協会からの全権委任の紙は、そっと一番上に置いた。

  見た目は軽い。中身は重い。
 だが、ここに置いておけば、誰でも持てる。手続きとは、そのためにある。

「――明日は、移転の段取りです」

  ファルコ・フライハイルの声は、疲れているのに、よく通った。


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