貴方との婚約は破棄されたのだから、ちょっかいかけてくるのやめてもらっても良いでしょうか?

ツキノトモリ

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第十話

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 リンドンは薄暗い部屋のベッドで目を覚ました。頭が重く、喉がカラカラだった。窓から差し込む光は弱々しく、カーテンがわずかに揺れている。枕元には水差しとグラスが置かれていたが、誰もいない。屋敷のいつもの喧騒が感じられず、異様な静けさに彼の胸がざわついた。

「……ここは、どこだ?」

 彼は呟き、身を起こそうとしたが、体が鉛のように重かった。貴族の集まりで倒れた夜の記憶が断片的に蘇る。アメリアの告発、エルザの名前、突然の激痛――そして、闇。リンドンは額を押さえ、記憶を整理しようとしたが、頭の中は霧に包まれたようだった。

 扉が静かに開き、医者らしき男が入ってきた。男はリンドンの目覚めに驚いたように立ち止まり、すぐにメモを取る姿勢に戻った。

「意識が戻ったか……驚くべき回復だ。だが、しばらく安静にしていなさい」

「……何があった? 俺は、どれくらい?」

 リンドンの声はかすれていた。医者は一瞬目を逸らし、慎重に言葉を選んだ。

「三週間だ。君は毒に侵されていた。幸い、致命的な量ではなかったが……状況は、大きく変わったよ」

「変わった? どういう意味だ?」

 医者は答えず、代わりに一枚の書類を差し出した。リンドンは震える手でそれを受け取り、目を通した。離婚届だった。アメリアの署名が、冷たく整った筆跡で記されている。彼女の理由は「夫の不貞と裏切り」。リンドンの目が見開かれた。

「アメリア……何!? これはなんだ!」

「彼女はもうこの屋敷にはいない。貴族たちの前で君の不正を暴き、エルザの罪を告発した。君が昏睡状態の間に、すべてが決着したんだ」

 医者の言葉は淡々としていたが、リンドンには雷鳴のように響いた。彼はベッドのシーツを握りしめ、声を荒げた。

「エルザ? 彼女が何をしたって言うんだ! 俺の子を……」

「その子は存在しなかった」

 医者の一言に、リンドンの言葉が止まった。彼は呆然と医者を見つめた。

「エルザは妊娠を偽っていた。君の財産を狙い、君を操るための嘘だった。彼女は貴族たちに糾弾され、今は投獄されている」

 リンドンの頭がガンガンと鳴った。エルザの華やかな笑顔、彼女の甘い言葉、すべてが偽りだった。彼女が屋敷で妊娠を吹聴し、彼をその気にさせたこと――すべてが彼を陥れるための芝居だったのだ。彼は拳を握り、歯を食いしばった。

「くそっ……騙されていたのか、俺が……」

 彼の声には怒りと悔しさが滲んでいた。だが、それ以上に、アメリアの冷たい署名が心に突き刺さった。彼女は控えめだったが、負けず嫌いな瞳を持っていた。かつて、結婚の夜に彼がエルザの存在を明かしたとき、アメリアはただ頷いた。あの時の彼女の沈黙が、今、恐ろしい策略となって彼を飲み込んだのだ。

「アメリアは……どこに?」

「知らん。彼女は屋敷を去り、貴族たちの支持を得て新たな生活を始めたらしい。君の地位は失われ、財産の多くは彼女が管理している」

 医者の言葉に、リンドンは力なく笑った。その笑いには皮肉と虚しさが混じっていた。彼はすべてを失った。地位、妻、財産――そして、エルザという幻想すら。

「……俺が、こんな目に」

 彼は呟き、ベッドに沈み込んだ。医者は静かに部屋を出て行き、扉が閉まった。リンドンは天井を見つめ、過去を振り返った。アメリアにエルザの存在を突きつけた夜、彼女の震える肩を無視したこと。貴族の集まりで彼女を軽んじたこと。すべてが、彼自身の傲慢の報いだった。

 屋敷の外では、庭の薔薇が静かに揺れていた。アメリアが愛でた花々は、今も変わらず咲いている。だが、彼女の姿はもうそこにはなかった。リンドンは目を閉じ、深い孤独に飲み込まれた。
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