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本編 ─羽ばたき─
災禍
しおりを挟む始めに、災禍にみまわれた記憶があった。
物心がついたばかりの子供には、天変地異と思えるほどのモノ。
その日の空も青く澄み、太陽も風も母の温もりも、何も変わらないはずだった。
小毬は母に抱かれ、飛んでいる。母の背からは白く美しい濁りのない翼が生えており、美術品のよう。母はぐずる小毬をこうしてあやし、子守唄で寝かしつけるのが常だった。
小毬の一族は翼と鳥の脚を持った清御鳥という獣人で、人里離れた谷間を住み処としている。翼と脚以外は人間と変わらない身体を持ち、言葉はもちろん読み書きもする。争いを好まない性質で、人に見つからないようひっそりと穏やかに暮らしていた。
清御鳥の翼はそれぞれに違いを持つ。形状は猛禽類に似たものだが、模様は茶色に白黒、縞々に赤色など清御鳥の数だけ種類があるように見える。
小毬の小さな翼は母と同様、混じりのない白。顔だちも母と似ており、将来は美人になるだろうと一族から言われていた。
緑や紫の艶を纏った黒い翼の父は小毬が生まれる前に亡くなった。嵐の中、一族の住み処の補修で飛び回っていたところ、雷に打たれてしまった。
以来3年間、一生懸命、母は小毬を育ててきた。それでも幸せだった。愛しい人が遺してくれた、自分の元に産まれてきてくれた唯一の宝物。仲間愛が強い一族の手も借りながら小毬を愛情深く慈しみ守ってきた。
「小毬、そうお泣きでないよ。お昼寝も好きなだけすればいいのよ……ね?」
腕に抱かれた幼子は大きな瞳を潤ませてしゃっくりを上げている。緩急をつけて揺りかごのようにふわりと、それでもしっかりと我が子を抱いて飛ぶ。母の努力の甲斐あって幼子の機嫌は幾らか直ったようだ。
下を見やれば一族の谷間が一望できる。斜面に穿たれた洞穴から出入りし生活をする仲間の色とりどりの翼は見慣れた光景だ。
皆、何不自由なく暮らしているが規模は大きくない。一族は定期的に住み処を移し変えて、人間の手の届かない場所へ行く。美しい翼は狩られる対象であり、加工を施されて飾られたり羽毛を服の刺繍にされたり……生け捕りにされた暁には一生繋がれて飼われるのだ。
清御鳥の数も大分減り、昔は千羽いたらしい一族も今や二百余羽と衰退していった。
だからこそ、小毬を含め子供は一族にとっては宝だ。皆で育てるというのが一族の教育方針であり、番が亡くなった時は胸が裂けるほど声を枯らし泣いて悲しんだが、仲間のおかげで今こうして平穏に暮らせている。
住み処である洞穴へと降り立ち、娘を寝かしつける。子守唄を歌いながら子供の髪を指先で優しく梳く。子供特有の高い体温に触れながら、いつしか共に眠りについていた。
そろそろ夕食の時間だろうか。外からの緩やかな冷気に目を覚まし、日の入りの早さと共に季節の移り変わりを感じた。遠く見える山々に隠れて夕焼けが届き、山際に藍が滲む。
娘を起こさないように仕事に取りかかろうとすると、ふと違和感に気がつく。住み処の物も、暗がりも、外から聞こえる水音も鳥の声も……いつもと変わらない。ただ、全身の産毛が逆立ち髪の毛一本一本にまで神経が通ったような……皮膚が引きつられるようなピリリ、とした感覚。
娘──小毬が泣き出した。あぁ、今すぐ行ってあげなければならないのに、脚が地面に縫い付けられたように動かない。なぜこんなにも身体は言うことを聞かないのか。口惜しい。
外の物音に身体のこわばりが解けた瞬間、小毬を抱いて駆け出す。転び出てみれば、いつまで硬直していたのか闇が深くなっていて目が慣れない。仲間達も同様に外に出て、正体の分からないモノに身を震わせる。この感覚に嫌というほどの覚えがある年嵩の清御鳥は更に震える。
まさか……やって来たのか……ここまで嗅ぎ付けたのか……。
大きな翼に鳥の鉤爪を持つ清御鳥は聡い。その為、自然界の中では天敵はいないはずなのだ。
そう、自然界の中では──。
「皆、動くんだ! 人間が……狩人達だ……!!」
清御鳥の唯一の天敵・人間の襲来を告げる本能を今、初めて理解した。
────────────
「あれが……人間!」
初めて見た人間は自分達とほぼ変わらない姿をしている。違いは翼の有無と脚の形だけだった。それなのに……なぜ斯様なことを平気でやってのけるのか。
二百ほどしかいない清御鳥は、どう隠れていたのか分からないくらい大勢の人間に囲まれていた。谷の斜面から吊り下がる者、木の枝に乗る者、真下からこちらを見上げる者。不気味なくらい静かな人間達は清御鳥が叫びを上げる前に各々手にしている武器でいとも容易く狩っていく。ここ何十年もの間、人間に見つかることなく平和に生きてきた清御鳥は、長老と呼ぶべき年嵩の数羽を除いて人間を見たことがない者がほとんどで、その道の手練れである狩人相手には為す術がない。
退路を断ち追い詰める者、捕獲する者、処理をする者……憎らしい統率力。捕まれば翼を根元で縛られ脚と同様に切り落とされ最後は殺される。六体満足のまま動脈を切られ素早く血抜きをされた者は剥製目的。生け捕りにされた者は繁殖用または飼われる用の子供達。
自分達と似た姿で同じような顔の――否、そんなはずがない。嬉々として殺す残忍に歪められた人間の顔が自分達と同じはずがない。
地獄の果てを、幼子を抱いて逃げ惑う母親は、己の掠れた激しい息の音さえ聞こえていないようで、それは幼子の目にも異様だった。
母に守られて逃げる小毬はその日、初めて自我を得た。それが小毬の最初の記憶であり、一族崩壊の瞬間だった。
一週間後、谷間へ戻れば、そこは黒い血がこびりついた鳥さえ寄りつかない修羅場の跡と化していた。生きている存在などはなく、死体すら遺されていない。
(本当に起こったことなんだわ……)
山の中を命からがら逃げて娘を守った母親は他人事のように思う。そう思わなければ心が壊れてしまう。
この前まで一緒に生活して笑いあって……娘を一族ぐるみで育ててくれた……仲間と飛んだ空の爽やかな風は、今は雨雲を呼んでいる。もう上空からの、あの翼の鮮やかな模様は見られないのだ。あの日常は戻らない。
(こんなに辛いなら、いっそ自分も……)
腕の中の娘と目が合う。薄紫色の、もう亡くなってしまった夫と同じ色の瞳を見つめる。
(あの人が遺してくれた愛しい子。この子の味方は私一人……)
何があろうと守ると決めたこの日から十二年。母は自分の知っている全ての知識を娘に注いだ。
一族のこと、夫のこと、小毬は愛されていたこと。
病に倒れたその日まで、母親は娘の傍を離れなかった。最期を迎えたその日まで、母親は娘に愛を伝え続けた。
小毬は十五歳にして孤独となった。
母親から受け継いだ真っ白な翼と風貌、父親から受け継いだ紫の瞳。
自分こそが両親が生きた証。
何があっても失ってはならない。
災禍にみまわれた忌まわしい記憶は、少女の心をずっと苛める。
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