烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

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 男は少女が紡いだ言葉をうまく聞き取れなかった。いや、聞き取るのを拒んだ。知りたいが、知りたくない。脳が無意識に聴覚を遮断しようとしているのか、目だけが少女を克明に捉えている。

「何を……言っている……」

 再度、問う。口をほとんど動かさず、責めるでもなく、打ちひしがれるでもなく呟く。
 少女は布団に隠れていた顔をパッと見せ、はっきり男に伝えた。

「……赤ちゃん、いるの……」

 泣き笑いで少女は言う。遮断されかけ、聞こえづらかった全ての音が鮮明に男に戻った。
 後ろに控えていた真砂まさごも結んでいた口を開き、懐妊を寿いだ。

「おめでとうございます。一月目ひとつきめですよ」
「んーっ、おめでとう! 真顔作るの必死だったんだから!」

 真鶸まひわの声と職員達の拍手が重なり、静かだった部屋は一変、たちまち賑やかな空間になった。

烏京うきょうさまっ……」

 泣いて喜ぶ少女の声に、男はずっと立ち尽くしたまま、無表情で口を開いた。

「……子が、いるのか……」
「はい……」
「俺の子……」
「はいっ……!」

 力無く一歩進み、手を広げた先に見える少女の顔はぼやけていた。

「……小毬こまり……」

 腕に包んだ温もりを離さぬよう美しい黒髪に顔を埋め、頬を寄せる。少女も応え、男の広い背中に手を回し、ぎゅっと抱き締めた。最早、他人など見えていない。男の瞳が濡れているように感じるのは、自分が零した涙でそう見えるだけなのか。

「笑って……?」
「あぁ……」

 自然と唇が吸い寄せられ、互いの呼気を感じながら、そっと合わさった。人目も憚らずに落とされた口づけに少女は嬉しそうに吐息を洩らし、男の髪を撫でる。今だけは人に見られていようと関係ない。拒みたくなかった。

「あっつーい」

 花が咲いたような二人の雰囲気に赤くなった真鶸は、己の頬に手を当てながら独り言を呟いた。職員達もコソコソと声を潜ませてはいるが、男の稀な態度に驚きつつも自分のことのように喜んでいるのが聞こえる。
 真砂は狩人の男に対する彼女達の過去の目と今の明るい目を重ね、胸を撫で下ろした。かつての自分も男を冷たい目で睨みつけて激しく糾弾し、悪と決めつけては少女を強引に保護しようとしていた。でも。

(こんな姿を見せられたら……)

「真砂?」

 いくら嗚咽を呑もうとも、肩の震えは誤魔化しきれない。背後かかった真鶸の心配そうな声に真砂は口元を覆った。

「もう駄目ね……」

 目元を拭うも流れてくる涙にしみじみと老いを感じる。次から次へと止まらずに苦戦する真砂に、周りの面々は呆気にとられた。

「ま、真砂様?」
「嘘、真砂様が……」
「あの真砂が……泣いてる?」

 少女も異変に気づき、男の肩越しから心配そうな顔を覗かせた。

「真砂さん?」
「小毬さん、烏京殿……」

 込み上げてくる感情と共に涙は溢れ、そぼ濡れた顔のまま少女と男に笑いかける。少女も笑みを湛え、未だ自分の首筋に顔を埋める男に、過去を思う。
 怖かった。人間の精を注がれ、妊娠してしまう禁忌や恐怖と闘っていた。拒みたくて、放してほしくて、逃げたくて。子という枷に縛られる前に、堕ちる前に。しかし、今は違う。自分を身籠った時の母は、こんなに幸せだったのか。

「さぁさぁ、喜んでばかりではいられませんよ! 学ぶべきことは沢山ありますからね! 特に烏京殿!」

 真砂の奮い起たせる台詞に、男は何も言わず動きもせず少女を抱き締め、いっかな離れようとしない。
 湖での邂逅、あの姿──当初の冷たい空気を孕んだ闇のような雰囲気は全て消え去り、幻だったのかと少女は錯覚してしまいそうになった。
 また、頬が濡れる。自分の涙ではない。熱い熱い涙は、かつて闇と見間違った男のものとは思えなかった。



 慶賀に堪えず流した涙から、次第に落ち着きを取り戻した男と少女は真砂の言葉に真剣に耳を傾けていた。初めての子で、しかも半人半獣。父と母になる二人に真砂の指導も自然と熱が入る。

「妊娠中は飲酒は勿論のこと、激しい運動もいけません。身体を冷やすのと、重い物を持つのもね。特に初期は体調が安定しないので遠慮せず周りに頼ること」

 時雨しぐれも真鶸の隣に座り、頭を突き出しながら興味深く聞いている。羽母うばの身に起こったことを理解しているようで、嬉しそうに羽を膨らませては拍手のようにくちばしをかち鳴らせた。

「悪阻、熱、倦怠感、寒気に腹痛。情緒不安定に注意力が散漫にもなり得ます。無理をせず、しっかり休むこと」

 真砂は口頭で伝えると同時に、用紙に注意書きを纏めていく。

「特に感染症にはくれぐれも気をつけて。細菌は目には見えないのですから、罹ったら流産してしまいます」

 流産。無表情な男の眉がピクリと反応した。

「それらを完璧に守っていたとしても流産に繋がることはあるのか」
「えぇ、残念ながら」

 少し沈んだ声で答えた真砂は、こめかみに指を当てながら少女の腹部に目を向けた。

「母親や周りの環境のせいではなく胎児の染色体によるもので、異常があれば流産する運命にあります。最初から、そう決まっているのです」

 染色体、つまり遺伝子の異常。いくら姿が似ていようが人間と清御鳥しんみちょうは別の種族。子が出来にくいのも流産しやすい理由もその為で、少女は思わず腹部を庇うように手を当てた。

「染色体の異常で流産するのは十二週以内で、ここを過ぎれば大丈夫です」

 孕んでいる子は四週目にあたる。あと八週間も肝が冷える思いで過ごさなくてはならないのだと、少女は青ざめた。

「何を不安がる」

 少女の小さく柔らかい手に、男の大きい手が重なった。

「烏京さま……?」
「俺達の子だ。信じろ」

 重ねられた掌からは暖かさと安らぎが染み込むように伝わってくる。

「不幸なことなどあるものか。俺が傍にいるから何も心配いらない。寝室も一階に移す。家事も一切するな」

 少女の頬に、次いで額にも口づける。妊娠判明直後の興奮から冷静さを取り戻した少女は恥ずかしさに頬を染めつつ、幸せそうな男からの愛情を受け止めた。
 髪にも唇を寄せた男は、これまでと変わらず自分が少女の傍にいれば良いと目を細めた。何があっても離さずに、自分がずっと看ていれば怖いものは無い。夜になれば腹にいる子を少女ごと包んで眠りに就くのだ。産まれるまで、ずっと。今日から、ずっと……。

「そのことですが、小毬こまりさんは出産するまで本日よりここで過ごしてもらいます」

 身籠った少女との生活に心が微睡んでいた男は、真砂の主張に冷や水を浴びせられたかのように一気に現実に目覚めた。

「……何?」
「産まれてくる子は完全な人間ではありません。様子見は私達に任せて下さい」

 時雨は察知した。主の波立つ感情は顔には出ないが雰囲気で分かる。日頃から共にいれば尚のこと、冷たさを纏う主に翼を萎ませる。

「お前の様子見は俺が片時も目を離さんから必要ない。清御鳥の知識も十分にある。小毬は俺と帰るのだ」
「清御鳥保護の最高責任者に向かって何を言うのです。それに、いくら清御鳥に詳しいからと言っても妊娠の知識は皆無でしょう。産まれるまで私が保護します」
「勝手を言うな。小毬を安心させるのは俺でなければ不可能だ。心の安定は何よりも大事だろう。俺から離すな」
「心の安定は整った環境と医師の近くにいることで生まれます。それに何も、二度と来るなと言っている訳ではありません。ちょくちょく顔を出せば良い話でしょう? 入り浸りはさすがに困りますが」
「小毬は俺の“妻”で俺の子を身籠っている。出産までここにいろなどとは許さん」

 二人の言い合いにしばし圧倒されていたが、男からの自然な“妻”呼びに少女は思わず目を見開いた。頬に手を当て、また反論しようと口を開きかけている男に震えながら声をかける。

「烏京さま、あのっ……」
「何だ」
「つ、妻って……」

 数秒前に己の発した言葉に男は固まった。
 激しい言い争いは何処へやら。真鶸に至っては開いた口が塞がらない状態になっている。

「……“あなた”……」
「っ……!」

 それは、伴侶と定めた男に対する呼称。
 照れて笑う少女に、一同は何も言えなくなった。
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