烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

からくり人形

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 白熱した言い争いの緩和により、一部を除いて男の願いは聞き入れられた。赤子の様子が安定してから家に戻すという形に男は最初こそ不満気にしていたものの、出産まで共にいられなくなるところだったのと比べればと、渋々といった様子でその条件を呑んだ。

「しばらくの間は施設で看させていただきますが、いずれちゃんと家には帰すので、入り浸るのはやめてください」
「…………あぁ」 

 間を空けての返答に、きっと明日も来るつもりだろうと真砂まさごは呆れた表情を浮かべながら溜め息を吐き、意味ありげな目つきで少女を振り返った。その意味を正しく汲み取った少女は、険しい顔のままこちらを見る男と瞳を合わせ、諭す。

「あなた、心配しないで?」

 少女の瞳に口の端をわずかに歪め、険しい目つきのまま薄い腹を見つめる。

「しかし」
「ね?」

 小さい身体。如何なる時も、離したくはないその身体。だが。

「信じて? 私と、この子を」

 腹を擦る少女の、母となった顔つきに胸を打たれる。

「……あぁ……」

 妻のささやかな説得でようやく諦めがついた男は時雨しぐれを携え、住み処へと引き下がっていった。
 真砂は清御鳥しんみちょうの治療があるからと退室し、少女は真鶸まひわと二人きりになった。窓から空を見上げれば、時雨に載って飛去する男の後ろ姿が目に映る。やがてその影は小さい点になり、完全に見えなくなるまで少女は窓から離れなかった。

小毬こまりちゃんがいなくなって、ちゃんと生活出来るのかな……」

 後ろにいた真鶸も少女に習い、空を見上げては流れる雲を目で追った。小鳥が飛び、さえずる声に耳を傾ける。

烏京うきょうさまに出来ないことなんてありませんよ?」

 男は元々、独りだったのだ。豊富な知識と経験で色々と教えてくれた男が、自分がいなくなったくらいで何も出来なくなるなど有り得ない。そう笑ってみせたのだが。

「いや、違くて」
「え?」

 きょとんと目を丸くする少女にニヤリと笑った真鶸は、指に髪の毛を絡めながら面白そうに呟いた。

「小毬ちゃんがいなくて、寂しくてしょぼくれて……何も手付かずになっちゃったりして」
「……さすがに、それは……」

 少女にとって男は頼りになる存在で、尊敬の対象でもある。そんな男がしばし自分と離れたくらいで寂しくなり、しょぼくれて何も手付かずになるのは想像し難い。

「ふーん? どうだろう? 結構、真砂と言い合っていたけれど」
「お腹の子が心配なのだと思いますよ?」

  男はずっと前から子を欲していた
 人間と清御鳥。姿は似ていようと別の種族であることには変わりなく、子を孕む確率は非常に低い。そう言われる中、たった二年で子を孕むことが出来たのはまさに奇跡であり、この二度と起こらないかもしれない奇跡を男は何よりも大切にしたいと思っているはず。
 今でも脳裏に甦る男の声。

『孕め』

 ひどく優しく、熱い声。

「本当に、お腹の子が心配なだけかなぁ……」

 ぽつりと呟いた真鶸の声が暖かい空気に漂って消え、外から聞こえてくる子供達のはしゃぐ声だけが室内に広がった。程良い雑音と温度に意識が心地良く揺らぎ始め、倦怠感で重い身体を寝台に横たえた。

(赤ちゃん……私の……)

 まだ掌にも満たないであろう我が子。それでも確かに存在するのだと、愛おしさが込み上げてくる。母になるということは、護られてばかりの自分が今度はこの小さい存在を護り、育んでいかなければならないのだと……腹部を両手で包み込んだ。

「小毬ちゃん?」

 寝台に横になった少女からは安らかな寝息が聞こえてくる。腹に手を置き、胸はゆっくりと上下している。

「成長は早いなぁ……」

 まだあどけない寝顔を浮かべるも、身体にもう一つの命を宿す母親。
 全ての清御鳥が、この少女のように真の意味で望まれて赤子を産める世が一刻も早く来るようにと、かつての自分に重ねながら毛布をもう一枚かけた。

「眠ったのね」

 廊下から近づく足音を真砂のものだと思っていた真鶸は、聞こえてきた別人の声に弾かれたように振り返った。

「せっかく用意したのに」

 女が一人、湯飲みを載せた盆を持って立っている。

「っ、つぐみ……!」

 警戒を滲ませた真鶸の声に反応することなく通り過ぎ、女は少女が眠る寝台まで歩いていった。

「つぐみ、何をする気!?」

 この女が何をして少女を泣かせたのかなんて忘れるはずもなく、あの時の怒りが真鶸の胸に再燃した。

「あなた、小毬ちゃんにどんな仕打ちをしたか分かって……」

 女の首が回り、真っ黒な瞳と目が合う。無表情で、人形のような白い顔に真鶸は一瞬、口を閉ざして女の腕を掴んだ。静かに、それでいて強く、これ以上少女に近づくのを妨げようと睨みつける。

「……真鶸」

 ギリギリと腕を掴まれても女は一切動じない。真っ赤な唇が異様に不気味で、あからさまに敵意を向けられていても尚、変わらない陶器のような表情に悪寒が走る。
 じっとりと雨露の滴る空気よろしく、二人の睨み合いはしばし拮抗した。闇ばかりが広がる女の瞳と、陽のように明るく黄色みがかった真鶸の瞳が険を増した時、急に女が笑い出した。

「やだ、真鶸ったら! 小毬さんに葛湯を持ってきただけよ?」

 盆に載った湯飲みを見せながら小首を傾ける女に真鶸は信じられない表情を浮かべた。何故、一触即発の雰囲気を完全に無視出来るような態度が取れるのだろう。きっと自分が人間でも、この女とは分かり合えない。

「ちっとも起きない。起きないわ。鈍感すぎて笑っちゃう」

 少女を見下ろしながら笑う女の声が真鶸の神経を逆撫でる。

(気色悪い。呪い人形か……)

 女は元々、いつも隅にいるような印象の薄い人間だったのだ。決して目立たず、淡々と作業をこなしているだけの女は自分からは行動を起こさない。常に誰かの後ろでじっと様子を窺い、同調しているだけ。

「甘やかされて甘やかされて。烏京さんは獣の牙を抜くのが本当にお上手ねぇ」

 女が変わりだしたのは狩人の男が現れてから。狩人を恐れる他の職員達と同様、遠くから男を眺める女はしかし、その目は他とは違ったのだ。

「真鶸が代わりに飲んでくれたら良いわ」

 とろりと揺れる葛湯を渡され、出ていく女の後ろ姿を凝視する。遠ざかって消えるはずの女の足音がまた近づいてくるのを感じ、また身構える真鶸だったが、戸から覗いた顔がよく知る人物だと知るや否やホッと息を吐いた。

「今そこで、つぐみと会ったわ。ここに葛湯を運んだらしいけれど」

 湯飲みを持ち、立ったままでいる真鶸に視線を投げた真砂は音を忍ばせて寝台に近づき、少女を窺った。

「腹に一物を抱えているなんて、人間の性よね」

 真砂も、女が葛湯を用意したのは完全なる善意ではないと承知していた。少女との接触をなるべく避ける為、別の仕事を割り振っていたのだが、それでも諦めきれないのだろう。時折、黒い瞳が険しくなる瞬間がある。

「私がいるもの。烏京さんがいなくても私が……」
「波風を立たせたら自分も浚われてしまうわよ。無理に刺激するのはおよし。事実つぐみは、ずっと私を支えてくれている。それは無視出来ないことよ」

 夕まぐれの景色に目を瞬かせ、少女に陽が射さぬよう天井から仕切りを引いた真砂は、真鶸から湯飲みを受け取った。既に湯気は昇っておらず、人肌ほどの温度になった葛湯をじっと見つめる。ゆらゆら揺れる表面には、しかめっ面の自分が映っていた。

「小毬さん用の献立を考えるの、手伝ってちょうだい」

 備え付けの洗面台まで歩きながら明るく真鶸に声をかける。

「大切な子だからね」

 傾けられた湯飲みから葛湯が零れた。粘り気のある液体が流しの口に吸い寄せられるのを見守り、残りの一滴すら捨てた真砂は笑顔で真鶸を振り返った。
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