烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

黄泉返り

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 慌ただしさは清御鳥しんみちょうのいる船底の貨物庫まで響き、少女と幼鳥達は息を呑んだ。扉越しに鬼気迫る声は止まず騒々しさが極まる中、少女を組み敷く狩人の青年だけが違う気色を孕んでいた。

「そのまま大人しくしろ……」

 緊急事態であろう外の様子など何処吹く風で、ひたすら自分の欲望を晴らそうと手を動かす様は、飢えきった獣を想起させるほどおぞましいものだった。

「なっ!? やめて、赤ちゃんが!」

 わずかに強く感じる胎動に命を棄てる決断は薄れ、表の喧騒の原因を一筋の光だと信じた少女は、伸びた青年の手に必死に抗った。
 やはり諦められない。せがむように、生きたいと願うように胎内で存在を主張する赤子に、母が諦めるわけにはいかなかった。

「あなた、正気じゃないわ……!」
「黙れ! 今しかねぇんだよ!」

 抗うほど鎖が翼に食い込み、相手の手つきも乱暴さを増していく。暗がりで襲われる同族の抵抗の気配はどれだけ子供の心を削り、痛めつけるのか。知るべきではない穢れた光景は、如何様に子供達の精神に毒をもたらすのか。
 もう、手遅れなのかもしれない。だがこれ以上、心を壊させる訳には──自分が元凶になるのは避けたかった。
 知らなくていい。永遠に。

「駄目っ! 嫌!!」

 衣の合わせ目を掴まれ、強引に暴こうとする手に有らん限りの拒絶を示す。そんな少女に青年の焦りは募る一方で、この清御鳥で欲を満たすのは今の混乱に乗じるより他はなく、耳元に口を寄せ甘い言葉を囁いた。

「なぁ、俺が手を尽くしてやるよ……」

 そう宣う青年にぞわり、と鳥肌を立たせながら、少女は少しでも顔を背けようとぎこちなく身体を動かし、不快感に口の端を歪ませた。

「こんな硬い場所、腹の子に障るだろう? 食い物だってそうだ。おれが計らってやるからよ……だから、言うことを聞け」

 ねじ曲がっている。道を反し、弱みに漬け込もうとする腐りきった心。母体を労る理由は欲にまみれ、一切の道徳心を感じない。

「子供が死ぬのは嫌だろ……? なぁ?」
「……卑怯者っ……」

 ねちっこく身体に纏わりつく。悪寒が止まらない。
 外の騒ぎを気にする風でもなく、青年は少女の放った言葉に、さも当然だと言わんばかりの顔で返す。

「卑怯なんて当たり前だろ? 人間界は甘くないんだ、お姫サマ」

 少女は、饒舌に尽くし難い怒りと気色悪さに吐き気を覚えた。どんなに睨んで威嚇しようが、強張ったこの身体に迫まる手は止まらない。冷や汗の滲んだ胸ぐらに、燃え盛る情欲を纏う掌が置かれた。

 ──気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……!

 頬に吐息が当たった。敵の影に呑まれていくのを実感し、消えてしまいたいと思う反面、子の為に生きたいと迷子のように心が惑う。
 湖で出逢った時の夫とは違う。同じ男でも、こんなにも醜い。
 夫の顔を思い浮かべ、比べた瞬間、哀しみが濁流となって押し寄せた。我慢の糸は切れ、絶叫が辺りを揺らがし空間を支配する。

「嫌ぁぁぁぁぁっっ!!」

 もう、限界だった。青年に向けた敵意と悪寒は、百舌もずとつぐみと狩人の長に抱いたのさえ遠く及ばない。
 渦を巻くのは、負の煮詰まった濃ゆる激情。

烏京うきょうさま、烏京さまっ……嫌ぁぁ! 烏京さまっ!」

 胸中を切り裂かれたかの如く、脳に浮かぶより先に溢れ出した男の名。

 ──もう、傍にいないの。

「烏京さまぁぁぁぁ」

 ──逢えっこないの。

 狂った自分に冷や水を浴びせるよう、何処からか現実を突きつける声が聞こえる。それは残酷なまでに鮮明で、胸に垂れ込める冷たい言葉と絶望しか見ていないもう一人の自分をかき消すよう、少女はこいねがった。

「烏京さま、助けて……私は、あなたの……」

 ──あなたのモノなのに……!

「やだぁぁぁぁっ……!? あっ……!!」

 突如として、扉が勢い良く開かれた。部屋に舞い込んできた光が暗闇の二人を浮かび上がらせる。久しく訪れなかった朝の輝きが、闇を映してばかりいた目に沁みて、少女は思わず目を瞬かせた。
 味方が駆けつけてくれたのだろうか。助かるのだろうか。擦り減った心では希望を信じるのさえ疲れる。この光は地獄に射した極楽浄土からの最後の恵みだと、そうあってほしいと──だが。

「何をやっている!?」

 青年の身体越しに迫る複数の足音を聞きながら、味方ではなかったのだともう一人の自分が脳内で囁くのを感じ、再び闇に呑まれる息苦しい感覚に陥った。

 ──あぁ、やっぱり助けなんて来ないのよ。

 何処までも何処までも、何一つ。清御鳥として生まれてきたのが間違いだったのだと、幸せだった日々が一つ残らず塗り潰されていく。

「外の騒ぎが聞こえなかったのか!」

 光の溢れる貨物庫の入り口を幾数もの人影がゾロゾロと塞ぐ。外の喧騒は未だ止まず、怒鳴り声は次なる凶兆を示しているようで、少女は恐怖に染まっていった。

「さっさと警備につけ! でないと海へ棄てるぞ!」

 年嵩の狩人の憤った声に、青年は少女に対した高圧的な態度とは打って変わってしどろもどろに返事をする。
 その間、少女はずっと天井を見つめたまま動かない。取り敢えず危機から一時は逃れられたようで、身体の力が抜けていくのを感じながら抗いようのない運命を前に静かに涙を流し、混濁した意識で行く末を呪う。

「あの、一体何が起こって……あっ!?」
「がっ……!?」

 驚いた声にすら反応出来ない。途切れた怒声と物が倒れる気配に何を思うでもなく目を瞑り、伝わってきた振動を肌で感じる。

「いつの間に……!」
「貴様、それ以上は……」

(何が起きても一緒。もう関係ないわ)

「あぁ……や、め……」

 狩人達の衣擦れは切れ切れの悲鳴を最後にプツリと途絶え、もう怒号も何も耳に入らなくなった。何かがこちらに迫っているような気もするが、少女にとってはどうでも良いことだった。
 新たな刺客は別の船の清御鳥の横取りを企てる一派であり、ゆっくりとした足音は品定めの証なのだろうと少女はぼんやりと考える。ならば、大人しくしていれば傷つけられる心配は減る。身籠っていると分かれば尚更、命は取られずに済む。

「…………」

 瞳を閉じたままの少女の間近で、ただ佇むだけの静かな誰か。正体不明のその人物は、目を開けようとしない清御鳥をじっと注視している。
 品定めされる感覚に慣れず、息を控える少女は肩に触れた温もりに危うく目を開けそうになった。上体を起こされ、密着した身体に緊張で口内がひりつく。自分を抱いたまま動かない相手に極限まで集中し、子供達の息の音すら感じ取れない状況に少女の精神は追い詰められる一方だった。今、出来るのは早くこの時間が去るようにと心中で祈るだけ。

「…………」

 しかし不思議なことに、敵は幼鳥の品定めを放り出し、少女ばかりを抱き続ける。そこには青年がしたような怪しい動作は一切無く、腕を小さな身体に絡ませているのみ。

「…………?」

 異常な時間。息すらまともに吸えず、浅い呼吸で待ち続ける。しかし腕の拘束がわずかに強まり、顔を寄せられる気配に突如として少女の思考は嫌な形に結びついた。
 ……もしや、既に事切れていると思われているのではないか。生きているならともかく、死骸ならば容赦なく翼と脚を落とされてしまうのではという可能性に背筋は凍りつき、芋づる式に別の考えに及ぶ。絡んだ腕は残酷にも自分が叫ぶまで絞めるのを止めないつもりで、じわじわと獲物をいたぶる愉しさに浸っているのかもしれない。青年とは、また違ったをされる。

「……っ」

 息がかかった。焦る少女の耳に、生暖かい空気が流れる。恐怖に歯をかち鳴らせ、開いた瞳の先に、呼吸は完全に止まった。
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