脅されて仕方なく弟子に取った青年に、殺されるはずが溺愛されている。

槿 資紀

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第十話

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「そのように、言ってくれて……うん、嬉しい。しかし、やはり足りないんだ……現状を打開するためには、もっと根本的なところに手を加えないといけない。私が今やっているのは、傷をひとつひとつ塞いでいくだけの、ジリ貧の延命措置だ。傷を作る原因……病巣を取り除かなければ、事態は何も解決しない。うぬぼれるつもりは無いが、私がいなくなったとしても、誰も困らないようにしなければならない」

「それ、は……その、すみません。先生がここを出ていかれる想像をしていませんでした……でも、それはその通りですわね……! 先生のお力は、ここに埋もれさせて良いものではございませんもの。私たち自身が力を取り戻して、せめてもの恩返しをしてから、先生をお見送りしないと……!」

 先程の勢いはどこへやら、雨の中にうずくまり、はぐれてしまった飼い主を心細げに待つ仔犬のようにしょぼくれてしまうルーラム。

 何と言うか、健気にも程があるだろう、リュプス族の人は。

 一層心苦しい気分に苛まれつつ、空元気に捲し立てる彼女を窘めた。

「いや、私がいなくなるというのは、ここの他に行きたい場所があるということではない。私の存在が貴方たちにとって有益である限りは、この場所で、貴方たちに貢献したいと思っている。私の力を活かしたいと思えるのは、貴方たちがいる場所だよ」

「————! ええ、ええ! 私たちも、先生がずっといてくだされば、これ以上に嬉しいことは無いと思っておりますっ」

 まぎれもない、純粋な善意と好意。

 罪を償うため、罪と向き合うために、この場所に来たはずなのに、彼らの笑顔で、むしろ私の方が救われているなんて。

 いつからだろう、彼らに尽くさねばならないという義務感が、彼らの役に立ちたいという欲望に変わったのは。

 朝の目覚めが、昔よりもずっと軽いのは、どうしてだろうか。

 ふとした瞬間、自分の頬が緩んでいると気づく回数が、昔よりもずっと増えてしまった。

 これでいいのか、という危機感が、忙しさ故の微睡のような充足にかき消されて、この幸せのようななにかに身を任せてしまいたくなる。

 でも、きっと、こんな感情は……。

「——————ッ!!、?」

 ふと、鋭く太い杭のような何かが、心臓を貫いたような衝撃に襲われた。

 冷水を浴びせかけられ、にわかに夢から覚めたような気分だ。逸る鼓動に肩を上下させながら、反射的に背後を振り向いた。

「……? 先生、どうされました?」

 戸惑いを滲ませたルーラムの声で、じわじわと垂下するように、つかみどころのない焦燥が霧散していく。フウ、と歎息して、私はふたたび彼女に向き直った。

「いや、何だろう、視線? よく分からないが、急に見られているような感じがして……」

「あら、何でしょう……私の方では特に気配などは感じませんけども……」

「貴方の気配察知がそう言うなら、きっと気のせいだろう。忘れてほしい」

 まだも心配を滲ませ、表を見てこようとするルーラムを制止する。

 彼女に察知出来ない気配を私が察知できるとは思えなかったからだ。

 いつの間にかいい時間になっていたこともあり、二人で急いで締め作業を済ませ、家で愛息子が待っている彼女をすみやかに退勤させた。

 昼間から一転、診療所は静まり返る。

 どうにも収まらない胸騒ぎをやり過ごすため、デスクに寄りかかってカルテや授業計画などに目を通しながら、ティーカップを持ち上げた。

 ハーブティーはすっかり冷めていたが、妙に乾いている喉にはお誂え向きであった。

 何だろうか、言い表すならば、ふと思いついて術式を組んでいる時、重要な欠陥があることに気付く前の、あの妙に目が滑る感じに良く似ているというか……ともかく、なにか思い至っていないことがあることだけ分かっている、そんな、何とも言えぬ煩悶が、ずっと胸中に渦巻いているのだ。

 引っかかりを覚えつつも、いつまでも気にしたって仕方無いだろうと思うことにして、無理やりに思考を切り替える。

 明日の診療の予約のことやら、物資の仕入やら、収支の取りまとめやら、希望者に出しているカリキュラム外の課題の添削やら、熟さねばならないタスクには事欠かない。

 それに、喫緊の課題として、重篤な患者はいなくなったにしろ、まだも発症者が相次いでいる謎の高熱についても、原因を究明し、根絶しなければならないのだ。

 データ集積については順調、あとはその分析と検討を、出来る限り速やかに……ああ、なにせ、人手が欲しい……! 

 借りたい時に直ぐ人の手と一定のレベルの頭脳を借りる事の出来た前職のポジションがどれほど恵まれていたことか。研究所を辞めて唯一悔やまれる点だ。

 ハラリと目元まで落ちてきた前髪を耳に掛ける。脳の回転がどことなく空回りしているような気分に軽度の低血糖を認め、机の中に常備してあるカロリーバーを口にくわえつつ、並行思考。

 固形物摂取は起床時ぶりである。昔から、どうにも空腹に鈍い節があるのだ。

 頭がそうと認識する前に、反射的に顔を上げた。ガトン、そんな、やや冗長な足音だった。大方、ルーラムが忘れ物を取りに来たとか、そんなところだろうと思い、カロリーバーを急いで咀嚼してから、鼻から少しだけ空気を出して口角を上げる。

 しかし、やあと発声しようとしていた口角は引き攣り、代わりに、ヒュッと息を呑む音が飛び出した。戸口に立っていたのが、予想だにせぬ、大きい背丈だったのだ。
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