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⑲雨は等しく降り注ぐ−2

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「あんたが断るならそれでもいい。駒は可愛いけれど、俺はあんまり気乗りがしねぇ」
「……どういう、意味だ」
 男の迷惑だとでも言いたげな口調が気に食わない。
 駒をあそこまで夢中にさせておいて、気乗りがしないとはどういう料簡だと頭に血が上る。

「つまり俺は彼に恋をしていないから――」
 率直な善一の言葉に彦十朗が思わず相手の胸ぐらを掴んだ。

「遊びって事かよ!」
 自分ならば遊びでも構わない。
 でもあの子はこれが初めての恋で、駆け引きも打算も何も知らなくて、傷を負うにはまだ若すぎる。

「遊び……なのかな」
 ふわふわと訊き返してきたふざけた男の胸を、ドンと突いて引き離す。

「遊びで可愛い弟はやれないよ。さっさと手を引いとくれ」
 彦十朗の言葉にしかし男は首を傾げた。

「駒が積極的で、意外と押しが強いから……こちらから断るのは難しいんだよね」
「このっ……!」
 許さない、と殴り付けようとした彦十朗を男はやんわりと押さえた。

「こらこら、暴れるなって。あんたが言えば止まるだろう? 遊びで手を出されたくなきゃ、あんたが止めてくれ」
 いけしゃあしゃあと勝手なことを言う男を彦十朗は睨んだ。けれども男はちっとも悪怯れない。そんな事では胸は痛まないと言わんばかりだ。

(俺がこまの恋を砕くのか。泣かせたくないのに、大事にしたいのに)
「それが一番、傷が浅い」
(他人事だと思って)
 彦十朗は唇を噛んで俯いた。男の胸からは優しい出汁の香りがしていた。
 きっとこの甘い匂いにあの子も惹かれたんだろう。子供の頃に見られなかった甘い夢を見たんだろう。

「せめて、自分から諦めるように仕向けたい」
「だったらあんたが俺と付き合っている振りをすればいい」
「はあっ!? 何をふざけたことを言って――」
「俺は本気だよ。俺に相手が出来て、それが自分の恩人で大事な兄さんだったら駒も諦めるでしょう?」
 男の言葉は一見筋が通っているように聞こえた。
 駒は彦十朗が相手だったら戦わずして降りるだろう。

「だが、わたしとあんたに接点なんてないじゃないか」
「共通の知り合いがいるじゃない」
「……蓮治さん?」
「それと信乃さん。信乃さんのことも駒は好きだからね」
「好きと言っても、憧れだよ」
「わかってる。あの年頃の子は年上の男に憧れるものさ」
「やれやれ、困ったもんだよ」
 彦十朗は思わず溜め息を吐いた。

 ***

 駒は彦十朗に呼び出され、善一は止めておけと言われて目を丸くした。

「どうして兄さんが善さんを知ってるの?」
「えーと、あー……つまりあれだ、信乃さんに紹介されたんだ」
「信乃さんがどうして?」
 苦しい言い訳をする彦十朗に駒が無邪気に疑問の声を上げる。

「歳も近いし気が合いそうだからと――」
「善さんと兄さんの気が合う? とてもそうは思えないな。兄さんて意外と短気だから、善さんみたいな掴み所のない飄々とした人は苦手でしょう?」

(ああ、良く分かっているな。あの男は第一印象こそ良かったけれど、直ぐにイライラさせられたよ)
 彦十朗は数々の出来事を思い出してうんざりとした顔をした。
 あれから付き合っている振りをする為に善一とは何度か逢ったが、その度に小競り合いを繰り返した。
 自分に少々神経質過ぎるところがあるのは分かっている。

(でも着物が濡れるとか嫌いなんだよっ!)
 善一は雨に降られてものんびりと歩き、このくらい平気だと笑った。先に帰ると言ったら軒下に強引に引き込まれた。

『仕方がない、少し雨宿りをしよう』
 胸に庇うように肩を抱かれて、思わずその手を撥ね付けた。何だって肩など抱く。

『あんたが寒そうにしてるからだろう』
『……』
 ああ、これじゃあ駒が落ちる訳だと彦十朗は思った。
 この男は寒ければ相手を己の体温で温めてやるのだ。
 包み込むように守ってくれるのだ。

『寒くなんて無いよ』
『じゃあ俺が寒いから』
 そう言うと男は強引に彦十朗の肩を抱いた。人が見ていると言っても、雨で見えやしないと言って気にしない。
 余りムキになるのも馬鹿らしくて、大人しくしていたらいい匂いがすると呟かれた。何故だかそれが無性に恥ずかしく、彦十朗は聴こえない振りで顔を俯けた。


「――さん、彦十朗兄さんっ!」
「えっ? あ、うん、兎に角あれは止めておけ。お前の手には負えないよ」
 素っ気なく言った彦十朗に、常ならば大人しく頷く筈の子供が否を唱えた。

「あの人は僕を可愛がってくれる。いっぱい気持ちよくしてくれます」
 その言葉に彦十朗は何も言えなくなる。
 稽古が辛い分、慰めは持っていた方がいい。それも口先だけじゃない、抱いて心も身体も満たしてくれるならそれが一番だった。

(本当はわたしだって素直に応援してやりたいよ。けどねぇ……)
 彦十朗は善一と会った時に、駒を責任もって幸せにしてやる事は出来ないのかともう一度訊ねたのだ。


『俺は彼を愛していない』
『それでも情くらいはあるだろうよ』
『まあね。でも抱くほどじゃあない』
(チッ、優しい癖に変に酷薄なところがある)
 善一という男は全く性質が悪いと彦十朗は思った。


「駒、あれはお前を最後まで抱いてくれたかい?」
「それは、あの人も僕もなかなか時間が取れないから……」
「はん、やろうと思えばその辺の物陰だって事は済むだろう」
「兄さんっ!」
 気色ばむ駒に彦十朗は敢えて挑発するような顔で言った。

「あれは他所で他の人間を抱いてるのさ。だからお前には手を出さない」
「嘘だっ!」
「そう思うなら確かめてみたらいいよ。突き止めるのなんざ簡単だろう?」
「……」
 駒がその気になるのが彦十朗には手に取るようにわかった。
 いつまでも善一のものにして貰えない事が駒も不安だったのだろう。
 疑心暗鬼は人から簡単に理性を奪う。

「確かめて、気持ちにケリを付けちまいな」
 そう言いつつ、彦十朗は駒にあんなやり方で引導を渡すのがどうにも気鬱で仕方がないのだった。
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