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㉓背負われて泣く−1

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 信乃は明け方近くに隣で身動ぐ気配がして目が覚めた。
 慶太郎が剥き出しの信乃の肩に布団を掛けようとしていた。

「けい、ちったぁ寝たのか?」
 潰れた声で訊かれて慶太郎が信乃の目元に口付けを寄越す。

「俺は一晩くらい寝なくても平気です」
「そっか。じゃあ先に帰んな」
「信乃さんっ!」
 信乃の言葉に気色ばむ慶太郎に、信乃はわざとしかめっ面をして見せる。

「耳元で大声を出すなィ。別れは昨日、済ませたろ」
「俺は同意してない」
「あれだけ好き勝手したんだ。同意したもおんなじだよ」
「……」
 それでもまだ不服そうな顔をした慶太郎に、信乃がさっぱりとした顔で言い聞かせる。

「お前のは子供の駄々。いい思い出で終わらしてくんな」
「思い出? 信乃さんは、忘れられるのか?」
「忘れるとは言ってねえ。俺ぁ、お前のもんになった事を一生忘れねぇよ」
「信乃……」
 悔しそうな顔をする慶太郎を信乃は笑って慰めた。

「ほらほら、そんな顔をするんじゃねぇ。頼むから、俺を一人にしちくんな」
「信乃っ!」
「慶太郎、堪らえてくれ」
 スッと睫毛を伏せた信乃を見て、慶太郎が口を噤んだ。
 自分たちがどうにもならない事は既にわかっている。
 わかってはいるが、納得できる筈もない。
 無理にも攫っていきたいが……。

「俺が、あんたの年まで一人で過ごしたら信じてくれますか?」
「いいや。俺はお前に幸せになって欲しい。俺を待つなんて無駄なことをされたら、悲しくて死んじまう」
「……酷い人だ」
 慶太郎はきっと自分が嫁を取って人並みに暮らす所をこの人は喜ぶだろう、けれど切なくも感じるだろうと思った。
 そして自分もまた、心の奥でこの人の事を想ったまま生きていくのだ。

「酷い人だ」
 慶太郎はもう一度そう繰り返し、信乃を置いて部屋を出ていった。
 その背中を見送って、信乃は困憊尽きた様子で布団に沈み込んだ。
 別れるのは思ったよりもずっと大変だった。

 ***

 慶太郎は三津弥に信乃の事を頼んで帰った。
 三津弥はその様子から二人が別れを選んだ事、昨日は最後の逢瀬だったと知って痛ましそうな表情をした。

(別れる為に枕を交わすなんて……)
 自分の初めても相当に酷かったが、あの二人の痛ましさよりはマシかもしれない。
 だって自分は片想いだったけど、二人は両想いなのに別れなくてはならないのだから。

(そうだよ、想いが通じなかった分、わたしはもう吹っ切れているもの)
 三津弥は暫くは痛む身体と心を引き摺ったが、蓮治の事はとうに諦めが付いていた。
 だから蓮治に気にしなくていいと、避けるような事はしなくていいと言いたいのだけれどその機会がない。
 自分を一目見てくれたらもう気にしなくていいと理解して貰える筈だのに。

(そうだ、信乃さんをダシに呼び出したら断れないかもしれない。あの人も信乃さんの事は大事な筈だもの)
 三津弥は蓮治が信乃に対してどんな感情を抱いているのかは知らない。
 それでも日頃から気にかけ、一番古い昔馴染みだと言ってるのを聞くと特別なのだと感じる。
 だから小僧を蓮治の店に走らせ、信乃が動けなくなっていると伝えたら来てくれるかもしれないと期待したが、まさか息を切らして駆け付けるとは思わなかった。


「三津弥ッ、信乃は――」
「離れで寝ています。当分は目を覚まさないでしょう」
「一体なにがあったんだい?」
「ご自分の目で確かめて下さい」
 そう言うと三津弥は蓮治を離へと案内した。
 自分には目もくれないのを見て、三津弥はやっと合点する。

(そうか、この人は信乃さんの事が……)
 だったら随分と酷なものを見せる事になる、と思いながらも三津弥は案内を止めない。
 そして丁寧に清められてはいたものの、情事の跡も色濃い信乃を見て蓮治が青褪めるのをじっと見ていた。

「何故ここに慶太郎がいないんだい? ……ああ、そうか。別れたんだね」
 平坦な声で淡々と喋るのが恐ろしい。
 蓮治は二人の間にあったおおよその事を察しているようだった。

「わたしの部屋に寝かせておいてもいいんですが――」
「連れて帰るよ」
「じゃあ籠を呼びますか?」
「いや、わたしがおぶっていく」
「ッ!」
 三津弥は今度こそ吃驚してしまった。
 大店の主がそんな事をしては外聞が悪い。

「蓮治さん、何もあなたがそんな事をしなくても――」
「信乃が辛い時に側にいるのはわたしだって決めてる。これだけは譲れない」
 例え信乃の初めてを誰かに盗られても、信乃が他の男を好きだと言っても、それでもこれだけは譲らないと蓮治は頑なに決めている。
 その様子を見て、説得を諦めた三津弥がせめて近くまでは船で行って下さいと頼んだ。

「その方が早いでしょう?」
「それもそうだな。恩に着るよ」
「……」
 信乃の為に礼を言う蓮治が三津弥は面白くない。
 自分の事はずっと無視していた癖に。
 だから三津弥はちょっとだけ意趣返しをする事にした。
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