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第一章 復讐とカリギュラの恋

(38) 本懐を

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  ヘシャス・ジャンヌの床に付くほどの長い髪は、どんなコートよりも美しく、流れる金鎖のように灯をかえしてきらきらと光を弾き返す。



「ヘシャス、本当に好きだったんだ。どうしてあのとき、もっと強く君を推さなかったのか。今更ながら本当に悔やまれる。君は第二王子の妃よりも聖女が相応しいと言う者もいたのだ。そんなことに惑わされなければ良かった」

「光栄ですわ、殿下。嬉しく存じます」



  さっきからもう何度も同じやり取りをしている。


  ヘシャス・ジャンヌのベッドに並んで腰かけて、ヨハネセン第二王子がヘシャス・ジャンヌの白い手に頬擦りをする。


  ヘシャス・ジャンヌは第二王子の婚約者選びに最終段階で落ちた。爵位と第二王子に献上する領地も問題だったが、アントローサ公爵に前王が肩入れすることを嫌う派閥の重鎮が、アントローサ公爵国のザカリー伯爵令嬢ヘシャス・ジャンヌを讒言で陥れて撥ね付けたのだ。



『聖女の位が相応しいと言うものの、あの娘には良からぬ点が……』



「あからさまな讒言など、誰も信じてはいなかった。今でもそうだ。ただ、君は病気だと聞かされて、私は押し付けられた婚約者の手前、君に何もできなかった」

「お心に留めていただけただけでも嬉しゅう存じます、殿下」

「ヘシャス、昔のようにヨハネと呼んでくれ」

「恐れ多いことですわ、殿下」

「ヨハネだよ、ヘシャス。あの頃はお互い、そう呼び合っていた。君にだけ許していたんだよ」




  花も自信を失うほど甘い香りを醸し出す二人の会話は、終わることがない。




「ふふ、ヨハネ。楽しい思い出がたくさんありますわ」




  思い出話を一つする度に「どうしてあのときもっと強く君を推さなかったのか後悔している」と言う。そして次は肩を抱き、また思い出話に興じる。



  ヨハネセンは、アントローサ公爵の話に乗って身分をオリバール・ルート子爵と偽り、ヘシャス・ジャンヌに会いに来た。



  先にコルネリアとアントニートがヘシャス・ジャンヌに会って、楽しく巧みな会話からヘシャス・ジャンヌの男性関係を聞き出そうとしたが、ヘシャス・ジャンヌが品格の確かな慈悲深い女性であることを証することになった。



  ヨハネセンは躍り上がって喜びたい気持ちで、ずっと抱き続けていた恋心のままにヘシャス・ジャンヌの前に現れたのだった。



  ヘシャス・ジャンヌは幼い時よりも透き通るように白く美しく、ヨハネセンは一目まみえただけで二度目の恋に堕ちた。一晩中語り明かしても尽きない。



  朝が来る頃、ヨハネセンはヘシャスの髪の毛を手に持って口づけした。




「まあ、ヨハネ……」

「愛している」




塔に蔓薔薇が這い延びて
甘く高貴な香りを
振り撒いているのだわ……




  ヘシャス・ジャンヌは溶けるような目でヨハネセンを見つめる。




*****




  明け方近くになっても、ジグヴァンゼラは夫人たちに囲まれながら微笑んでいた




「ザカリー伯爵、今夜の宴席は楽しませて頂きました。本当に素晴らしいお心遣いを堪能させてもらいましたよ」




  ジャガレット伯爵の鶴の一声で、先ずは女性陣が並んで小さくカーテシーを行って退場し、次に男性陣が握手を求めて挨拶のハグを交わした。





「ゆっくりお休み、我が弟よ」





  ジグヴァンゼラは驚いてボランズ伯爵を見た。温かな眼差しが注がれている。頬が自然と緩む。





「嬉しいお言葉です。心から」

「良いんだよ、礼など。明日もあるさ」





  気のおけない兄のようにざっくばらんに話すボランズ伯爵に、周りも倣って温かな輪ができ、その輪がばらけて立ち去った。



  リトワールが足早に近づく。





「異変が起きたようです、旦那様」

「異変とは」





  余韻が別のものに変わる。





「ルネが……」

「ルネっ。ルネがどうした」





  ジグヴァンゼラは、夕食の席に着く前に貴族らしい絢爛豪華な衣装に身を包んだルネを見て驚愕に固まったことを思い出した。




死神ルネ……
待っていたぞ、死神
隙を見てお前を必ず仕留める




  その時、ルネはジグヴァンゼラの顔にふっと白い粉を掛けた。ジグヴァンゼラが口を開いた瞬間だったから、口の中にかなりの量が入った。鼻からも吸い込んだ。



  ジグヴァンゼラは咳き込んだが、暫くして、柔らかい綿の上を歩いているような感覚と、気持ちが明るく高揚するのを感じた。



  ジグヴァンゼラは、表情を変えたリトワールが面白くて、もう一度その焦ったような顔が見たくてふらついてみたが、リトワールの差し出しかけた手を思わず払いのける仕草をした。



  それでも罪悪感はない。ふわふわしてもう一度だけ、今度は違う方法でからかってみたくなる。口の端しが弛む。



  その感覚は今夜のジグヴァンゼラに支配的な影響を与えて、女関係以外は何でもできるような気がする。



  ジグヴァンゼラは「剣を持て」と言った。リトワールがザカリー警備兵に剣を求めてその剣を手渡すと、ジグヴァンゼラは「ルネは何処だ」と強い口調で聞く。



  リトワールが先に立って案内する傍らを飛ぶような勢いで二階に駆け上がり、リトワールを追い越した。リトワールも急いて二段飛びに駆け上がる。二人の勢いに驚いたアネットも後を追った。



  二階の部屋に飛び込むと、縄で縛られて網を打たれたルネの姿があった。



  眼窩の青くくすんで隈になった様は死神そのものだが、網の中で縛られて崩折れた格好はもはや死んだかとシグヴァンゼラを落胆させた。



  それでも、シグヴァンゼラはルネの傍らに両膝をついて剣を逆手に振り上げた。






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