君たちが贈る明日へ

天野 星

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第三章 二重の世界

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「絵美」
「何、お母さん」
「きちんと薬は飲んだの?」

 母が大きなビニール袋を指差して問う。

「さっき飲んだよ。きちんと飲まないと先生に怒られるし」

 キッチンの丸テーブルにあるノートパソコンと向き合いながら返事をする。
 引きこもり生活を始めてからの私は、パソコンばかり見るようになっていた。一人だけの世界に浸ることができる精密機器は、今の私にとって唯一の友人だ。

「もうすぐご飯できるから、そろそろパソコンやめなさい」
「はあい」

 言われた通りにパソコンを片づけてご飯の準備を手伝う。こうやって何かを一緒にできるようになったのは最近のことだ。

「お父さんは今日も遅いの?」
「さっき会社に泊まるって連絡があったわ」

 父は、私が病気になって最初こそ協力的だったが、二度、三度と入院回数が増えるたびに、仕事を理由に家族から逃げるようになった。
 母は勤めていた会社を退職し、今は専業主婦をしている。そのことも父が逃げ出すことに拍車をかけたのだろう。家のことは全て母に任せ、会社という世界に引きこもるようになっていた。
 父のために用意された食事はラップをかけられ、私か母の朝食になるのが常だ。
 愚痴一つこぼさず、一人で全てをこなす母に心を許せるようになったのは必然だった。
 未だに食の細い私のために、わざわざ別メニューを作ってくれる母には本当に感謝している。あまり自宅に帰らない父だが、好きなことができているのは、お金を稼いでくれている父のおかげだということも理解している。

「お父さん、会社に泊まること多いね。仕事、そんなに忙しいのかな」

 最後に見た父の姿を思い出して、魚の煮付けを食べている母に訊く。

「仕事のことはよくわからないけれど、大変なんでしょうね」

 曖昧な返答をして笑う顔は翳っていて。世間の子どもと同じ道を歩んでいれば、苦しそうな顔をさせずに済んだのかと思うと、何も感じなくなっていたはずの胸が痛んだ。

「お母さん、ごめんね」
「あなたが気にすることじゃないのよ」
「うん……」

 食べ物を咀嚼する音だけがキッチンに響く。

「ご馳走様」

 洗い物をしてからパソコンを持って自室へ戻ると、日課となっているサイトを開いた。

『さちこの怠惰な毎日』は、私が運営しているブログのタイトルだ。
 幸せな子という意味を込めて〝さちこ〟と名付けた。現状からは願っても叶わない、夢の世界を生きるもう一人の私。液晶画面の向こう側で息をしている真実の姿だ。
 今の私は本当の私じゃない。この世界から逃げ出したい。直視することのできない現実から逃避するために始めたブログ。
 最初は騙していることに罪悪感を抱いていたけれど、多くの人に価値を見いだされたことによって次第に薄れていった。絶望が生み出した希望の象徴は、現実の私を掻き消すように、その存在を確固たるものにしている。
  誰からも愛されて、誰からも羨ましがられる幸子。顔も見えない赤の他人だからこそ吐ける嘘だった。

『6月2日
 今日は雨が降っているので、外に出られなくて残念。でも、部屋で好きな音楽を聴いたり、好きな本を読んだりして過ごす時間は最高に贅沢な時間だと思う。皆は雨の日はどう過ごしていますか?』

 現実の私は雨で調子が悪くて一日中寝込んでいた。現実との温度差を思うと、胃の辺りがムカムカしてきた。食べたものが消化されていく感覚が気持ち悪い。すぐにでも吐き出したくてそっと襖を開けて母がいないことを確認すると、目的の場所へ一目散に走った。
 勢いよく扉を開けて、指を突っ込んで吐く。何度目になるかもわからない行為を胃液になるまで繰り返した。
 トイレから這い出るようにして台所で口を漱いでいると、お風呂から上がったばかりの母と視線がかち合った。

「顔色が悪いようだけど、どうかしたの? もしかして、また吐いたの?」
「もうそんなことしないよ。喉が渇いたから水を飲みにきただけ」

 勘付かれないように懸命に隠し通そうとするも、すぐに不調を見抜いたようで。

「いつからなの」

 険しい声が鼓膜を揺らす。

「…………」
「はあ……もういいわ。明日病院に行きましょう」
「…………」
「今日は寝なさい」
「……うん」

 沈んだ気持ちのまま部屋に戻ると、六畳の和室に敷かれた布団に包まった。そして、ひたすら時が過ぎるのを待った。
 襖の向こうでは母が誰かと言い争っている。恐らく父に電話したのだろう。帰ってこないことに怒っている。私がこうなると両親は必ず喧嘩をする。
 いつまでも鳴り止まない罵詈雑言の嵐から逃れるように、耳を塞いで無理矢理瞼を閉じた。
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