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第1章

『トイレが近い男』

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 勇志と時雨がタウレコに戻ると、駅まで続いていた長蛇の列は、しっかりされていた。
 運営スタッフさんたちの努力の賜物か、ガップレファンたちの民度の高さなのかは勇志には分からなかったが、後者であって欲しいと、当事者としては思わずにはいられなかった。

 スムーズに会場入りをした勇志と時雨は、2列目の1番前に運良く場所を確保できた。ここは1列目より段差があり、その境目には転倒防止の手すりが付いているため、この会場の中でもかなり好条件の場所と言えるだろう。
 とは言っても、スタンド席特有の『ぎゅうぎゅう詰め』は健在で、左右後方からの人の重みと圧力は、満員電車に乗っているような気分を味わえる。
 それに薄暗い地下のライブハウスということもあり、非日常感と緊張感が絶えず時雨を襲っている状態だった。

「こ、これがライブというものなのね、凄い圧だわ……」
「俺も初めてこれを味わった時は圧倒されたなー(今は違う意味で圧倒されてますけどね)」

 そう思いながら勇志は、身体の右半分から伝わる時雨の、スポーツ女子特有の張りのある柔らかさと上品な香りにされていた。

(何だろう……、嬉しいんだけど、すごく悪い事をしているような罪悪感がある……)

 本来なら近づく事は叶わぬ『高嶺の花』
 誰も近づく事を許されない『鋼鉄城』

 それを肌身で感じているのだ、嬉しい気持ちより罪悪感が勝ってしまうのは頷ける。
 しかし、当の本人はそんなことよりも、初めてのライブハウスでの『鮨詰め状態』、大好きなガップレの『生ライブ』と、脳内の情報量が多過ぎて整理が追いつかない状態だった。左隣の勇志の身体に、自分の胸を押し当てていることも分からないほどに……

 目のやり場に困った勇志は、ステージの方へ目を向ける。既に各楽器のセッティングは終わっているようで、勇志の愛用のエレキも所定位置のギタースタンドに立て掛けてあった。
 メンバーの全員が学生というガップレの楽器の管理は、プロデューサー兼マネージャーの『水戸沙都子』が行なっている。専門のスタッフと搬送業者を専属で雇い、機材搬入からセッティング、撤収まで全てを任せている。勇志たちガップレのメンバーとはまだ短い付き合いだが、既にメンバーたちも信頼するパートナーになっていた。

(しかし、どうやって抜け出そうか……)

 控え室で演奏リストの最終確認と、各スタッフに挨拶回りをする時刻が目前に迫り、勇志はどうにか、この場を穏便に抜ける方法を考えてはみたが、結局思い付かず、「すまん橘、俺ちょっとトイレ行ってくる!」という(?)で強引に抜け出すことにした。

「そう、ここで待ってるから、その、なるべく早く戻ってきてくれる……?」
「ごめん、わかった、頼んだ!」

 逃げるようにその場を後にした勇志は(俺は一体何を頼んだんだろう……)と考えつつ、去り際の時雨の不安な顔を思い浮かべながら、ライブ前にもう一度顔を出そうと決めたのだった。

 急いでライブ会場を出て、そのまま店の裏に回り、しっかりと周りに人がいないかを確認してから、上着をしまい、鞄の中からガップレ活動用のマスクを被って従業員用の出入口へ向かう。スタッフに関係者用のパスを見せてから、握手にも笑顔で応じる。残念ながらマスクで笑顔も見えていないが……
 「ファンサービスは大事よ」と水戸さんが言っていたことを、時間がないのに律儀に実践していた。

「ごめん! 遅れたか?」
 
 と、お面を外しながら精一杯申し訳なさそうな表情を作って控え室に入ると、マネージャー兼プロデューサーの水戸さん含め、勇志以外のガップレメンバー全員がすでに揃っていた。

  部屋の中央にある膝丈ほどの机を『コ』の字に囲むように設置されているソファーの端に座り、ニヤニヤしながら携帯ゲーム機をいじっている『白井翔平』こと、ショウちゃんはいつも通りの光景。
 『林田真純』はスマホに繋いでいるイヤホンを両耳に付け、今日の演奏曲を聴きながら、ドラムスティックを練習用のパッドに叩きつけてリズムを刻んでいる。
 先程、喫茶店で密偵していた『山崎愛也』は、勇志の方へチラチラと視線を送りながら、楽しそうな顔をして携帯をいじっている。おそらく「修羅場なう」とでもつぶやいているだろう。

 そして、最後に目を移した人物、メイク台に向かって座っていた『ミュア』こと、歩美からメラメラと黒いオーラが放たれ始め、ゆっくりとまるでホラー映画のワンシーンのように、こちらに向き直ってきた。

「あわわわわ……!?」

 まるで言葉ににならない恐怖を口から漏らしながら後ずさる勇志に、ズンズンと獲物を追い詰めるように向かっていく歩美。確かに第三者がこの光景を見たならば「修羅場なう」と呟きたくなる気持ちもわかる気がする。

(やばい! こわい! 逃げたい!!)

 当の本人からすれば『終わりの始まり』、または『世界の終わり』、『絶望』以外の何者でもない。

「ふ、ふふふっ……、あははははッ!」
「――なっ……」

 突然狂ったように笑い出す歩美だが、その眼は一切笑っていない。怪しい眼光が勇志を捉えて「決して逃さない」という無言の圧力をかけている。

「随分とお楽しみだったようねえ、入月勇志くん? 」
「――いえ、まったく!これっぽっちもお楽しみではございませんでしたッ! 本当に……!」

 勇志と歩美の距離は数十センチ、背後は壁。完全に逃げ場を失った勇志は「返答次第でいつでもギルティしてやるぞ」というプレッシャーを全身で味わいながら、自身の身の潔白をどう証明するかを必死に導き出そうとしていた。
 
 突然、勇志に歩美の顔が突き出され、いよいよ覚悟を決めたその時……!

「ふーん、まあいいわ」
「え……」
「愛也くんからも『未遂で終わった』と報告を受けていますから、今回はこれくらいで許してあげる」
「い、いいのですか?」
「その代わり……」
「その代わり?」
「次の休日にデートに連れて行くこと。異論は認めません!」
「はいッ! 是非連れて行かせてください、お願いしますッ!!」
「よろしい」

 今回は歩美が早々に折れてくれたおかげで大事には至らなかった。ライブ前ということもあって一応は気にしてくれているのだろう。
 学生といえども、彼らはメジャーデビューをしているミュージシャンだ。悪い雰囲気は音楽に影響する、プロとして半端なものは出せないと考えていた。
 その辺りのことは特に歩美はよくわきまえている。勇志もプロ意識とまではいかないが、半端な気持ちで音楽をしているのではない。
 あの日の約束を果たす為に、『音楽』に対しては真剣に向き合い、真剣に取り組んでいた。

 一件落着に控室の空気も和やかさを取り戻すと、愛也が歩美の背後から軽快に現れ、「シャキーン!」とウインクを勇志に向かって飛ばし始めた。
 おそらく、今回の功労者は自分だとアピールしているのだろう。「歩美ちゃんにお許し頂けたのは、僕のおかげだからね」と聞こえてくるようだ。
 かと言って勇志には愛也を許す気はなく、(貴様には前科もある、よってコチョコチョの刑に処す!)と心の中で誓ったのだった。

「はいはい、話も済んだようだし、ライブの打ち合わせするわよー」

 いつの間に控室に入って来ていた水戸沙都子が、パンパンと手を叩きながら全員をソファーの周りに集めた。

 スーツをパリッと着こなし、端が少し尖った眼鏡を付けて完全に仕事モードの『水戸沙都子みとさとこ
 【Godly Place】のメンバーから『水戸さん』と呼ばれたり、または『水戸お姉様』としている。 
 年齢は34歳で独身。趣味はお酒で、好きな食べ物はスルメ。そんな彼女は知る人ぞ知る【Godly Place】のプロデューサー兼マネージャーであり、さらに言えば【Godly Place】が所属する『ミュージックハウス水戸』の女社長でもあるのだ。
 若くして起業し、生活の全てを仕事の為に費やして来た彼女は、恋人は愚か、婚期すら自分の元に来ず、そのまま通り過ぎようとしていた。もちろん本人は認めてはいないが……
 
 そんな沙都子の諸事情をメンバーたちが知る由もなく(愛也だけは何故か沙都子事情を知っている)もう一度、全員で演奏する曲と順番を最終確認し、MCのタイミングとアンコール曲もしっかり合わせる。
  その後の流れも、一通り水戸さんから説明を受けてミーティングが終わり、後は本番を待つだけだ。

 さて、勇志はどうやって時雨の所に戻ろうかと頭を悩ませていると、真純が「どうせお前のことだからまたゴタゴタに巻き込まれたんだろ」と、呆れ顔で話し掛けてくる。勇志は思わず涙腺が緩みそうなのを堪えながら、真純の肩を何度も叩いた。

 「やはり持つべき者は親友だな、心の友よ!」
「大袈裟だな、勇志は」

 2人が友情を育んでいるその後ろで、翔ちゃんが「リアル女子のどこがいいのか理解に苦しむのですぞ」とかなんとか言っているが、放っておくことにした。

「さてと、ほいじゃあ、ライブ前にトイレ行ってくるわ」
「いってらー」

 結局、これといって上手い理由も思い浮かばず、勇志は時雨に使ったのと同じ正攻法で、控室を後にしたのだった。しかし、勇志は知らなかった。そそくさと部屋を出て行く勇志の姿を訝しんで見ていた歩美のことを……

 ライブの時間も間近に迫り、会場は勇志が抜け出した時より、さらに人が多くなっていた。勇志は時雨の元に辿り着くまでに、予想よりもかなりの時間がかかってしまった。

 「橘、お待たせ! 今戻った!」
「随分長かったわね…… 具合でも悪いの?」

 トイレというには長過ぎる時間を離席して、ライブ初心者の時雨を1人にしてしまったのは、勇志としても心苦しかった。

(1人で不安だから俺を誘って、勇気を出してライブに来てくれたのに、これがガップレのライブでさえなければ、こんな事にはならなかったのに……)

「ちょっとトイレが混んでてね……、それにしても随分と人が増えたな」

 たまらず話を逸らすが、勇志の目は逸れる事なく時雨の顔色を伺っている。少し落ち着いのだろうか、先程よりはまだ幾分か余裕がありそうな表情をしている気がした。
 本当は時雨よりも勇志の方が少し参っていた。
 ステージ上から沢山の人を見るのには慣れてきたが、逆に観客側から人混みを体験することになるとは、想像もしていなかったからだ。基本的にインドア派の勇志には、この人混みは厳しいものがあった。

 (落ち着け俺、橘の心配をしているのに、俺が人混みにあてられてどうする!?それに、この人たちはみんなガップレのファンなんだぞ、ありがたく思わなければ……!)

「もしかして入月くん、あなた人混み苦手なのかしら?」
「ぐっ……」

 表情に出したつもりはなかったが、時雨に見透かされていて言葉に詰まる。

「――正直に申し上げますと、苦手でございますね……」

 まさか自分の方を逆に心配されてしまった勇志は、恥ずかしさと申し訳なさで変な言葉遣いになりながらも、正直に話すことにした。

「変な敬語になってるわよ?」

 そんな勇志の気持ちも知らずにはっきりと冷淡に突っ込む時雨だが、もう勇志にはそれが鉄仮面、『偽りの顔』であることが分かっている。もはや清々しさを感じてしまう程に……

「それより橘は大丈夫?こういうとこ慣れてないでしょ?」

 だから、こんな背中が痒くなるような言葉を、冷淡な突っ込みの後に平気で返せるのだ。

「お、思っていたより大丈夫ね。それにあなたがそんな調子だというのに、私まで不安になっていたら困るでしょ?」

 そんな勇志の態度に、出だしの言葉が詰まってしまった時雨だが、その後はいつもの調子で言葉を返した。

「確かに困るけど、そん時はお互いに励まし合えばいいんじゃないか?」
「え……?」
「不安な時、しんどい時に頑張れる橘は凄いと思う。けど、不安なものは不安だし、しんどいものはしんどい。素直にそう言ってくれた方が、橘をもっと近くに感じるんだけどな」
「――どういうこと?」

 新手の口説き文句かと疑った時雨だったが、勇志の様子はどうも違う。ただ思った事を素直に言葉にしているような、言葉にしながら考えを整理しているような感覚、まるで初めて聴く曲に歌を載せるような……

「あー、ほら!橘って普段何か壁を作ってるというか、近寄り難いというか、何か住んでる世界が違うような気がしてたから……」

 時雨の訝しげな視線に気付いたのか、勇志が突然に弁解を始める。「住んでいる世界が違う」という考え方は多分正解。それは時雨自身が自分以外の相手に感じていたことだからだ。

「今日、短い間だけど橘と一緒に過ごして、何か変な言い方だけど、『同じ高校生』だったんだなって……」
「…………」
「ごめん!何か変なこと言って……」

 一体何だと思われていたんだとは思わない。自分自身で『仮面』を被り、人と距離を置いていた。きっと時雨のことを、勇志と同じように考えている人は少なくないのだろう。
 けれど、他の誰でもなく勇志に「どこか違う」と思われていたことは、時雨にとってはショックを受けるのに十分な要因だった。

(彼のようになりたい……)

 まるで羽が生えているようにコートを縦横無尽に駆け回る姿。目で追うことはできても身体が付いていかない。残りの9人は彼の引き立て役のように、そのコートでは彼が主役だった。彼だけが輝いていた。
 
 その勇志にまで悪い印象を与えていたことに、目の前が暗くなる。

「はあ、これからガップレのライブだというのに……」

 (しまった!)という言葉は何とか飲み込んだ時雨だが、心の声が完全に口から出ていたことに、自分自身でショックを受けた。

「――ほんとゴメン!余計なこと言って!」

 隣にいる勇志も、いよいよ本当に悪いことをしたと焦り始め、ただひたすらに謝り続けるが、勇志のせいではない。それなのに、返す言葉が一向に出てくる気配もなかった。

「その……、驚かないで聞いて欲しいんだけど、実は俺、今日のガップレのライブのセットリスト知ってるんだ!」
「え!?どうして?」
「それはその、ちょっとした伝手つてがあって……」

 我ながら苦しい言い訳だなと思いながら、勇志は話を続ける。言ってしまったことは仕方がない、ここで何を言っても時雨には伝わらないと気付いてしまったから……

「とにかく!ガップレの最後の曲、橘に聴いて欲しいんだ!」

 『言葉』ではなく『歌』なら、きっと時雨の閉ざした心の扉をノックすることができる。

(もう俺にはそれくらいにしか、橘に返せることなんてないんだ)

 ガップレを好きになってくれた時雨、初めてのライブで怖いはずなのに、一歩踏み出して来てくれた時雨に、勇志は(『音楽』で答えよう、それしか俺にはできないから)と心に誓った。

 しかし、自分がガップレのユウだと明かせない現状、このような回りくどい言い方になってしまう。『鉄仮面』と言われた時雨でさえ、「こいつ何言ってんだ?」という表情を隠しきれない。

「こ、ここまで来たのだから、もちろんちゃんと聴くけど……」

 ごもっともである。

「そうだよな、何言ってんだろうな俺!」
「えぇ……」

 この緊張感の中で、ついに頭までおかしくなったのか、と誰もが思うだろう。

「じゃあ、俺は行きます!」
「え、どこに!?」
「トイレ!」
「またなの!?」
「ごめーん!」

 勇志は苦悶の表情を浮かべながら、確かな覚悟を持って、足早に裏口に回るのであった。
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